北は丹後・若狭国、東北は近江国、東は山城国、南は摂津国、西・西南は播磨・但馬国に接し、海に面していない。国名は「和名抄」が「丹波
国府は「和名抄」に「国府在桑田郡、行程上一日、下半日」とあり、畿内に最も近い桑田郡にあったが、その明確な位置は不明。国分寺・国分尼寺や一宮
を記し、刊本では桑田郡に横作・佐伯二郷、天田郡に神戸郷、何鹿郡に余戸郷がそれぞれ加わる。「延喜式」神名帳に記された神社は桑田郡一九座、船井郡一〇座、天田郡四座、何鹿郡一二座で、丹波国全体では七一座に達するが但馬国・出雲国などに比べてかなり少ない。
ついで租税関係では、同書(民部下)に年料舂米が「丹波国
とあり、「小許春羅」は他にみえず、丹波国の特産物であったらしい。諸国正税については同書(主税上)に「丹波国正税廿三万束、公廨廿五万束、国分寺料四万束、文殊会料二千束、円成寺料一千束、鶏園寺料一千束、修理池溝料三万束、救急料四万束、修理駅家料二万束、官舎料四万束、造院料一万束」とあり、山陰道のうちでは費目は最多で、とくに山陰道八ヵ国中でただ一国だけ修理駅家料が立てられていることは注目される。
現兵庫県の中央部東端に位置する。北は丹後国・若狭国、北東は近江国、東は山城国、南は摂津国、西と南西は但馬国・播磨国に接し、海に面さず山の多い地である。古代は山陰道の東端に位置し、律令制下では初め
「古事記」に旦波、「日本書紀」に旦波・丹波、神亀三年(七二六)の山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳(正倉院文書)にみえる但波国・丹波前国など各種あるが、奈良県
上記の開化紀・垂仁紀にみえる皇妃の伝承が、兵庫県に属する多紀・氷上二郡に関係するかどうかは不明であるが、ヤマト王権がこの地域に勢力を伸ばしたことは、天皇・朝廷と関係の深い名代・子代の部や職業をもつ部の分布から推定できる。多紀郡には日下部・日置部(日置郷より推定)・猪名部・楯縫部(「延喜式」神名帳所載の川内多々奴比神社より推定)、氷上郡に春日部(春部郷より推定)、語部・楯縫部(式内社楯縫神社より推定)が存在する。瓊瓊杵尊に従って高天原より天下ったとされる櫛石窓神(古事記)を祀る式内社の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。丹後とあわせ丹州という。現在の京都府中部,兵庫県東部。ほとんどが丹波高地とよばれる山地から成り,平地は亀岡盆地,福知山盆地などごく少ない。
山陰道に属する上国(《延喜式》)。国名は,《古事記》では旦波,丹波が併用されており,《日本書紀》ではすべて丹波である。藤原宮跡出土木簡では例外を除いてすべて丹波であるから,おそらくは大宝令の制定・施行とともに丹波に統一されたと思われる。その名の由来は,《和名類聚抄》が〈太邇波(たには)〉と訓(よ)んでおり,田庭の義であろう。律令制下では桑田,船井,多紀,氷上,天田,何鹿(いかるが),加佐,与謝,丹波,竹野,熊野の11ヵ郡を統括したが,加佐郡以下の5郡は713年(和銅6)に分割されて丹後国となった。畿内に接し,山陰道最初の国であるため文献への登場は早く,開化天皇は丹波竹野媛(ただしこの竹野はのちの丹後国)を妃としたという。史実としては信じられないものの,崇神天皇が丹波(山陰道全体を示す)に四道将軍を派遣したこと,安閑天皇の時代に蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)が設けられたこと,さらに武烈天皇の後継者として大伴金村が桑田郡から倭彦(やまとひこ)王を擁立しようとしたことなどと考え合わせると,丹波国は早くから大和の王権の支配下に入っていたと考えることができる。律令時代も同様であり,畿内に接する国として播磨・近江と並んで重要視された。丹波国の掌握は山陰道の掌握につながり,奈良時代に反乱を起こした藤原仲麻呂が都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使としてこの国を抑えようとしたのも,そのためである。《万葉集》には街道としての山陰道が丹波道(たんばぢ)と詠まれているが,これも丹波国が山陰道において重要な意味をもつことを示している。長岡京・平安京が営まれてこの国はさらに都城と近くなり,重要性を増した。宮城の修築などにしばしば丹波の人々が動員されてもいる。行政の中心は桑田郡(現,亀岡市)であり,国府・国分寺・国分尼寺・一宮などはすべて同郡にあった。
執筆者:井上 満郎
鎌倉幕府開創直後の守護設置は明徴がないが,1221年(承久3)承久の乱後は執権の弟で六波羅探題の北条時房が守護で,寛喜年間(1229-32)ごろには子息時盛が守護を譲られ,モンゴル襲来当時までその一族が守護職を世襲したと推定される。しかし84年(弘安7)6月,時盛の孫時国が謀反の嫌疑で守護を罷免されたうえ処刑され,この一族は没落して守護はまったく別人に補任されたようである。下って1306年(徳治1)9月以降には六波羅探題の南方(みなみかた)の地位にある人物が当国守護を兼管しており,以後鎌倉末に及ぶ。平安末期以来,当地は山陰道の門戸で京師の後背でもある要衝のため,北条氏は一族の要人を当国守護とし,ことに鎌倉後期は摂津・播磨と並んで当国を探題の直轄国としたのである(摂津・播磨は探題北方)。
承久の乱後,大量の東国御家人が新補地頭として当国の諸荘郷保に配置された。すなわち武蔵大里郡久下郷の久下(くげ)氏が氷上郡に,武蔵片山郷の片山氏が船井郡に入部し,他にも桑田郡の中津川氏,天田郡雀部(ささきべ)荘地頭大宅氏,多紀郡大山荘地頭の中沢氏ら,いずれも東国から入部した御家人であり,とくに久下・片山・中津川氏らはかなりまとまった古文書を伝えている。当国は京都に最も近接し,禁裏御料,摂関家領,大社寺領など権門の膝下荘園が多く,王朝本所権力が依然として強大であり,在地領主制の進展は阻止され,室町末期まで有力土豪が出現しなかった。なかでも桑田郡山国荘(禁裏御料)は武士らしい武士が存在せず,16世紀に入って土豪宇津氏が台頭するまで武家の侵略を経験せず,年貢額は室町期にピークに達した。しかし京都から遠い多紀郡の大山荘等では地頭中沢氏の蚕食に悩まされている。
建武政権下では,後醍醐天皇の隠岐脱出,船上山擁立に功のあった千種忠顕(ちぐさただあき)が当国の国司に任ぜられたが,守護については所見がない。南北朝期に入るとおおむね北朝・幕府方の勢力圏となっているが,一宮出雲大神宮の祠官田所氏の家には宮方発給の南朝年号文書が伝えられている。足利尊氏が西下した1336年(延元1・建武3)2月に幕府は国大将として足利一門の仁木頼章(にきよりあき)を派遣し,同年10月以前に頼章は丹波守護をも兼任している。しかし丹後に隣接する何鹿・天田の北部2郡は丹後守護上杉朝定が分郡守護として支配していた。次いで43年(興国4・康永2),頼章は守護代の荻野朝忠が南軍に寝返った咎で守護を罷免され,丹後守護の山名時氏が当国守護をも兼管して,ここに北2郡の分郡が廃された。山名氏は足利氏の準一門で,当時丹波・丹後のほか伯耆・出雲の守護を兼ねていた。戦国末期に至る山名氏の山陰支配は,ここに端緒を迎えたのである。しかし山名時氏は観応の擾乱(じようらん)で足利直義方に属したため51年(正平6・観応2)8月京都を没落,当国守護には仁木頼章が還補された。だが頼章の在職も束の間で,同年11月には尊氏に扈従(こじゆう)して東下したため丹後守護の高師詮(こうのもろあきら)が兼管し,53年(正平8・文和2)6月師詮敗死後は頼章が上洛して3度目の守護に復職した。頼章没後は猶子の頼夏が守護を継承したが,60年(正平15・延文5)10月には頼夏も罷免,甥の仁木義尹が守護となっている。このように仁木氏は通算19年間当国守護に在職したが,山名氏の侵入によって更迭はなはだしかったため,国人の被官化,闕所地把握や荘園の接収など領国経営を十分に行えなかった。
63年(正平18・貞治2)9月の山名時氏の幕府帰参は山陰道の守護配置を一変し,時氏の旧主足利直冬が丹波・丹後の守護に補任された。しかし直冬は幕府帰参を肯(がえ)んぜず,64年時氏が改めて当国守護に就任する。以後南北朝末に至る山名氏の丹波支配の間に領国経営は大いに進展し,小守護代・郡奉行の配置,半済地の家臣団給付,荘園押領・守護請など在地支配は強化され,荘園領主は安堵・還付の見返りに莫大な礼銭を支払って知行を維持した。山名時代の守護所は山陰道からやや離れた船井郡の氷所(ひどころ)(現京都府南丹市,旧八木町)と推定されている。なお南北朝期には,顕密旧仏教系寺社領の衰退に対し,五山禅院の荘園が急増し,とくに天竜寺領は弓削・六人部(むとべ)・吾雀(あすすぎ)・瓦屋・豊富各荘のように大堰(おおい)川,由良川沿岸の肥沃な平野部に散在した。
1391年(元中8・明徳2)末に明徳の乱が勃発して,丹波守護山名氏清は敗死。摂津・讃岐守護の細川頼元が守護として入部し,戦国末に至る百数十年の細川氏の丹波支配が始まる。細川氏治下に領国機構はさらに整備され,守護代の下に2~3郡を管轄する小守護代が常設され,各郡には郡奉行が置かれ,使節遵行(じゆんぎよう),段銭徴収,検断など領国事務をつかさどった。しかし細川氏は摂津・和泉など他の畿内分国におけると同様,当国でも四国出身の被官のみを内衆に用いるという国人不登用策を貫いたので,分国機構から締め出された生え抜きの土豪たちの反発を招き,国人一揆が頻発した。早くも1429年(永享1)には国一揆が蜂起し,守護代香西元資(こうざいもとすけ)は更迭され,以後戦国末まで内藤氏が守護代を世襲した。49年(宝徳1)にも奥郡(天田郡,氷上郡)で土一揆の蜂起が伝えられ,多紀郡の八上(やかみ)(現,兵庫県篠山市),船井郡の八木など郡代の在庁は要塞化して城郭が形成されている。公家の中原康富はこのころ天田郡奉行堀孫次郎の居館を訪ねており,室町期の郡代在庁に関する珍しい記録を残している(《康富記》)。
応仁の乱を通じて細川氏は他の守護家のように内訌を起こさなかったため,領国は比較的安定していたが,79年(文明11)には内衆内藤氏と一宮氏の抗争が起こり,82年内藤氏は守護代を更迭され,93年(明応2)まで上原氏が守護代を務めた。しかしこの交替はかえって領国を混乱させ,山城国一揆の影響もあって89年(延徳1)9月,船井郡に大規模な国一揆が勃発した。この一揆には〈丹州牢人〉と称された内藤方の浪人や,〈無足衆〉と呼ばれた荻野・須智(しゆうち)・久下ら外様の国人たちが多く参加し,須智城(現京都府船井郡京丹波町,旧丹波町)や位田(いでん)城(現,綾部市)に拠って細川・上原両氏の包囲軍に激しく抵抗し,93年3月に至ってようやく鎮圧された。この事件は同年4月の明応の政変に影響を与え,山城国一揆とともに当時の支配層に恐怖感を植えつけたのである。この国一揆で須智氏,久下氏ら有力国人の多くは弾圧され,あるいは没落し,わずかに荻野氏ひとりが氷上郡に勢力を保った。
国一揆鎮圧後まもなく上原氏も細川内衆の対立から没落し,守護代には内藤氏が還補された。しかし守護細川政元に実子がなかったことから猶子澄之と澄元の間に内紛が生じ,内衆も両派に分かれて争い,1506年(永正3)澄之の守護就任を機に領国は解体状況に陥った。以後細川氏有力内衆のうち守護代内藤氏と多紀郡代波多野氏がそれぞれ八木・八上両城を地盤に割拠し,国人では黒井城(現,兵庫県丹波市旧春日町)に荻野氏が拠った。守護代内藤貞正・国貞の父子は細川氏に再三背いて反復つねなく,やがて口丹波(桑田郡,船井郡)に覇を唱え戦国大名化した。波多野氏はもと石見の国人で,細川氏被官となったのち1526年(大永6)11月,八上城に拠って細川高国に背いたのを機に自立化し,神尾山(かんのおさん)城(現,亀岡市)等を支城として南丹に勢力を養った。49年(天文18)細川晴元と三好長慶の対立によって桑田郡の山間部は晴元派のゲリラ戦基地と化し,八木城も幾度か晴元派の包囲を受けた。53年9月晴元派の三好政勝の猛攻により八木城は陥落,内藤国貞は戦死した。長慶は松永久秀の弟長頼(蓬雲軒宗勝)を丹波に派して八木城を奪回させ,内藤氏を継承させた。これより松永氏の丹波支配が始まるが,永禄初年ころがその全盛期で一時は丹波の全郡に同氏の支配が及んだ。
しかし長頼の軍事力も永続性がなく,64年(永禄7)の長慶の死によって起こった三好政権の内訌の影響を受けざるをえなかった。65年8月氷上郡の荻野直正は黒井城下に長頼を敗死させ,ここに三好政権の丹波支配も崩壊した。以後奥郡荻野氏,多紀郡波多野氏,口郡内藤氏の三者鼎立状態が続くが,75年10月に至って織田信長は丹波征討を決意し,京都代官明智光秀を山陰道の司令官に据えた。光秀らは複雑な山間地形を利用してゲリラ戦を駆使する荻野・波多野両氏に苦しめられたが,78年(天正6)3月荻野直正が病没,翌年5月黒井城を陥し,翌月には八上城を抜いた。同年9月の氷上郡の国領城(現丹波市,旧春日町)陥落によって統一政権は丹波平定に成功したのである。
執筆者:今谷 明
1582年(天正10)明智光秀が滅んだのち,豊臣秀吉は織田信長の第4子羽柴秀勝(次丸)を亀山城(現,亀岡市)に配して丹波一国を統治させ,一時氷上郡黒井城に堀尾吉晴を置いて後見させた。85年秀勝の急死後,豊臣秀勝(小吉)が継いだが5年余で甲斐国へ転封となり,そのあとへ小早川秀秋が入封した。95年(文禄4)岡山への転封後は,前田玄以が5万石で入城し,同時に西丹の押えである多紀郡八上城をも支配した。太閤検地は1587年,94年,96年と3回にわたって部分的に実施され,検地帳は桑田郡小塩村(現京都市,旧京北町),氷上郡棚原村(現丹波市,旧春日町)などに残存している。98年(慶長3)の検地目録(《大日本租税志》)は丹波の総石高を26万3887石と記すが,この石高は正保期(1644-48),元禄期(1688-1704)を通じてあまり変わらず,1834年(天保5)には32万4000余石(《丹波国天保郷帳》)と若干増加をみせている。また1598年の蔵納目録(《大日本租税志》)によると,太閤蔵入地の2.5%があるが,これは丹波の総石高の21%に及び,丹波が豊臣政権の重要な財政的基盤の一つであったことがうかがえる。
1600年関ヶ原の戦後丹波の政治地図は大きく塗り変えられた。西軍の旗頭となった福知山の小野木重勝は亀山で自決,高田治忠,生熊長勝,木下俊定らとともに所領を没収され,藤掛永勝,川勝秀氏らは減封のうえ所替となった。亀山は玄以の死後02年から幕府領代官支配となり,子茂勝は八上城5万石へ移されたが,6年あまりで発狂を理由に改易させられた。これらに対して1600年福知山に有馬豊氏が6万1000石で遠江の横須賀より入封,2年後父の遺領摂津2万石を加増されたのに続いて,08年には八上(のち篠山に移る)に松平(松井)康重が5万石,09年には亀山に岡部長盛が3万2000石で入封し,丹波はこれらの譜代大名によって制圧された。さらに幕府は08年から10年にかけて,藤堂高虎を奉行とし西国大名を動員して亀山・篠山の両城を改築し,大坂の陣に備えた。
大坂の陣後は,従来の譜代3,外様2(柏原(かいばら)・山家)に加えて外様の園部・綾部2藩が成立し,7藩領の総石高は1647年(正保4)の《正保郷帳》によると22万7337石,丹波全体の82%に及んだ。このほか旗本領2万8318石,禁裏御料・二条家領1608石,寺社領220石,その他120石があり,幕府領はわずかに2万2086石である。だいたいこの傾向で幕藩体制が維持された。
丹波国内からは近世大名を生みださなかったので,土豪層や上層名主層は武士化の機会を失い,郷士として村落に根強い勢力を有した。こうした状況をふまえた諸藩は17世紀にも検地を実施し,由良川や大堰川の井堰(いぜき)・溜池などの水利整備や新田開発など積極的に農政を推進した。篠山藩は郷代官制(土豪による年貢請負)から村請制,大庄屋制への地方制度の改革を行った。土豪層の在地化は,桑田郡山国郷の1568年の《名主由緒書》や,桑田・船井郡における1663年(寛文3)《桑田郡船井郡苗字名前帳》にみられるように,領主支配の域を超えて名主(みようしゆ)集団や弓箭(きゆうせん)組をつくった。
特産物として《毛吹草》(1645)丹波の項には,松茸,又旅,独活,大納言小豆,林檎,木瓜実,筆柿,鮎,山椒魚などのほか,畳表,山国椙丸太,蚊帳,柏原墨などがあげられている。桑田郡山国・黒田の材木は秀吉が城郭の普請用として着目して以来有名で,天正から文禄にかけて筏師に〈諸役免許〉の朱印状を出し,保津川の筏師を掌握した。亀山藩も1664年に宇津根(現,亀岡市)に筏運上番所を設けている。中期以降亀山の寒天,何鹿郡梅迫(うめざこ)(現,綾部市)の黒谷和紙も特産品となり,篠山藩農民による摂津灘方面への百日酒造出稼は丹波杜氏として有名。
上方の商品経済の侵食を受けて,慢性的な財政困難をきたしていた各藩は,大坂の商人より多大な借金をする一方,農民に対しては種々な形で増税を試みた。藩札の発行も,1730年(享保15)園部藩,翌年柏原藩,47年(延享4)綾部藩,74年(安永3)福知山藩と相ついで行われた。綾部藩では1840年(天保11)に農政学者佐藤信淵を招いて,財政改革を企てたのは著名だが,結局これらの藩政改革も成功しなかった。これと前後して由良川・大堰川の洪水などによる自然災害・飢饉などと相まって農民の不満は高まり,一揆や打毀(うちこわし)などの多発を招いた。1734年福知山藩,1704-49年(宝永1-寛延2)および71年(明和8)の篠山藩,1752年(宝暦2)の綾部藩といずれも強訴を伴う惣百姓の全藩規模の一揆で,増税や大庄屋の不正などに反抗したものであった。1787年(天明7)米価騰貴が原因で,船井郡や桑田郡南部の農民が酒屋・米屋・庄屋などを打ち毀し,本隊は園部城下に突入した。さらに1860年(万延1)篠山藩,同年8月に福知山藩(市川騒動),69年(明治2)にも篠山藩で,凶作のため打毀が行われた。
18世紀以降諸藩は教育に力を注ぎ,亀山藩の邁訓(まいきん)堂,園部藩の教先(きよせん)館,綾部藩の進徳館(のちの篤信館),福知山藩の惇明館,山家藩の致道(ちどう)館,篠山藩の振徳堂などの藩校が設けられた。好学の福知山藩主朽木昌綱はオランダ商館長,前野良沢らから蘭学を学び,《泰西輿地図説》《西洋銭譜》などを著している。このほか学者・文化人として,亀山に石門心学の石田梅岩,医師山脇東洋,画師円山応挙,桑田郡より陶工野々村仁清などが出ている。
1868年1月山陰道鎮撫使西園寺公望が丹波に入ったとき,桑田・船井郡の郷士層は弓箭組・山国隊を組織してこれに合流し,諸藩は相次いで帰順した。71年11月府県統合のとき,桑田・船井・何鹿3郡は京都府に,天田・氷上・多紀3郡は豊岡県の管轄となったが,76年に豊岡県廃止で天田・何鹿・船井・桑田4郡は山城国8郡とともに京都府に,氷上・多紀2郡は兵庫県に編入した。
執筆者:野田 只夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都府の中部と兵庫県の東部を占める旧国名。山陰道に属す。『和名抄(わみょうしょう)』には「たには」と記す。初め京都府北部の5郡、同じく中央部の桑田(くわた)、船井(ふない)、天田(あまだ)、何鹿(いかるが)の4郡、兵庫県東部の多紀(たき)、氷上(ひかみ)の2郡を含んだが、713年(和銅6)に京都府北部5郡が分立して丹後(たんご)国となってから桑田郡以下6郡をさすこととなった。内陸部の丹波地域は、縄文時代から弥生(やよい)時代にかけて丹後地域に一歩遅れた観があるが、古墳時代後期になると丹波には横穴式石室を伴う大規模な群集墳が発達した。『和名抄』には丹波国府を「在桑田郡、行程上一日、下半日」とする。国分二寺も桑田郡にあった。丹波国式内社71座のうち、桑田郡出雲(いずも)神社、小川月(おかわつきの)神社、船井郡麻気(まけの)神社、多紀郡櫛石窓(くしいわまどの)神社2座の計5座を名神(みょうじん)大社とし、出雲神社を一宮(いちのみや)と称した。古代丹波国の豪族と大和(やまと)朝廷とのつながりを示す伝承は、継体(けいたい)天皇即位前紀に大連大伴金村(おおむらじおおとものかなむら)が「丹波国桑田郡」の倭彦(やまとひこ)王を推戴(すいたい)する物語などにみられる。平安京の時代には都の近隣丹波国の重要性は一段と強まった。早く成立した荘園(しょうえん)には、多紀郡宮田荘・大山荘、船井郡・桑田郡にまたがる桐野牧(きりののまき)のごとく藤原氏の領有するもの、氷上郡柏原(かいばら)別宮・由良(ゆら)荘、何鹿郡私市(きさいち)荘のごとく石清水八幡(いわしみずはちまん)社領、そのほか山城(やましろ)・京都の権門・社寺領が多かった。
南北朝期には、北朝方に加担することが多かった。天田・何鹿2郡は一時丹後守護上杉朝定(ともさだ)の分郡に編入されていたが、山名時氏(やまなときうじ)が丹後・丹波守護を兼任してから廃された。その間、仁木(にき)、高(こう)氏らの守護時代があった。明徳(めいとく)の乱(1391)以降、山名氏が勢力を失い、細川頼元(よりもと)が守護となった。細川氏は小守護代、郡奉行を置いて支配の全きを期したが、大きな国一揆(くにいっき)の勃発(ぼっぱつ)をみた。そののち守護代内藤氏の戦国大名化、多紀郡小守護代波多野(はたの)氏の自立化、氷上郡荻野(おぎの)氏の台頭などをみたが、1579年(天正7)明智光秀(あけちみつひで)らによって丹波は平定された。近世幕藩制時代は亀山(かめやま)(桑田郡)、園部(そのべ)(船井郡)、綾部(あやべ)(何鹿郡)、山家(やまが)(何鹿郡)、篠山(ささやま)(多紀郡)、柏原(かいばら)(氷上郡)、福知山(天田郡)の各藩があった。18世紀以降それぞれ藩校をもった。福知山藩主朽木昌綱(くつきまさつな)の蘭学(らんがく)をはじめ、丹波出身の石田梅岩(ばいがん)(心学)、山脇(やまわき)東洋(医学)、野々村仁清(ののむらにんせい)(陶工)、円山応挙(まるやまおうきょ)(画家)などの名はよく知られる。保津(ほつ)川と由良(ゆら)川は山城と丹後へ、さらに海へ通じる物産の動脈をなした。1871年(明治4)廃藩置県後、亀岡(もと亀山)・綾部・山家・園部藩は京都府へ、篠山・福知山・柏原藩はいったん豊岡(とよおか)県に編入ののち、福知山は京都府に、篠山・柏原は兵庫県に編入された。
物産には丹波栗(ぐり)をはじめ瓜(うり)、松茸(まつたけ)、柿(かき)、煙草(たばこ)などが知られ、また古くから養蚕の盛んな地で、近世には丹波糸問屋も成立した。
[中嶋利雄]
『八木哲浩・石田善人著『兵庫県の歴史』(1971・山川出版社)』
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旦波国とも。山陰道の国。現在の京都府中部・兵庫県北東部。「延喜式」の等級は上国。713年(和銅6)丹後国を分立し,「和名抄」では桑田・船井・天田(あまた)・何鹿(いかるが)・多紀・氷上(ひかみ)の6郡からなる。国府は桑田郡(現,京都府亀岡市)にあり,平安時代末に船井郡(現,京都府南丹市)に移転したとされる。国分寺・国分尼寺は桑田郡におかれた。一宮は出雲大神宮(現,亀岡市)。「和名抄」所載田数は1万666町余。「延喜式」では調は羅・綾・絹・綿,庸は韓櫃(からびつ)・米,中男作物は黄蘗(きはだ)・栗子(くりのみ)など。初期の守護職は不明。承久の乱後,北条時房が補任される。明徳の乱後は山名氏にかわり細川氏が領国支配。江戸時代は譜代の亀山・福知山・篠山(ささやま),外様の柏原(かいばら)・山家(やまが)・園部・綾部の7藩が分立した。1871年(明治4)何鹿・船井・桑田郡は京都府となり,天田・氷上・多紀の3郡は豊岡県管轄となる。76年豊岡県が廃止され,天田郡は京都府,氷上・多紀2郡は兵庫県に編入。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…顕宗天皇は即位前に宮廷の内紛を避けて与謝郡に逃げたともいい,浦島子伝説とあわせて真偽はともかく丹後国独自の文化を発展させながら大和政権のそれをも吸収していたことが知られる。ただし,以上の時代にはいずれも丹後国は丹波国の一部分であり,正確には713年(和銅6)丹波国から加佐,与謝,丹波,竹野,熊野の5郡が分割されて丹後国となったときにはじまる。国名の丹後は大和からみて丹波の後方であるという意味であるが,丹波の国名のもととなる丹波郡は丹後に入れられており,旧丹波国の中心はむしろ丹後地方であった可能性が高い。…
※「丹波国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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