日本歴史地名大系 「西野村」の解説
西野村
にしのむら
- 広島県:三原市
- 西野村
頼兼の東向き丘陵、頼兼城跡の南から縄文早期の土器、桜山南麓から縄文前期の土器、頼兼城跡北側の大串遺跡から縄文後期の土器と石器、小西谷から弥生式土器、
西野村
にしのむら
慶長六年(一六〇一)の検地帳(中巨摩郡志)では上畑四町五反余・中畑五町二反余・下畑九町余・下々畑一七町余、屋敷二千一〇八坪、ほかに桑四三束、熊蔵荒四四町八反余・弾正荒一町三反余。慶長古高帳では高二九二石余、幕府領、ほかに若宮領一石余がある。
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
北と南は大きく迂回する
西野村
にしのむら
- 京都市:山科区
- 西野村
北は
中世に蓮如が「宇治郡小野庄山科野村西中路」(「蓮如日記草案」西本願寺蔵)に建立した山科本願寺は、西野村の地で、本願寺との関係で文明一三年(一四八一)に
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
紀ノ川の北岸に位置し、北は
当村は弘長二年(一二六二)二月六日付の公文源宗治田地売券(続宝簡集)に名手庄「西村」とみえる地で、慶長検地高目録でも西隣の後田村を併せた地を西村と記し、高六九一石余、小物成五斗九升六合を記す。二村に分れる年代は不詳であるが、名手庄五ヵ村と
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
紀ノ川中流右岸にあり、東は
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
松山平野の南部に位置する農村。村の北部はだいたい平坦であるが、南に丘陵を負う。東は
西野村
にしのむら
「芸藩通志」に「広一里六町、袤三十町、四方山連り陰地ゆゑ冷水を厭ふ、居民農余炭を焼く」とあり、寛政五年(一七九三)の布野組村々居合聞探り見込頭書(三上家文書)に、西野村は「当組合ニ而も壱番之難渋村ニ御座候(中略)拾弐年已前疫病ニ而谷々之百姓共死堪候よりハ、悪田ニ而凌兼候田地ニ御座候ニ付、百姓も有附不申候」とある。
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
さいのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
西野村
にしのむら
- 千葉県:市原市
- 西野村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報