西野村(読み)にしのむら

日本歴史地名大系 「西野村」の解説

西野村
にしのむら

[現在地名]三原市西野町・頼兼よりかね町・大畑おおはた町・八坂やさか町・こまはら町・桜山さくらやま町・西宮にしみや町・宮浦みやうら町・宮沖みやおき町・皆実みなみ町・ほん町・西にし

三原西みはらにし町の北から西、備後国西端にあり、御調みつぎ郡に属した。北部に竜王りゆうおう(六六五・一メートル)大峰おおみね(六一〇・二メートル)に連なる山地が広がり、西は豊田郡沼田下ぬたげ村、南は沼田ぬた川に面する。西野川・会下谷えげだに(恵下谷)川・河原谷かわらだに川が流れ、流域の大西おおにし谷・小西こにし谷・小浦こうら谷・駒ヶ原谷・頼兼新開・大串おおぐし新開などに耕地が開ける。中世にはほぼ東西に山陽道が通じ井屋峠いやのたお沼田下村に至り、三原西町西宮にしのみや(現三原八幡宮)から当村祇園社(現八坂神社)の間に在郷町かや町が形成された。近世の山陽道は南西の頼兼新開沿いにほとけたおを越えた。

頼兼の東向き丘陵、頼兼城跡の南から縄文早期の土器、桜山南麓から縄文前期の土器、頼兼城跡北側の大串遺跡から縄文後期の土器と石器、小西谷から弥生式土器、福地ふくち遺跡から弥生時代から中世にわたる遺物が出土、早くから開けた地である。

西野村
にしのむら

[現在地名]白根町西野

御勅使みだい川扇状地の中央部に位置し、東は上今諏訪かみいますわ村・下今諏訪村、南は上今井かみいまい(現櫛形町)、西は在家塚ざいけつか村。天正一〇年(一五八二)一二月三日の徳川家印判状写(中巨摩郡志)によれば、小林助三郎は本領を安堵され、そのなかに「在家塚今諏訪西野四貫二百文」がみえる。同日功刀介七郎は「甲州西野分壱貫弐百文・同所壱貫弐百文」を含む本領を安堵された(「徳川家印判状写」井伊年譜)。同五日に町田作之丞は本給を安堵され(「徳川家印判状写」甲斐国古文書)、そのなかに当地の飯野次郎兵衛分三〇〇文がある。同七日金丸善右衛門尉は新知行として当地内七貫文を含む一〇貫文を宛行われた(「徳川家康印判状」中巨摩郡志)。二日後の九日井尻源三は当地のうち一一貫文の地などの本給を安堵された(「徳川家印判状」井尻源家文書)

慶長六年(一六〇一)の検地帳(中巨摩郡志)では上畑四町五反余・中畑五町二反余・下畑九町余・下々畑一七町余、屋敷二千一〇八坪、ほかに桑四三束、熊蔵荒四四町八反余・弾正荒一町三反余。慶長古高帳では高二九二石余、幕府領、ほかに若宮領一石余がある。

西野村
にしのむら

[現在地名]高月町西野

片山かたやま村の北東、南東端をかすめて南流する余呉よご川右岸平地と琵琶湖岸を南北に走るしずたけ山系の西野山丘陵に立地。西野山西麓湖岸阿曾津あそづに、往古阿曾津千軒とよばれた大集落があったが地震によって一村全滅し、逃れた村人は当村、松尾まつお(松野)熊野くまの東柳野ひがしやないの柳野中やないのなか・西柳野・磯野いそのの七ヵ村(七野)に分住。松尾村に七野宮(現大森神社)を建立し、毎年四月二―七日に七野祭を行ったと伝える。天文一四年(一五四五)一二月一一日の浅井亮頼書状(竹生島文書)に「下野名之内、日御供米拾六石之事、近年西野方無沙汰」とみえ、浅井家臣西野氏が当地に拠って活動。永禄一一年(一五六八)八月の竹生島納帳(竹生島宝厳寺文書)では西野氏が「西野郷内弐反」を寄進している。北東赤尾あかお(現木之本町)境の磯野山に浅井家臣磯野氏の居城跡がある。

西野村
にしのむら

[現在地名]智頭町西野

郷原ごうばら村の北東、千代川支流北股きたまた川沿いに位置する。「因幡志」によれば、枝村に米原よねばら浅見あざみ橋本はしもとの三ヵ村があり、橋本は民家がなく浅見に属している。浅見集落は北股川に合流する浅見川最下流の両岸にあり、ここから八上やかみ栃谷とちだに(現船岡町)へ越える道を浅見越という。山道一二〇町余という大難所であった。また橋本から同郡下野しもづけ(現同上)へ越える山道もあるが浅見越の道と合流する(因幡志)。拝領高は一三七石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高一二四石余、毛付高一六八石余、本免六ツ四分、同年の物成高九六石余、ほかに藪役銀二三匁一分五厘・川役米二斗が課されていた。

西野村
にしのむら

[現在地名]米山町西野

北と南は大きく迂回するはさま川に囲まれ、東は登米郡吉田よしだ村に接する低湿地帯にある。水陸の交通の要衝で、元和年間(一六一五―二四)宿場を立て、米岡よねおかと称した。近世を通じて遠田とおだ郡に属した。「和名抄」の小田おだ賀美かみ郷にあたるともいわれ、村内の西野館跡は藤原秀郷築城の伝承をもち、のちに西野民部少輔が住したという。天文二二年(一五五三)頃葛西晴胤が「西野要害」を攻略しているが(「葛西晴胤書状」菊池文書)、西野要害は西野館をさすと思われる。寺池てらいけ(現登米町)に居城した白石(伊達)宗貞は寛永六年(一六二九)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によれば、開墾予定地一五五貫余を含む一千貫の所領を得ているが、西野では一一貫七三四文であった。

西野村
にしのむら

[現在地名]山科区西野〈阿芸沢あげざわ町・今屋敷いまやしき町・大手先おおてさき町・大鳥井おおとりい町・きしした町・後藤ごとう小柳こやなぎ町・左義長さぎちよう町・山階さんかい町・野色のいろ町・八幡田はちまんでん町・東山ひがしやま櫃川ひつがわ町・広見ひろみ町・楳本むめもと町・様子見ようすみ町・離宮りきゆう町〉

北は厨子奥ずしおく御陵みささぎ竹鼻たけはな、東・南は四ノ宮川などを境として東野ひがしの、西は旧安祥寺きゆうあんしようじ川の西あたりで北花山きたかざんの各村と接する。村内を野色川・安祥寺川が流れ、東野とともに山科盆地のほぼ中心部にあり、地勢は平坦。村の西北部を渋谷しぶたに街道が抜ける。中世の山科七郷の一「野村」が近世に東・西に分れてできた村である(→東野村

中世に蓮如が「宇治郡小野庄山科野村西中路」(「蓮如日記草案」西本願寺蔵)に建立した山科本願寺は、西野村の地で、本願寺との関係で文明一三年(一四八一)西宗さいしゆう寺が建てられている。

西野村
にしのむら

[現在地名]開田村大字西野

西野の名は「岐蘇古今沿革志」に、木曾家村の事跡として「木曾中谷ちうこくを城となし妻籠に城を築き、馬籠田立西野奈川王滝にしやう さいを構へ贄川に関を設け、湯舟沢に取手を置所の在戍の従士を置」とみえる。

戦国時代には、木曾義康・義昌の部将として、西野右馬允友重が大屋おおやに、千村淡路守豊知が下向しもむかいにそれぞれ居館を構えていた。この両名が守っていたといわれる西野城は「古城、多和沢の上の山にあり、封疆猶存す、土人呼で城山と曰ふ、何人の居する所か知らず、木曾考を按ずるに、義昌砦を西野に築き以て飛騨を禦ぐ、是其址なり」(吉蘇志略)と記される。

西野村
にしのむら

[現在地名]五城目町大川西野おおかわにしの

馬場目ばばめ川下流左岸の自然堤防上の小集落。東は上樋口かみとよぐち村、西は石崎いしざき村、南は谷地中やちなか村に接し、北は川を隔てて川崎かわさき(現八郎潟町)に対する。

「適産調」に「五城目館の麓ニつゝきたる地にして城より西野なるを以て名称とせしならん」とあり、五城目館は上樋口の雀館すずめだてをさすものか。元和八年(一六二二)の館越村文書(五城目町史)に「にしのゝ村」とみえ、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には「西之野村之字除る」とある。

西野村
にしのむら

[現在地名]九十九里町西野、東金市西野飛地にしのとびち

藤野下ふじのした村の南西に位置し、真亀まがめ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三二八石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では西野組に属し、高二七〇石、与力給知。与力は江戸南町奉行組与力とみられ、元和五年(一六一九)より幕末まで同給知(九十九里町誌)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高四一五石余、家数九七、与力給知のほかに幕府領がある。塚崎つかさき(現東金市)続きの内野の開発をめぐって、入会秣場として使用してきた浜方六ヵ村(西野・藤野下・細屋敷・貝塚・粟生・不動堂)と岡方六ヵ村(荒生・薄島・宿・関ノ下・幸田・大沼)の間で、元禄五年(一六九二)から享保四年(一七一九)まで紛争が続いたが、その間にも開発は徐々に進んでいった(飯高家文書)

西野村
にしのむら

[現在地名]那賀町名手西野なてにしの

紀ノ川の北岸に位置し、北は市場いちば村、西は後田しへだ村、南は紀ノ川を挟んでなか北脇きたわき西脇にしわきの諸村。村域には条里制の遺構が検出される。「続風土記」は「名手の荘にて西に在るを以て西野と呼ひ来れるなり」と記す。

当村は弘長二年(一二六二)二月六日付の公文源宗治田地売券(続宝簡集)に名手庄「西村」とみえる地で、慶長検地高目録でも西隣の後田村を併せた地を西村と記し、高六九一石余、小物成五斗九升六合を記す。二村に分れる年代は不詳であるが、名手庄五ヵ村と麻生津おうづ庄との山論を記した天和二年(一六八二)一〇月五日付の名手麻生津山論事(妹背家文書)や同年九月付の諸事覚書(旧麻生津村役場文書)には西野村とみえ、当時は分村していたものと思われる。

西野村
にしのむら

[現在地名]豊田市穂積ほづみ町 西野

ともえ川の支流矢並やなみ川沿いにあり、足助あすけ街道が通る。近世初めは幕府領、寛永二年(一六二五)酒呑しやちのみ鈴木友之助領、元禄郷帳時には九久平くぎゆうだいら陣屋鈴木市兵衛家・酒呑陣屋市次郎家・沼間ぬま伊織家の三給地であるが、沼間伊織家は元禄一四年(一七〇一)に無嗣絶家となる。旧高旧領取調帳では、沼間伊織家の替りに豊橋藩領となっている。「西野村誌」によれば、寛永一七年に検地が実施され、この時の検地役人は成瀬九右衛門・森四郎右衛門である。

西野村
にしのむら

[現在地名]妻沼町西野

西ノ・西之などとも記す。利根川右岸の氾濫原に位置し、南は中奈良なかなら(現熊谷市)、西は江袋えぶくろ村。北部をふく川が東流する。この地は長井ながい庄の庄司斎藤別当実盛ゆかりの地で、北方に実盛さねもり塚と伝えられる塚があり、水堀の一部が残る。塚上にある板碑の表には、正嘉元年(一二五七)一二月晦日の年紀とともに「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨、右志者為慈父要儀成仏也」、裏面には「長井馬入道改真蓮七十一也、正嘉元年丁巳十一月十二日」などと刻まれている。

西野村
にしのむら

[現在地名]甲奴町西野

西流する上下じようげ川と、その支流小童ひち川の合流地付近を主要村域とするが、東隣の本郷ほんごう村の東南部、弘法こうぼう山南麓にも飛郷がある。古くは「西村」とも記された。文明二年(一四七〇)六月一五日付の山内直通宛宮田教言書状(山内首藤家文書)に「矢野庄内梶田・本郷・西村」とみえる。矢野やの庄内のこの三村は備後守護領であったものが、毎年五〇貫から九〇貫の年貢で山内直通に預けられていたことが山内首藤家文書によって知られる(→本郷村

西野村
にしのむら

[現在地名]岩出町西野

紀ノ川中流右岸にあり、東は高瀬たかせ村・みや村。東側を根来ねごろ往還が南北に通り、南部をろつ用水が西流する。「続風土記」は「此荘にては西の端にあるを以て村名とするならん」と記す。中世は石手いわで庄に含まれたと思われる。慶長検地高目録によれば村高四〇四石余、小物成三斗一升七合。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田二三町八反余で高三九二石余、畑一町二反余で一四石余。二歩米三石七斗六合九勺でこの銀二二〇匁四分二厘、御種借米は元米一五石五斗七升五合でこの利米三石一斗一升五合。家数六八で内訳は庄屋・肝煎・歩行各一、本役三四、半役二〇、横渡シ舟人一一、人数二二四(男一〇一・女一二三)、牛一九。

西野村
にしのむら

[現在地名]四日市市菅原すがはら

智積ちしやく村の東方、三滝みたき川の左岸近くにあり、北東は朝日あさひ丘陵によって限られる。「西ノ野村」とも記される。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数三二、人口一三〇、牛七。天神一社があった(宗国史)。文化一一年(一八一四)には、村内南川原に三反の新田開発が行われた。この新田は文化八年より惣百姓の出合によって開発。出合日数の過不足は、一日につき米二升をもって清算。不足分として得られた米代銀一一〇匁余を酒代・杭代などの支払の財源とした。新田は一七に区画され、鬮によってそれぞれに一区画ずつ割当てられている(「南川原新田開発帳」鈴鹿市立図書館蔵)。文化五年以降村高のうち二八石の助郷を勤めた(旧版「四日市市史」)

西野村
にしのむら

[現在地名]藪塚本町藪塚

八王子はちおうじ丘陵の南西裾に位置し、北は藪塚村、東は長岡ながおか(現太田市)。寛文郷帳に村名がみえ、田四〇石六斗余・畑一二六石余で芝野がある。旗本真田領。元禄郷帳では幕府領。慶応三年(一八六七)前橋藩領となる。明和二年(一七六五)の徳川家康百五十回忌の際には日光例幣使街道木崎きざき宿(現新田町)の加助郷村となり、勤高一八二石(「加助郷人馬勤高」窪田文書)。近世後期には金山かなやま(現太田市)の御用地村を勤め、勤高六六石(嘉永四年「献上松茸御用地村々石高帳」太田宿本陣史料)

西野村
にしのむら

[現在地名]余目町西野

深川ふかがわ村の北西にあり、南をいかつちおとし(いかづし落)堰が西流する。明暦元年(一六五五)下余目組大庄屋川俣治兵衛によって門田かどた(現酒田市)の分村として開発された(「西野伊藤氏記録」余目町立図書館蔵)。寛文六年(一六六六)の検地帳(西野区有文書)に村名がみえ、高五二九石余・田畑反別五四町八反余、名請人三二名。延享三年(一七四六)の狩川通大概手控帳(高橋文書)では高五四三石余、免四ツ四分、家数五三・人数二一〇、馬三。

西野村
にしのむら

[現在地名]松山市西野町にしのまち

松山平野の南部に位置する農村。村の北部はだいたい平坦であるが、南に丘陵を負う。東は荏原町えばらまち村、西は麻生あそう(現伊予郡砥部町)、南は宮内みやうち(現砥部町)、北は上野うえの村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「西野村 日損所、柴山有」とある。村名の起源は天正一八年(一五九〇)に荏原郷吉岡よしおか城を中心として、それ以西の地域を西野と称したのによるという(新編温泉郡誌)

西野村
にしのむら

[現在地名]作木村西野

光守みつもり村の東に位置し、北の大畠おおばたけ村から流れ出る作木川の支流沿いに集落が点在する。中世には光守村・大畠村とともに山中やまなか村と称された地で、分村の時期は不明であるが、元和五年(一六一九)の備後国知行帳には村名がみえ、二三三・八九石が記される。しかし寛永九年(一六三二)の因幡守様御領分小物成目録(鳳源君御伝記「三次分家済美録」所収)には「山中西ノ村」とある。

芸藩通志」に「広一里六町、袤三十町、四方山連り陰地ゆゑ冷水を厭ふ、居民農余炭を焼く」とあり、寛政五年(一七九三)の布野組村々居合聞探り見込頭書(三上家文書)に、西野村は「当組合ニも壱番之難渋村ニ御座候(中略)拾弐年已前疫病ニ谷々之百姓共死堪候よりハ、悪田ニ凌兼候田地ニ御座候ニ付、百姓も有附不申候」とある。

西野村
にしのむら

[現在地名]雄物川町下西野しもにしの上西野かみにしの

雄物川東岸、沖積地の残丘上に位置し、植田うえだ(現十文字町)に通ずる街道に沿う。北は常野じようの村。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新田として三八〇石とあるが、享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に西野野村として「正保元禄誤新田出」とあり、近世初期からの村であった。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高三五〇石余、うち蔵分二八石余、給分三二一石余。

西野村
にしのむら

[現在地名]君津市山滝野やまたきの

宿戸しゆくど村の北西に位置する。東部から久留里藩領愛宕あたご村などを通り久留里くるり城下へ通じ、西は周淮すえ間野まの村へ通ずる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一一九石。正保国絵図では高一九石、元禄郷帳では高二一石余、天保郷帳では高五五石余。

西野村
さいのむら

[現在地名]佐伯市堅田かたた 西野

泥谷ひじや村の南、堅田川左岸に位置。天正一四年(一五八六)一一月、栂牟礼とがむれ城を襲った島津軍は堅田に入り、西野などで佐伯惟定勢と戦い敗走した(大友家文書録)正保郷帳に村名がみえ、田高一〇二石余・畑高四八石余、堅田郷に属した。旧高旧領取調帳では高一五四石余。寛延三年(一七五〇)村明細帳(日高家文書)によれば高一五四石余、反別二〇町六反余、うち川欠などを引き毛付高一三三石余、家数四六(うち水呑一)・人数二七二、牛一七・馬一一、用水井堰一・秣場二・百姓持山二、郷蔵一、年貢米は柏江かしわえ湊へ陸送、小物成は茶綿役銀一匁八分二厘。

西野村
にしのむら

[現在地名]西吉野村大字西野

むね川流域、宗川野むねがわの村の上流にある。宗川むねかわ郷のうち。慶長郷帳では村高八六・九七七石、幕府領(代官大久保長安)。延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡西野村検地帳(西野区有文書)によると、古検反別七町六畝三歩に対し、田畑合二七町一反八畝二三歩、分米合二三四・六六八石となっている。また、楮畑・漆畑・茶畑の記載がある。

西野村
にしのむら

[現在地名]上北山村大字西原にしはら

北山川流域、あま川合流地付近にある村。神河三村こうのがわさんそんの内に成立した村。慶長郷帳には村名はみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」の内に含まれる。寛永郷帳に初めて村名が現れ、村高二五・八〇五石、幕府領。のち延宝検地により村高は五六・八八一石となった。

西野村
にしのむら

[現在地名]野上町西野

東野ひがしの村の西、真国まくに川北側一帯に集落が位置する。中世以来の高野山領志賀野しがの庄の中心であったといわれ、荘園鎮守社の丹生にう八幡神社が鎮座する。天保郷帳では高一〇五石余。「続風土記」は家数四四、人数一九三、小祠五社(弁財天社・塞神森など)を記す。同書は丹生八幡神社を「丹生七社明神社」と記し、「境内山周四町許、馬場長一町余」とあり、八幡宮・丹生明神のほか五社を祀る。

西野村
にしのむら

[現在地名]赤堀町西野

東は蕨沢わらびさわ川を境に勢多せたいそ村、南は今井いまい村で西をかす川が流れ、二河川に挟まれた台地上に位置。寛文郷帳では田方二〇〇石余・畑方一二四石余、旗本牧野領など二給。元禄郷帳では前橋藩領。近世後期の御改革組合村高帳では上総一宮藩領、家数三五。

西野村
にしのむら

[現在地名]越路町西野

飯島いいじま村・篠花ささばな村の西、中沢外なかざわと新田の東。元禄郷帳では古志こし郡に属し、三島郡篠花村の枝郷とある。元和四年(一六一八)以後明治に至るまで長岡藩領。口碑によると、もとは信濃川右岸にあったが、度重なる洪水のため元禄二年(一六八九)以降漸次左岸の現在地に移るという(明治一四年西野村勢報告書)

西野村
にしのむら

[現在地名]市原市西野

宮原みやばら村の北東、養老ようろう川左岸に位置する。宮原村枝郷で、貞享四年(一六八七)同村より分れたという。元禄郷帳に枝郷として西野村とみえ、村高一八四石余は幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二九、旗本杉浦領と与力給知。

西野村
にしのむら

[現在地名]松阪市西野町・岡山おかやま

丹生寺にゆうでら村の西にある。近世は和歌山藩松坂領。慶長八年(一六〇三)の検地帳(徳川林政史蔵)に「飯高郡西野村」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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