孝明天皇(読み)コウメイテンノウ

デジタル大辞泉 「孝明天皇」の意味・読み・例文・類語

こうめい‐てんのう〔カウメイテンワウ〕【孝明天皇】

[1831~1867]第121代天皇。在位、1846~1867。仁孝天皇の第4皇子。名は統仁おさひと攘夷じょういを主張したが公武合体策をとり、皇妹和宮かずのみやの将軍徳川家茂とくがわいえもちへの降嫁を行い、倒幕派を退けた。

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精選版 日本国語大辞典 「孝明天皇」の意味・読み・例文・類語

こうめい‐てんのうカウメイテンワウ【孝明天皇】

  1. 第一二一代天皇。仁孝天皇の第四皇子。名は統仁(おさひと)。弘化三年(一八四六践祚(せんそ)攘夷論を主張して、幕府に海防の強化をうながし、安政五か国条約に反対。公武合体をはかり、皇妹和宮を一四代将軍徳川家茂に降嫁させた。天保二~慶応二年(一八三一‐六六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「孝明天皇」の意味・わかりやすい解説

孝明天皇
こうめいてんのう
(1831―1866)

江戸末期の天皇(在位1846~1866)。仁孝(にんこう)天皇第4皇子。天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。名は統仁(おさひと)。1846年(弘化3)2月、16歳で践祚(せんそ)、翌年9月即位式をあげる。1846年8月、対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書(さたしょ)を出した。その後も幕府に外交問題で遺憾(いかん)のないようにとの指示を与え、幕府も朝廷の意向を無視できなくなった。1858年(安政5)日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際にこれを拒否、井伊直弼(いいなおすけ)の決断による調印を「専断」と非難した。退位の意向も示したが、攘夷(じょうい)強硬派の公卿(くぎょう)に動かされ、8月水戸藩に幕府改革を求める密勅を発した。1860年(万延1)井伊暗殺後、幕府は朝廷との妥協によって実権を回復しようとし、天皇も、攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断、妹和宮(かずのみや)の江戸降嫁(こうか)を認めた。1862年(文久2)には、将軍家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を求め、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)の登用による幕政改革を指示、さらに攘夷の布告発布を迫り、翌1863年「攘夷断行」を幕府から上奏させるなど、かねてからの攘夷の立場で幕府を強く指導した。しかし、「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」(1863)にあたっては、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。一橋慶喜、松平慶永、山内容堂(ようどう)ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目ざし、岩倉具視(ともみ)ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的であった。1866年(慶応2)7月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示し、幕府の統制力の崩壊は決定的となったが、第15代将軍慶喜の就任直後の12月25日急死した。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復をねらい、薩長(さっちょう)による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。享年36歳。墓所は京都東山(ひがしやま)泉涌寺(せんにゅうじ)の後月輪(のちのつきのわ)東山陵。

[河内八郎]

『宮内省編纂『孝明天皇紀』全5冊・附図(1967~1971・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「孝明天皇」の意味・わかりやすい解説

孝明天皇【こうめいてんのう】

江戸末期の天皇。仁孝天皇第4皇子。在位1846年―1866年,名は統仁(おさひと)。1854年日米和親条約神奈川条約)は許したが,1858年日米修好通商条約勅許は拒否し攘夷(じょうい)の立場をとった(条約勅許問題)。以後積極的に政治に関与し,1860年皇妹和宮(かずのみや)を14代将軍徳川家茂に降嫁させ公武合体による皇位の優位を目ざした。1866年疱瘡(ほうそう)で没したが,病気回復中の急死であったため,当時倒幕派による毒殺説が流れた。
→関連項目岩倉具視坂下門外の変十津川の変文久3年8月18日の政変松平容保明治天皇和歌山藩

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朝日日本歴史人物事典 「孝明天皇」の解説

孝明天皇

没年:慶応2.12.25(1867.1.30)
生年:天保2.6.14(1831.7.22)
仁孝天皇の第4皇子に生まれ,天保11(1840)年立太子,弘化4(1847)年9月即位,父天皇の遺志を受けて公家の学問所を創設,学習院と命名した。嘉永6(1853)年のペリー来航以来,開国という新たな状況に直面し,困難な選択を強いられ続ける。関心は伝統の存続にあり,だから鎖国が望ましい。だが天皇としては多数意見を尊重しなければならぬ。安政5(1858)年2月上洛の老中堀田正睦が条約調印の承認を求めたとき,諸大名の意見を聞いたうえで判断するとして許可を与えなかった。同6月幕府が独断で調印を行ったとの報告に接し譲位を表明。8月,井伊直弼の幕政指導に不信を示す,いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達。9月老中間部詮勝が入洛,浪士に始まった捕縛が公家におよびそうになり,12月鎖国の状態に引き戻すことを条件に条約調印を了承した。 桜田門外の変ののち,安藤信正・久世広周らの幕府の数度にわたる要請を受け,将軍徳川家茂と皇妹和宮の婚姻を承認。文久1(1861)年長井雅楽の「航海遠略策」を受理。翌2年5月島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣,10月薩長土3藩主の要請に基づき三条実美,姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促。翌3年長州藩の建議を受け,折から上洛中の家茂を従えて賀茂社へ行幸,237年ぶりの行幸だった。石清水社行幸を経て大和行幸が計画され始めるとことの成り行きに不安を抱き,これを朝彦親王に伝え,8月18日の政変を承認。次いで翌元治1(1864)年1月再度上洛した家茂に公武一和の協力を命じた。同年7月禁門の変の直後,長州追討を命じた。翌慶応1(1865)年9月幕府の要請を受けて長州再征を許可。10月徳川慶喜の強要を容れ条約を許可,ただし兵庫開港は不可とした。翌年の暮れ,にわかな病を得て死去。38歳であった。<参考文献>宮内省編『孝明天皇紀』

(井上勲)

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改訂新版 世界大百科事典 「孝明天皇」の意味・わかりやすい解説

孝明天皇 (こうめいてんのう)
生没年:1831-66(天保2-慶応2)

第121代に数えられる天皇。在位1847-66年。仁孝天皇第4皇子。名は統仁(おさひと)。1846年践祚。条約勅許問題以降,積極的に政治に関与。その政治的立場は,強硬な攘夷主義と公武合体論。58年日米修好通商条約の締結に際して,幕府はその勅許を要請したが,調印に強く反対。幕府が独断で条約に調印するや,それに抗議して譲位の意を示す。ここに朝幕の対立は頂点に達したが,桜田門外の変ののち,幕府が公武一体を方針とし,将来の攘夷の実行を約して,皇妹和宮と将軍徳川家茂との婚姻を要請すると,周囲の反対をおしてこれに同意。62-63年に高揚する尊攘運動には批判的で,中川宮や京都守護職松平容保(かたもり)と結んで,尊攘派を京都から追放(文久3年8月18日の政変)。一橋慶喜を信任し,攘夷に期待をかけたが,66年条約をついに勅許。この年疱瘡(ほうそう)を病み逝去病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「孝明天皇」の意味・わかりやすい解説

孝明天皇
こうめいてんのう

[生]天保2(1831).6.14. 京都
[没]慶応2(1866).12.25. 京都
第 121代の天皇 (在位 1846~66) 。名は統仁 (おさひと) 。仁孝天皇の第4皇子。生母は正親町実光の娘雅子 (なおこ) ,養母は皇太后藤原祺子 (46) 。弘化3 (46) 年践祚。在位の間は内外きわめて多事多難で,日米和親条約は許したが,通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) 勅許の幕府要請を退け,攘夷の決意を表明した。しかし安藤信正らによる皇妹和宮の降嫁に同意して公武合体をはかった (→和宮降嫁問題 ) 。文久2 (62) 年から同3年にかけての尊攘過激派の堂上独占に対しては批判的で,急進過激な国策を戒めたため,三条実美以下がいわゆる七卿の都落ちとなった (→七卿落 ) 。天皇の崩御後,尊攘派の公家が復活し,岩倉具視が入京を許され,尊攘派に属した中山忠能の娘慶子と天皇との間に生れた明治天皇の即位となる。皇后夙子 (あさこ) は英照皇太后と称された。陵墓は京都市東山区今熊野の後月輪東山陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「孝明天皇」の解説

孝明天皇 こうめいてんのう

1831-1867* 江戸時代後期,第121代天皇。在位1846-67*。
天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。仁孝天皇の第4皇子。母は藤原雅子(新待賢門院)。父の死により皇位をつぐ。攘夷(じょうい)鎖国をのぞみ,幕府が勅許をまたずアメリカなどと修好通商条約に調印したため,一時譲位を表明。その後公武合体をうけいれ,妹の和宮を将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁させた。慶応2年12月25日死去。36歳。墓所は後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)(京都市東山区)。幼称は煕(ひろの)宮。諱(いみな)は統仁(おさひと)。
【格言など】あさゆふに民やすかれと思ふ身のこころにかかる異国のふね(「孝明天皇紀」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「孝明天皇」の解説

孝明天皇
こうめいてんのう

1831.6.14~66.12.25

在位1846.2.13~66.12.25

仁孝天皇の第4皇子。名は統仁(おさひと)。母は正親町実光の女新待賢門院雅子(なおこ)。1835年(天保6)儲君に定まり親王宣下,40年立太子,46年(弘化3)父の死去により践祚。63年(文久3)将軍徳川家茂(いえもち)らを従え賀茂社・石清水八幡宮に行幸し,攘夷断行を祈念したが,尊攘激派を好まず,公武合体政策を支持した。66年(慶応2)痘瘡で死去。公武合体を旨とした政治姿勢は倒幕勢力の障害とも評された。歌集「此花詠集」,伝記「孝明天皇紀」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「孝明天皇」の解説

孝明天皇
こうめいてんのう

1831〜66
江戸末期の天皇(在位1846〜66)
明治天皇の父。在位中,内外極めて多事であった。攘夷論者で通商条約に反対したが,14代将軍徳川家茂 (いえもち) への妹和宮 (かずのみや) の降嫁を許し,公武合体をはかり,過激な尊攘派の抑制につとめた。'66年疱瘡で急死したが,毒殺説もある。以後武力討幕論が急激に発展した。

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367日誕生日大事典 「孝明天皇」の解説

孝明天皇 (こうめいてんのう)

生年月日:1831年6月14日
江戸時代末期の第121代の天皇
1867年没

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世界大百科事典(旧版)内の孝明天皇の言及

【安政の大獄】より

…59年になると,幕府は,前年8月8日の降勅の画策に荷担し,また一橋慶喜の将軍継嗣擁立のために運動した公卿の処罰にふみきった。2月,幕府の圧力によって,孝明天皇は,青蓮院宮尊融入道親王,二条斉敬,広橋光成,万里小路正房,正親町三条実愛に謹慎を命じた。ついで4月,鷹司政通,同輔熙,近衛忠熙,三条実万も謹慎・落飾を命じられた。…

※「孝明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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