朝日日本歴史人物事典 「後鳥羽院下野」の解説
後鳥羽院下野
鎌倉時代の歌人。信濃とも呼ばれた。父は日吉社小比叡禰宜祝部允仲。母は源光基の娘。元久1(1204)年ごろ源家長の妻となる。後鳥羽院の女房として出仕した。藤原定家とも親交があり,「歌仙下州」などと称された。元久1年11月10日『春日社歌合』,寛喜1(1229)年『為家家百首』,貞永1(1232)年7月『光明峰寺摂政家歌合』,嘉禎2(1236)年『遠島歌合』,宝治2(1248)年『宝治百首』『院御歌合』,建長3(1251)年9月13日『影供歌合』など多くの歌合に参加した。なだらかで,落ち着いた歌風。<参考文献>安井久善「後鳥羽院下野攷」(日本大学『語文』1960年5月号)
(谷知子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報