百科事典マイペディア 「正倉院文書」の意味・わかりやすい解説
正倉院文書【しょうそういんもんじょ】
→関連項目粟鹿神社|印章|画指|具注暦|写経所|朱肉|正税帳|東大寺文書|那須温泉郷|寧楽遺文
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東大寺正倉院の校倉(あぜくら)に伝来した8世紀の造東大寺司(ぞうとうだいじし)写経所の古文書。この写経所は、736年(天平8)ころから活動を始めた聖武(しょうむ)天皇の皇后光明子(こうみょうし)の皇后宮職(しき)の写経所が発展したもの。天平(てんぴょう)12年5月1日の願文のある五月一日経(光明皇后願経)など宝亀(ほうき)年間(770~780)までたびたび行われた写経事業に関する文書・帳簿が大部分を占める。当時事務用に反故紙(ほごがみ)を用いて紙を節約することが多かったので、写経所の文書・帳簿にも、政府から払い下げられた戸籍(大宝(たいほう)2年〈702〉御野(みの)・筑前(ちくぜん)・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)国、養老(ようろう)5年〈721〉下総(しもうさ)国)、計帳(天平年間〈729~749〉の山背(やましろ)国など)、正税(しょうぜい)帳(天平年間の大倭(やまと)国など)などの官文書や、法華寺(ほっけじ)・興福寺・石山寺などの造営文書などさまざまな紙が利用されており、紙背(しはい)文書(第一次文書)として残っている。
正倉院文書は、正史や律令(りつりょう)では知りえない、8世紀の地方行政、家族、建築、手工業、流通経済、社会生活についての具体的な史料を提供している。正倉院文書が校倉に納められて以来、初めて整理され世間に知られるようになったのは1833~36年(天保4~7)の開封修理の際である。そのとき穂井田忠友(ほいだただとも)は二官八省の文書、筆跡などを抜き出して正集45巻に整理した。残された文書は、その後1875~1904年(明治8~37)にかけて、続修50巻、続修後集43巻、続修別集50巻、続々修440巻2冊、塵芥(じんかい)39巻3冊に整理され、合計667巻5冊に編集された。文書総点数は約1万点ともいわれる。その大部分は『大日本古文書』に翻刻され研究に利用されている。
なお、正倉院にはほかに、献物帳、平安前期の宝物の出納帳、丹裹(にづつみ)文書(丹の包紙に使われた反故文書)が伝来し、8世紀の荘園(しょうえん)絵図やさまざまの器物の墨書銘などの文字資料も多い。また、明治初年、東大寺印蔵から移された東南院(とうなんいん)文書112巻(8世紀の荘園文書多数を含む)も正倉院に収められている。
[石上英一]
『竹内理三編『寧楽遺文』全3巻(1963・東京堂出版)』▽『正倉院事務所編『正倉院の紙』(1970・日本経済新聞社)』▽『正倉院事務所編『正倉院の書蹟』(1964・日本経済新聞社)』▽『松島順正編「正倉院の書跡」(『日本の美術105』1975・至文堂)』▽『土田直鎮「正倉院文書について」(『国学院大学日本文化研究所紀要』41所収・1978・国学院大学日本文化研究所)』▽『皆川完一「正倉院文書について」(国立歴史民俗博物館編『正倉院文書展』所収・1985・歴史民俗博物館振興会)』
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
東大寺の正倉院に伝来した8世紀の天平~宝亀年間を中心とする写経所の事務帳簿群。宮内庁正倉院事務所管理。現在は正集45巻,続修50巻,続修別集50巻,続修後集43巻,塵芥文書39巻3冊,続々修440巻2冊に整理されている。大部分は反古として政府から払い下げられた公文(くもん)の紙背を再利用したもので,その公文には戸籍・計帳・正税帳などがある。「大日本古文書」25冊に翻刻され,関係するものとして「正倉院文書目録」,「正倉院古文書影印集成」正集・続修,「正倉院文書拾遺」がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…それゆえ,紙背文書は意識的に保存すべきものとして伝わった通常の文書とは異なる性格を持ち,その時代の社会の実相をより直接的に伝える貴重なものが多い。 《正倉院文書》中の戸籍,計帳,正税帳等の奈良時代の公文書は,朝廷でほごとされたものが造東大寺司の写経所に下付され,写経所の文書として利用されたために伝来したもので,代表的な紙背文書である。検非違使関係の文書を多数伝える〈三条家本北山抄紙背文書〉や讃岐国戸籍や明法関係文書のみられる〈九条家本延喜式紙背文書〉は,平安中期の紙背文書として著名であり,《中右記》《兵範記》をはじめ鎌倉時代の《民経記》(経光卿記),《勘仲記》(兼仲卿記),《実躬卿記》,南北朝時代の《祇園執行顕詮記》《師守記》,室町時代の《満済准后日記》《実隆公記》《言継卿記》など,貴族・僧侶の日記は,みな豊富な紙背文書を持っている。…
…聖武天皇が書写させた紫紙金字の《国分寺経》(《紫紙金字経》)はその代表的なもので,縦長の欧法の字形は正方形に近くなり,潤いを帯びた線質は唐経には見られないところである。 写経以外の書としては《正倉院文書》と木簡を忘れてはならない。これらには当時の知識階級の日常の書体がみられるからである。…
…梶野が奈良奉行になると居を奉行所の中に移し,33年(天保4)より36年までの正倉院宝庫の修理の際に宝物の調査に従事した。《正倉院文書》正集45巻の整理と《東大寺文書》の調査により,各種の写本を作って流布させたことは,奈良時代の古文書をはじめて紹介したものとして功績は大きい。47年9月19日京都で没。…
※「正倉院文書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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