岩出ノ渡
いわでのわたし
大和街道の道筋にあたり、上三毛村船戸と西野村とを結ぶ紀ノ川の渡し。岩出横渡しといわれた。当地は和歌山城に近い要衝の地として重視され、橋は架けられず、渡船によった。非常時には見張所を建て、御紋付高張提灯、御幕・手縄を張り、岩出組の地士・帯刀人などが昼夜交替で詰めた(慶応元年岩出組大庄屋福井善吉口上覚「那賀郡誌」所収)。
文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によれば、岩出組二一ヵ村の総高八千五〇〇石余のうち岩出横渡舟役分は高二一五石余、同年は岡田村など一〇ヵ村から二石八斗六合三勺を徴収している。これを西野村の一一軒の横渡し舟人に分配したと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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