本庄普一(読み)ほんじょう・ふいち

朝日日本歴史人物事典 「本庄普一」の解説

本庄普一

没年弘化3.11.4(1846.12.21)
生年:生年不詳
江戸後期の眼科医。武蔵国本庄(本庄市)の人。はじめ翠蘭先生に就いて眼科を修めたと伝えるが詳細不明。文政8~9(1825~26)年ごろ長崎に留学して西洋眼科を修めたが,シーボルト門人ではなかった。長崎を去って京都,さらに武蔵国川越に移って開業し,漢蘭折衷眼科の大家として知られた。天保2(1831)年『眼科錦嚢』3巻,天保8年『続眼科錦嚢』2巻を刊行し,当時最も進歩的な眼科学書として名声を博した。この書で,シーボルト伝授の散瞳薬を詳述し,その誤用によって失明(急性緑内障の発作)することを警告した。<参考文献>福島義一「日本眼科史」(『日本眼科全書』1巻)

(福島義一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本庄普一」の解説

本庄普一 ほんじょう-ふいち

1798-1846 江戸時代後期の医師
寛政10年生まれ。文政8年ごろ長崎で西洋眼科を研究。帰郷後,武蔵(むさし)川越(埼玉県)で開業。漢方・蘭方折衷の眼科医として患者信望をあつめた。弘化(こうか)3年11月4日死去。49歳。武蔵本庄(埼玉県)出身。名は俊篤。字(あざな)は士雅。著作に「眼科錦嚢」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android