日本歴史地名大系 「那賀郡」の解説
那賀郡
なかぐん
県の南西部の山間部に位置する三町二村は、西を高知県、南を
〔原始〕
郡内での古代遺跡の発見は上那賀町・木頭村・羽ノ浦町などに限定されていたが、平成二年度以降の那賀川流域の分布調査により、木頭村一ヵ所、上那賀町三ヵ所、相生町一六ヵ所、鷲敷町三ヵ所から縄文時代の土器や石器などが多数発見されている。上那賀町の
木頭村の
那賀郡
なかぐん
県の西部、旧石見国のほぼ中央に位置する。北は江津市・浜田市に接するほか日本海に面し、西は益田市および
〔古代〕
平城京二条大路跡出土木簡に「石見国那賀郡右大殿御物海藻一籠納六連天平七年六月」とみえる。貞観九年(八六七)一〇月三日、那賀郡の権大領(外従八位上)村部岑雄と主帳(外少初位上)村部福雄が本姓の久米連に復している(三代実録)。元慶八年(八八四)那賀郡大領外正六位下久米岑雄・邇摩郡大領外正八位上伊福部直安道らが、百姓二一七人を率いて石見国守の従五位下上毛野朝臣氏永を襲撃し、その政治が法に背くとして印匙・鈴などを奪取し、杖をもって打擲するという事件が起こった。中央政府では式部大丞正六位上坂上大宿禰茂樹と勘解由主典従七位下凡直康躬を推問係として石見国に派遣し、その調査結果に基づいて仁和二年(八八六)に関係者が処罰された(同書元慶八年六月二三日条・仁和二年五月一二日条)。「和名抄」は
那賀郡
ながぐん
和歌山県最北部、紀ノ川の流域に位置し、東から西に郡域内のほぼ中央部を流れる紀ノ川両岸の兵陵地帯と、北・南部の山地からなる。北は葛城山(八五八メートル)を主峰とする和泉山脈を境に大阪府と接し、東は
郡名は「続日本紀」大宝三年(七〇三)五月九日条に「令紀伊国奈我・名草二郡停布調献糸」とみえるのが早く、次いで同書神亀元年(七二四)一〇月七日条に「天皇行至紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮」と記す。旧郡域の一部は現海草郡・和歌山市に含まれる。
〔原始〕
遺跡は紀ノ川下流の打田町・岩出町の河岸段丘上や、貴志川流域の平地に多く分布する。とくに貴志川町域は和歌山県下における先土器時代の遺物発見の一中心地で、
紀ノ川両岸の豊かな水田地帯や、貴志川西岸の平地一帯は農業生産が早くから進んだと考えられるが、それらの地を支配する首長が生れると、彼らの墳墓が段丘上に築造された。打田町域では竜門山地の丘陵端部にある
〔古代〕
条里制の遺構が六ヵ所検出されている。すなわち紀ノ川北岸の那賀町
那賀郡
なかぐん
- 静岡県:伊豆国
- 那賀郡
古代から近代初頭に存在した伊豆国の郡。伊豆半島西海岸に位置するが、近世に
〔古代〕
「和名抄」東急本国郡部に「奈加」の訓がある。郡域は現在の
天平勝宝八歳(七五六)一〇月の平城京跡出土木簡(「平城宮木簡」二―二二四七)に「那賀郡射鷲郷」、天平一二年以降の奈良正倉院調庸関係銘文(寧楽遺文)に「那賀郡那珂郷」とみえる。延暦一〇年(七九一)一〇月一六日の長岡京跡出土木簡(「木簡研究」二〇―五九頁)にも「那賀郡井田郷」とみえる。以上のように各時期の木簡などが知られるが、那賀郡という表記は和銅六年(七一三)に畿内七道諸国の郡郷名は好字を着けよという制(「続日本紀」同年五月二日条)が出されたことに対応して付けられた二字の郷名であろう。しかし同年に那賀郡に変更されたにもかかわらず、実際には前述の天平七年の木簡のように中郡とみえる。また平城京跡出土木簡(「平城宮木簡概報」三一―二六頁)には「奈賀郡奈珂郷」とみえ、那賀という表記は在地ではすぐに徹底されなかったようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報