朝日日本歴史人物事典 「巨勢弘高」の解説
巨勢弘高
平安中期の宮廷絵師。広貴・広高とも。病で出家したが,のち還俗して絵所に仕えたという。正暦年間(990~995),関白藤原道隆の臨時客に弘高の描いた楽府の屏風が用いられる。長保1(999)年,不動像を描く。このとき妥女正 であった。同年,藤原彰子入内の調度に弘高の歌絵の冊子がある。2年,五霊鳳桐画様を図する。4年,書写聖性空像を描く。寛弘7(1010)年,妍子入東宮の調度に弘高の屏風がある。王朝文化の成熟期に広範な作画活動を行い,古典様式を代表する絵師のひとりとみれらる。作品は現存しない。<参考文献>秋山光和『平安時代世俗画の研究』
(長谷川稔子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報