日本大百科全書(ニッポニカ)「新古今和歌集」の解説
新古今和歌集
しんこきんわかしゅう
第8番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。20巻。鎌倉初期の成立。後鳥羽院(ごとばいん)の下命によって撰進された。撰者は源通具(みちとも)、藤原有家(ありいえ)、藤原定家(ていか)、藤原家隆(いえたか)、藤原雅経(まさつね)、寂蓮(じゃくれん)。在来の勅撰集と異なり、院自ら撰集作業に参加され、序、詞書(ことばがき)も院の立場において記され、「親撰体」の集の最初の集となる。
[後藤重郎]
成立
勅撰二十一代集中もっとも複雑長期の成立過程を有し、通常4期に分かち考えられる。
(1)第1期選歌時代 1201年(建仁1)7月『後撰集』の例に倣って和歌所(わかどころ)が置かれて寄人(よりゅうど)が任命され、同年11月3日寄人中6名が撰者に任命され撰集下命があり、以後選歌に従事、1203年4月20日ごろ撰者らが選歌を上進するまで。寂蓮は中途にて寂し上進せず。
(2)第2期御点時代 撰者たちの上進歌に対し、院が三度まで御点を付し精選せられた時期。
(3)第3期部類時代 1204年(元久1)7月、部類(各部への配当・各部における配列作業)下命、作業が始められ、翌1205年3月26日竟宴(きょうえん)(撰集作業が終わった「竟」のあと開かれる宴)が行われるまで。
(4)第4期切継(きりつぎ)時代 都と隠岐(おき)とに分けて考えられる。都のそれは、竟宴後、切継(切出(きりだし)、切入、継直(つぎなおし))が行われ、承久(じょうきゅう)の乱(1221)の計画の進展に伴い、切継に終止符が打たれ、1216年(建保4)12月26日、和歌所開闔(かいこう)源家長(いえなが)が書写を行った時期まで。隠岐のそれは、在島19年に及ぶ晩年、院の心がふたたび『新古今集』に向かい、約400首の歌を切り出された時期(このおりは切出のみにて都のそれとは性格が異なる)。
このように実に三十数年にわたる長期の撰集の歴史を有するのである。
それに伴い伝本も4類に分かれ成立をみている。
(1)第1類竟宴本 竟宴のおりの本。現存本文とはその後の切継により相当異なった内容であった。
(2)第2類切継時代諸本 現存諸本はほとんどが切継時代の本文を書写した系統に属し、1209年(承元3)ごろだいたい現存本文の形に定まったと考えられているが、切継の諸段階で書写された関係で、切継歌をめぐり相違がみられる。
(3)第3類家長本 都における切継に終止符を打たれた最終段階の本文として、1216年12月26日、源家長により書写された本。切出歌を1首も含まず、家長による真名(まな)、仮名の識語を有する。
(4)第4類隠岐本 隠岐にて約400首切り出された本で、新たに隠岐抄序が付される。
なお『新古今集』は、二十一代集中、複数の撰者による撰集中、どの撰者がどの歌を選んだかを示すいわゆる撰者名注記を有する本があり、撰者名の符号の種類、位置、撰者の名を全部有するか否かなどにつき相違がみられるが、注記のない歌は選歌上進後、院(または藤原良経(よしつね))による切入歌と考えられている。
[後藤重郎]
内容
歌数約2000首。仮名序藤原良経作、真名序藤原親経(ちかつね)作(ただしいずれも後鳥羽院の立場で執筆)。春、夏、秋、冬、賀、哀傷、離別、羇旅(きりょ)、恋1~5、雑(ぞう)上中下、神祇(じんぎ)、釈教の部立(ぶだて)よりなる。八代集中、秋歌が春歌に対して著しく多いのも特色であり、また『千載集(せんざいしゅう)』以後『新続(しんしょく)古今集』を除き、神祇、釈教両部は先後の別こそあれ連続して配されているが、最後の巻20が釈教部となるのは『新古今集』のみであり、後の承久(じょうきゅう)の悲運もこの配列のゆえとまでいわれた。作者は、拾遺群歌人と千載群歌人とに大別され(風巻(かざまき)景次郎による)、歌群の交替と歌人群の交替との巧みな組合せ、各歌群内における配列美により、一首一首の美とともに配列の美による歌境が展開される。作者としては、数のうえからは、撰集時代もしくはやや前の時代の歌人が重んぜられており、西行(さいぎょう)94、慈円92、良経79、俊成(しゅんぜい)72、式子(しょくし)内親王49、定家46、家隆43、寂蓮35、後鳥羽院33、俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)29、雅経22、有家19、通具17等がみられ、古い時代の歌人では、貫之(つらゆき)32、和泉式部(いずみしきぶ)25、人麻呂(ひとまろ)23等がみられる。
[後藤重郎]
歌風
万葉・古今・新古今の三大歌風と称せられ、「風通ふ寝覚の袖(そで)の花の香にかをる枕(まくら)の春の夜の夢」(俊成女)、「春の夜の夢の浮橋とだえして峯(みね)に別るる横雲の空」(定家)などにみられる、余情妖艶(ようえん)の歌風が顕著であり、修辞の面では、体言止(第五句が体言で終わり、述部がそれより前にある「倒置法」と、述部が省略されており、補って考える「省略法」とがある)、奇数句切(初句切、三句切、初句切・三句切を通常いうが、連歌との関係で三句切がとくに注目される)、本歌取(古歌の心・言葉を用いて新しい歌を詠むこと)、懸詞(かけことば)、縁語等の技法を縦横に駆使し、新古今歌風による美的世界を現出している。『古今集』が漢文学全盛の時代の後を受け、勅撰六国史(りっこくし)が宇多(うだ)天皇の前の光孝(こうこう)天皇をもって終わり、遣唐使派遣が菅原道真(すがわらのみちざね)の建言をもって廃され、辛酉(しんゆう)革命の年のゆえをもって延喜(えんぎ)と改元されるなど、宇多・醍醐(だいご)朝の新しい時代への転換期を背景に、初めての勅撰集として華々しく登場したのに対し、『新古今集』は院政という律令制(りつりょうせい)外の政治形態の下、新興勢力の武士の台頭の前にはもはや昔日の栄華は望みえず、さりとて承久の悲運はいまだ経験せず、その名の示すごとく、『古今集』とその時代の復活を夢みての撰集であった。したがって、同じく時代の転換期にありながら、懐古、復古の基盤のうえに、実よりも花にすぎたる美としての新古今歌風となったものであった。しかし一面、後鳥羽院と連歌(れんが)との関係から、中世歌人のみならず連歌師からも共感賛美の念を寄せられ、和歌の面において『古今集』への回帰が志されるときは、つねにいったんは『新古今集』を媒介として『古今集』への復帰が志向され、連歌の面においては、連歌師による注釈書の出現となり、それぞれに大きな意味をもった。近世では万葉主義、古今主義、新古今主義と三大和歌思潮の一つを形成し、近代においてもその及ぼした影響は萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)・塚本邦雄(くにお)らと、事新しく述べるまでもなく、後世への影響も非常に大きなものがある。
[後藤重郎]
『西下経一・実方清編『増補国語国文学研究史大成7 古今集新古今集』(1976・三省堂)』▽『久保田淳著『新古今和歌集全評釈』全9巻(1976~1977・講談社)』▽『上条彰次・片山享・佐藤恒雄著『新古今和歌集入門』(有斐閣新書)』▽『藤平春男著『新古今とその前後』(1983・笠間書院)』▽『『新古今時代の歌合と歌壇』(『谷山茂著作集4』所収・1983・角川書店)』▽『『新古今集とその歌人』(『谷山茂著作集5』所収・1983・角川書店)』