宮田宿(読み)みやだしゆく

日本歴史地名大系 「宮田宿」の解説

宮田宿
みやだしゆく

[現在地名]宮田村

延喜の官道の宮田駅以来の交通の要地であるが、宮田宿が創設されたのは五街道制定以後伊那往還の宿として町割されたものと考えられる。南の上穂うわぶ宿(現駒ヶ根市)より大田切おおたぎり川を越えて一里、北の伊奈部いなべ宿(現伊那市)へは二里。文久二年(一八六二)の高遠領分宿々要員調査表(藤沢村史)によれば、宿高一千三〇一石七斗五升七合、家数五七軒、人口二四六人、宿役人一六人、伝馬備人足一八人、馬士一三人、馬二五匹、大田切川越人足一三人とあり、高遠領内八宿のうちでは宿の経営内容は大きく、宮田村の検地は宿の営業ぶりで行われたと伝えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報