宮田村(読み)みやたむら

日本歴史地名大系 「宮田村」の解説

宮田村
みやたむら

[現在地名]宮田町宮田

現宮田町の南端部、遠賀おんが川支流の犬鳴いぬなき川中流域、八木山やきやま川および倉久くらひさ川との合流点付近から笠置かさぎ山の北麓に位置し、村内を犬鳴川・八木山川が流れる。東は上大隈かみおおくま村・磯光いそみつ村、南は穂波ほなみ庄司しようし村・相田あいだ村・建花寺けんげいじ(現飯塚市)、西は金生かのう村・原田はらだ(現若宮町)、北西は長井鶴ながいづる村、北は四郎丸しろうまる村、北東は本城ほんじよう村。「みやだ」ともいう。中世には宗像社領であった。承久三年(一二二一)一二月一一日「筑前国宗像社領高向・無留木・宮田弐箇所地頭職」が宇都宮信房法師に安堵されている(「関東下知状案」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文五、以下断りのない限り同文書)。嘉禄三年(一二二七)五月一三日の関東御教書案(鎌六)によると、幕府は宗像社領内の「宮田」などを宗像社に付している。正平二十三年宗像宮年中行事(神道神四九)では七五社の一つとして「宮田社」がみえ、同社の神事も記載されている。宗像社家文書惣目録(宗二)によると、宗像社領である鞍手郡「宮田」などに関して、宗像社の社務を全うすることを命じた内容と推定される建武元年(一三三四)三月二〇日付の雑訴決断所牒が存在していた。至徳四年(一三八七)四月三日、九州探題今川了俊は鞍手郡内「宮田村」などを宗像大宮司に安堵している(「今川了俊書下」南六)。天正六年(一五七八)六月一日の第一宮御宝殿御棟上之事置札(宗像大社蔵)の御領中人夫之事に「宮田郷」がみえる。


宮田村
みやだむら

[現在地名]赤城村宮田

利根川が西に大きく湾曲、そこに突き出した段丘上の村で、見立みたち村の西に位置。字稲荷いなりで昭和三年(一九二八)炉跡が数基発見され、また字きたでは須恵の大甕が発掘されている。字久保地くぼち、字河岸かしにはそれぞれ小古墳ではあるが、数基の古墳が密集している。また河岸では奈良時代の畦畔跡が発見され、古墳時代以前から農耕の行われたことが想定できる。字御嶽おんたけの洞窟には鎌倉時代から不動明王が祀られており、字寄居よりいには戦国時代の寄居跡がある。天正九年(一五八一)頃当地には土豪須田新左衛門がおり、真田昌幸にくみしていた(沼田根元記)

「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によれば田方四五二石余・畑方九五石余。寛文一一年(一六七一)の年貢割付状(角田文書)によると田一九町四反余・畑三八町二反余、年貢高は米一七二石四斗余と永九一貫六〇〇文余。明和六年(一七六九)の村議定(宮田区有文書)によると、名主の選出は五組回り持ちとし、相応の田畑をもつ者を選ぶこと。


宮田村
みやだむら

[現在地名]宮田村まち北割きたわり・南割・新田しんでん大田切おおたぎり大原おおはら

北は諏訪形すわがた村・表木おもてき(ともに現伊那市)、東は中越なかごし村、西はこまヶ岳を境として木曾(現木曾郡上松町・木曾福島町)と背を合わせている。南は駒ヶ岳に源を発する大田切川をもって上穂うわぶ(現駒ヶ根市)に接する。大田切川のつくる扇状地の左翼地域(北側)にあたり、地勢は駒ヶ岳山麓から東南に向かって緩傾斜をなし、村の東を南北に伊那往還が走っているが、大田切川が段丘面を深く浸食しているので大田切川を越えるには不便が多かった。

「延喜式」によれば宮田は賢錐かたぎり駅の次駅で駅馬一〇匹とある。中世を通じて宮田氏の本拠で、「信州大塔軍記」「大塔物語」・結城陣番帳・諏訪御符礼之古書などに宮田氏の名前が散見する。村の西方山麓に城山と称する山城跡が残るが、この近くに居を構えていたと伝えられる。そしてこの宮田氏は弘治二年(一五五六)武田信玄のために滅ぼされたことが「甲陽軍鑑」にみえる。


宮田村
みやだむら

[現在地名]高槻市宮田町一―三丁目・さいわい

氷室ひむろ村の南にあり、東の村境を女瀬によぜ川が南東流し、北境を西国街道が通る。伝承では、古代当地一帯を藍野あいのの里と称し、継体天皇の大和国磐余玉穂いわれたまほ宮の後宮に召された少女がいたが、ある日の宴に天皇が諸国の米の作柄を問うたところ、少女が、故郷の米は天下の逸品なので供御に召されたいと奏し、はたしてそうであったのでこれを屯田にあて、宮田と称したという。これは当地域の米質の巷評の定まる近世以降の付会伝承の感が強く、むしろ近隣の式内社かも神社、富田とんだ惣社の三輪みわ神社などの宮田が所在したことによる地名とも考えられる。相国寺の瑞渓周鳳の「温泉行記」に「宮田」がみえ、当地を通過したことが知られる。

慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「宮田村」とみえ高四九八石余。


宮田村
みやたむら

[現在地名]日立市宮田町一―五丁目・宮田町・高鈴たかすず町三―四丁目・白銀しろがね町一―三丁目・本宮もとみや町一―五丁目・ひがし町一―四丁目・神峰かみね町一―四丁目・若葉わかば町二―三丁目

東は海に臨み、西は神峰山(五九八メートル)と高鈴山(六二三・六メートル)を結ぶ稜線の東に広がる多賀山地丘陵で、東縁辺を岩城相馬いわきそうま街道が通り、本山もとやま(四五〇メートル)を分水界として宮田川がほぼ中央を東流する。南は介川すけがわ村、西は入四間いりしけん村に接する。多賀山地丘陵東麓の鹿野場かのば遺跡からは先土器時代の石器が検出され、そこから東に広がる海岸段丘面上に芝内しばうち遺跡・平沢ひらさわ遺跡・中山なかやま遺跡・山崎やまざき遺跡および浜の宮はまのみや古墳群など、縄文時代前期から古墳時代後期の遺跡が点在する。


宮田村
みやだむら

[現在地名]篠山市宮田

旧西紀町域の南西部中ほどに位置し、宮田川が南流する。北の下板井しもいたいに鎮座する川内多々奴比かわちたたぬひ神社の神田があったことに由来する地名とされる。中世は宮田庄としてみえ、鎌倉期の造立という宝篋印塔や、篠山誓願せいがん寺の開祖覚山が隠棲したという浄福じようふく寺跡がある。戦国期まで宮田市場が開かれ、町並が形成されていたと考えられる。天正七年(一五七九)二月一八日の明智光秀諸役免許状写(久下文書)に「宮田村鍛冶次郎大郎所」「矢代村鍛冶与五郎」とみえ、両人は諸役を免除されている。また同一七年と推定される頃、宮田の鍛冶五人が豊臣秀吉から夫役を免除されている(一一月八日「戸田勝隆・津田有乗連署夫役免許状写」同文書)。「多紀郡明細記」にはこの両文書と同主旨の文書のほか、感状・免許状・掟書とする文書が収載されており、検討を要するものの、これらによれば天正八年七月日には明智光秀によって禁制を与えられ、毎月の市日を四日・八日・一二日・一七日・二一日・二五日と定められている。


宮田村
みやだむら

[現在地名]萩原町宮田

おおほら村の東、飛騨川南岸にある。飛騨街道が川沿いに通る。村名は久津くづ八幡宮の御田代があったことにちなむなどとされる(斐太後風土記)。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳に上呂じようろ郷として村名がみえ、高三八三石余、おそらく大ヶ洞村奥田洞おくだぼら村を含む。元禄八年(一六九五)の検地帳(宮田区有文書)では高一一六石余、田五町五反余・畑一〇町三反余、家数二〇。


宮田村
みやたむら

[現在地名]日南町福塚ふくづか

東から北東へ流れを変える九塚くつか川左岸に位置し、同川に南流する白谷しろいたに川が合流して形成された氾濫原に広がる村。東は立石たていわ村。「伯耆志」によると、村名は九塚川対岸の神戸かど村に鎮座する田中たなか大明神(現福栄神社)の神領(宮田)に由来するといわれ、支村としてひがしが記される。拝領高は一一六石余、本免は六ツ。文化一二年(一八一五)悪田浮加損米四石余を免ぜられた(三輪家文書)


宮田村
みやでんむら

[現在地名]巣南町宮田

大月おおつき村の北に位置し、西を揖斐いび川、東をさい川に挟まれた平坦地に立地。中世には河崎かわさき庄の内に宮田郷が成立し、その遺称地。南宮なんぐう神社(現不破郡垂井町)の神領であったことから宮田と称したという(新撰美濃志)。枝村に菱野村があった(同書)。現在も南宮社が鎮座している。天正四年(一五七六)からの織田信長の摂津石山本願寺攻めに際し、当村の正蓮しようれん寺と最法さいほう寺は金原きんばら(現本巣町)円勝えんしよう寺、上真桑かみまくわ(現真正町)慶円けいえん寺ほかと七ヵ寺組として石山本願寺の兵糧調達に努力したと伝える。


宮田村
みやだむら

[現在地名]江南市宮田みやた

後飛保うしろひぼ村の北にあり、北境を木曾川が流れ、中央を本堤ほんづつみ通が通る(天保村絵図)。現在は宮田用水が通る。「尾張名所図会」が記す支郷南野みなみのだに(現在はよつや)生原はえばら(現在ははいばら)は字名として現存する。ほかに「尾張国地名考」は支郷桓原かきはら神原かんばら四屋よつやを記す。文化三年(一八〇六)の宮田村概要書上(栗本信三氏所蔵文書)によれば、元和三年(一六一七)まで本田嶋ほんだじま(字名として現存)という支郷があったが、洪水で流失したという。


宮田村
みやだむら

[現在地名]倉岳町宮田

東は棚底たなそこ村、西は古江ふるえ(現栖本町)に隣接する。ルイス・フロイスの「日本史」一五八九年(天正一七)の記事に「私はシモン修道士が教理教育を済ませていた人々に洗礼を授けるために宮田に赴き、そこで三百三十人に授洗しました」とみえる。天草・島原の乱後、砥岐組に属し、庄屋は中村家。正保郷帳に高二八二石七斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により二三八石九斗余となった(天草風土考)。「国志草稿」に竈数三〇・男女数三三二とある。天明三年(一七八三)村明細帳(松田唯雄文庫)によれば、高二四三石七斗余、反別二八町五反五畝余のうち田方二〇町三反八畝余。


宮田村
みやたむら

[現在地名]姫路市勝原区宮田かつはらくみやた勝原区勝原町かつはらくかつはらちよう

よろ村の南に位置し、西は大津茂おおつも川を挟んでたに村。揖東いつとう郡に属する。長享元年(一四八七)と推定される福井庄村名注文(吉川家文書)福井ふくい庄二八ヵ村の一として宮田村とみえる。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)によると、宮田村四五〇石などが木下家定に宛行われている。慶長六年(一六〇一)円山太郎右衛門は池田輝政から当村内など三ヵ村の内で都合一千石を与えられている(「円山峯良家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図にも村名がみえる。


宮田村
みやたむら

[現在地名]稲川町宮田

皆瀬みなせ川の中流左岸、雄長子内おちようしない岳の東麓に位置し、北は飯田いいだ村・三梨みつなし村、東と南は三梨村、西は山峰を境に関口せきぐち村・下関しもせき(現湯沢市)と接する。

朝月あさづき山の麓で取水し、皆瀬川左岸を潤す与惣右衛門よそうえもん堰が村内を通る。現三梨京政きようまさの稲荷神社境内に明治四一年(一九〇八)の疏水記念碑が立ち、碑銘に「往時之水利欠灌漑之便甚矣以故膏腴之地多属荒蕪、同村京政郷麻生与惣右衛門翁慨嘆不措遂企図溝渠開鑿」とある。堰は慶安三年(一六五〇)に起工、五〇余年を費やし、元禄一四年(一七〇一)に完成したと伝え、当村はその際に成立した新田村である。

享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)元禄郷帳に宮田新田村と記すとある。


宮田村
みやたむら

[現在地名]栃木市宮田町

高谷こうや村の北に位置し、西はくち村。湿地が多く深田ふかだという字名が残る。元和九年(一六二三)の検地帳(渡辺伊兵衛文書)では高二六八石余とあるが、欠損部分が多い。寛文四年(一六六四)下総古河藩による検地があり、検地帳(同文書)では高二七八石余で、田一四町七反余・畑二町四反余。慶安郷帳では田二四四石余・畑二四石余で古河藩領。元禄郷帳では高三一六石余で旗本間宮・佐野の相給。天明年間(一七八一―八九)下総佐倉藩領になったと考えられ、改革組合村では幕府領・佐倉藩領と旗本間宮の三給で家数一二。


宮田村
みやだむら

[現在地名]東和町宮田

石持いしもち村の南に位置し、北上高地西辺の山間に立地。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)の平士のなかに「百駄宮田根守」がみえる。村域中心部の丘に宮田氏の拠った宮田館があったと伝える。正保国絵図に宮田村二二石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高三六石余、七ヵ年平均の免は三ツ三分七厘。元禄十郡郷帳による〆高は田方七〇石余・畑方一四石余。享保一五年(一七三〇)の居屋敷書留帳(東和町史)に当村枝村中山なかやま長根ながね合せて屋敷数一一とある。元文三年(一七三八)の給人書上に平沢主蔵・平沢八十右衛門らがみえる。


宮田村
みやだむら

[現在地名]益田市戸田町とだちよう

海浜地帯で東の戸田村より起伏のある丘が長く続き、浜辺には防風の松林がある。南は中垣内なかがいち村、西は小浜こはま村。地名は式内社菅野すがの神社に付せられた神田に由来するという(石見八重葎)。宮田川水源部に大小の堤があり灌漑用水とする。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。寛永一四年(一六三七)の検地高七〇石余(万手鑑)。正保国絵図では村名がみえない。天保郷帳でも村名がみえず、戸田村の枝郷とされた。明治四年(一八七一)の総高七九石余、反別一七町四反余、人数一八四(うち農一七八)・家数三七(うち農三六)、鉄砲二、牛二六(万手鑑)。宮田海岸は東西に長い砂浜をもち津和野藩有数の塩浜であった。


宮田村
みやだむら

[現在地名]仲南町十郷そごう

追上おいあげ村の北、西七箇にししちか村の最北部に位置し、寛永国絵図ではしちヶ村に属する。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳では高一五一石余。天保郷帳では高二四九石余。金毘羅信仰が盛んになると阿波・金毘羅街道が通過する当地の往来も激しくなり、金毘羅の繁栄によって町から約三キロの距離にある当地では、桃や梅の栽培が盛んになったという。「西讃府志」によれば田畝二五町余(うち畑一町四反余・屋舗八畝余)、租税は米九〇石余・大麦一石余・小麦九斗余・大豆一石余、家数四八・人数二三一、牛三七・馬九、池は久米くめ池など三、堰一〇。


宮田村
みやたむら

[現在地名]青森市宮田

馬屋尻まやじり村の東に接する。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高一九六・六九石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳には高三四八・九石とある。同四年の検地帳には、田方二五町一反六畝一四歩、畑方二三町九反一畝一一歩、田畑屋敷合せて四九町七畝二五歩、村高三二八・九八五石とある。ほかに村中で漆木四千三五五本、「場広故不及検地」草山二ヵ所・山一ヵ所・芝山一ヵ所が記される。元禄三年(一六九〇)には横内組に属し、村位は中である(平山日記)


宮田村
みやだむら

[現在地名]和田山町宮田

土田はんだ村の北、円山まるやま川左岸に位置する。山陰道筋で、「但州湯嶋道中独案内」に村名が記される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高一一四石余。寛文八年(一六六八)から豊岡藩領となり、豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付(岡本家文書)では高一一五石余とある。元禄郷帳でも同藩領とあり、享保一一年(一七二六)頃に幕府領になったと推定される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一一五石余。天保郷帳では高一一九石余。


宮田村
みやだむら

[現在地名]遊佐町宮田

大宮田おおみやだ村の北にあり、月光がつこう川中流右岸に位置する。寛文四年(一六六四)の「寛文朱印留」に村名がみえ、この頃大宮田村から分村した。貞享年間(一六八四―八八)の村組付(飽海郡誌)では高四一二石余。享和三年(一八〇三)には家数二九・人数一四八(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧によれば免五ツ五分七厘、家数三一。文化元年(一八〇四)の大地震で家屋は残らず倒壊した(「文化之度大地震記」石垣文書)


宮田村
みやだむら

[現在地名]津幡町宮田

笠野かさの川左岸、笠野盆地の南斜面に位置。「みやた」ともよばれる。地名は神社の宮田の跡地に村立てしたことによるという(「村名由来」加越能文庫)。正保郷帳では高一五六石余、田方六町九反余・畑方三町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一六五石、免五ツ二歩、小物成は山役六五匁・野役二匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数八(高免付給人帳)。享和二年(一八〇二)年々水田に山が崩れ込み、用水が乏しく困窮至極として三ヵ年引免を受けた(「河北郡引免根帳」林文書)


宮田村
みやだむら

[現在地名]大雄村宮田

東は阿気あげ村、西は薄井うすい(現雄物川町)、南は阿気村枝郷せゝなぎ村、北は平柳ひらやなぎ村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に村名がみえ、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に枝郷として、念仏谷地ねんぶつやち村・荒処あらとこ村・田町たまち村・中島なかじま村があり、「雪の出羽路」に新床あらとこ村(現字新処あらところ)への表記変更および中島村の廃村を伝える。


宮田村
みやだむら

面積:五二・一三平方キロ

上伊那郡の中央部に位置し、北は伊那市に接し、南は大田切おおたぎり川を隔てて駒ヶ根こまがね市、東は天竜川を隔てて伊那市東春近ひがしはるちか駒ヶ根市東伊那ひがしいなに相対し、西は駒ヶ岳を境に木曾郡上松あげまつ町・木曾福島きそふくしま町に接する。面積の八割は山地で、駒ヶ岳山麓から地勢は東南に向かって緩傾斜で耕地の大部分は水田である。


宮田村
みやたむら

[現在地名]小川町宮田

園部そのべ川の左岸に位置し、東南は立延たちのべ村。中世は宍戸氏の支配下にあった。正保三年(一六四六)の常陸国茨城郡宍戸領宮田村御検地水帳(宮田文書)があり、元禄郷帳に「宮田村」とみえる。


宮田村
みやだむら

[現在地名]荻町政所まどころ

滝水たきみず川上流南岸、下荻しもおぎ岳の麓にあたり、東の政所村の枝村と思われる。正保郷帳では藤原ふじばる郷に属し、田方四石余・畑方三九石余。


宮田村
みやだむら

[現在地名]東市来町宮田

市来郷神之川かみのかわ村・伊集院いじゆういん郷神之川村の北東、神之川流域に位置する。伊集院郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高八九石余。「三州御治世要覧」によると延享(一七四四―四八)頃の高一四四石余。


宮田村
みやたむら

[現在地名]石田町筒城仲触つつきなかふれ

筒城村の東に位置する同村枝郷。村名は八幡宮(現白沙八幡神社)の神田が置かれていたことに由来するという(壱岐国続風土記)。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では筒城村のうちに宮田免と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮田村」の意味・わかりやすい解説

宮田〔村〕
みやだ

長野県南部,伊那盆地中央の天竜川右岸にある村。木曾駒ヶ岳の東斜面に位置する。 1954年町制,同年近隣町村と合体して駒ヶ根市となったが,56年分離して成立。天竜川の段丘面上では米作が行われ,木工業,機械工業も立地。中心集落の宮田は駒ヶ岳の登山拠点の一つ。山麓にキャンプ場がある。村域の一部は中央アルプス県立自然公園に属する。 JR飯田線,国道 153号線が東部を縦断。面積 54.50km2(境界未定)。人口 8569(2020)。

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