多紀郡
たきぐん
県域の東部に位置する。平成一一年(一九九九)篠山町・丹南町・西紀町・今田町の四ヵ町は合併により多紀郡域すべてを市域とする篠山市となった。旧丹波国の南西部にあり、北西は氷上郡、北は天田郡、北東は船井郡、南は摂津国有馬郡・川辺郡・能勢郡と接する。北部に三嶽(七九三・四メートル)・小金ヶ嶽(七二五メートル)、東部に三国岳(五〇八メートル)・櫃ヶ嶽(五八二メートル)、南部に大野山(七五三・五メートル)・弥十郎ヶ岳(七一五メートル)、西部に黒頭峰(六二〇・六メートル)・白髪岳(七二一・八メートル)などの山嶺が連なり、篠山盆地を形成している。ほぼ中央を加古川支流の篠山川が西流し、西部を真南条川・田松川が合流して武庫川の流れとなる。郡名は「和名抄」に訓を欠くが、「多癸」「多貴」などとみえるので(正倉院文書)、タキであろう。古代の表記は多紀が多いが、室町期には多記郡(酒井和裕家文書)、戦国期には多喜郡(高仙寺文書)、江戸時代には多気郡なども用いられる。
〔古代〕
篠山盆地東部には丹波国で最大の前方後円墳である雲部車塚古墳が築かれ、盆地中央部にも丹波国最大の円墳新宮古墳があり、有力な豪族のいたことがうかがわれる。奈良県明日香村出土木簡に「旦波国多貴評」とあり、浄御原令制下にタキノコオリが成立していた。また神亀三年(七二六)の山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳(正倉院文書)には戸口が「丹波前国多貴郡」「但波国多癸郡」にいるとの注記がみられ、山陰道を通じて山背との交流を物語っている。郡衙は現在の地名から郡家付近とされ、隣接する東浜谷遺跡からは「郡」の刻印、「厨」の墨書のある土器が発見されており、有力な候補地となっている。
「和名抄」高山寺本には当郡に草上・宗部・真継・河内・神田・榛原・日置の七郷を記載し、東急本はこれに加えて余戸郷を記している。余戸郷を加えれば八郷で、養老令の基準では中郡となる(「令義解」戸令定郡条)。寛弘六年(一〇〇九)一〇月二八日の東寺伝法供家牒(神田文書)には「多紀西県河内郷」とみえるので、この頃には郡域が多紀東県・西県に分れていたらしい。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば、郡衙には伝馬が置かれ、山陰道には小野駅、長柄駅が設置されていた。また同書神名帳によれば大社二座・小社七座の九座(八所)の神社があった。すなわち櫛石窓神社二座(並・名神大社)・神田神社・川内多々奴比神社二座・大売神社・佐々婆神社・二村神社・熊
神社である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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