江戸末期の天皇(在位1846~1866)。仁孝(にんこう)天皇第4皇子。天保(てんぽう)2年6月14日生まれ。名は統仁(おさひと)。1846年(弘化3)2月、16歳で践祚(せんそ)、翌年9月即位式をあげる。1846年8月、対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書(さたしょ)を出した。その後も幕府に外交問題で遺憾(いかん)のないようにとの指示を与え、幕府も朝廷の意向を無視できなくなった。1858年(安政5)日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際にこれを拒否、井伊直弼(いいなおすけ)の決断による調印を「専断」と非難した。退位の意向も示したが、攘夷(じょうい)強硬派の公卿(くぎょう)に動かされ、8月水戸藩に幕府改革を求める密勅を発した。1860年(万延1)井伊暗殺後、幕府は朝廷との妥協によって実権を回復しようとし、天皇も、攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断、妹和宮(かずのみや)の江戸降嫁(こうか)を認めた。1862年(文久2)には、将軍家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を求め、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)の登用による幕政改革を指示、さらに攘夷の布告発布を迫り、翌1863年「攘夷断行」を幕府から上奏させるなど、かねてからの攘夷の立場で幕府を強く指導した。しかし、「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」(1863)にあたっては、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美(さんじょうさねとみ)ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。一橋慶喜、松平慶永、山内容堂(ようどう)ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目ざし、岩倉具視(ともみ)ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的であった。1866年(慶応2)7月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示し、幕府の統制力の崩壊は決定的となったが、第15代将軍慶喜の就任直後の12月25日急死した。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復をねらい、薩長(さっちょう)による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。享年36歳。墓所は京都東山(ひがしやま)泉涌寺(せんにゅうじ)の後月輪(のちのつきのわ)東山陵。
[河内八郎]
『宮内省編纂『孝明天皇紀』全5冊・附図(1967~1971・吉川弘文館)』
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(井上勲)
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第121代に数えられる天皇。在位1847-66年。仁孝天皇第4皇子。名は統仁(おさひと)。1846年践祚。条約勅許問題以降,積極的に政治に関与。その政治的立場は,強硬な攘夷主義と公武合体論。58年日米修好通商条約の締結に際して,幕府はその勅許を要請したが,調印に強く反対。幕府が独断で条約に調印するや,それに抗議して譲位の意を示す。ここに朝幕の対立は頂点に達したが,桜田門外の変ののち,幕府が公武一体を方針とし,将来の攘夷の実行を約して,皇妹和宮と将軍徳川家茂との婚姻を要請すると,周囲の反対をおしてこれに同意。62-63年に高揚する尊攘運動には批判的で,中川宮や京都守護職松平容保(かたもり)と結んで,尊攘派を京都から追放(文久3年8月18日の政変)。一橋慶喜を信任し,攘夷に期待をかけたが,66年条約をついに勅許。この年疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い。
執筆者:羽賀 祥二
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1831.6.14~66.12.25
在位1846.2.13~66.12.25
仁孝天皇の第4皇子。名は統仁(おさひと)。母は正親町実光の女新待賢門院雅子(なおこ)。1835年(天保6)儲君に定まり親王宣下,40年立太子,46年(弘化3)父の死去により践祚。63年(文久3)将軍徳川家茂(いえもち)らを従え賀茂社・石清水八幡宮に行幸し,攘夷断行を祈念したが,尊攘激派を好まず,公武合体政策を支持した。66年(慶応2)痘瘡で死去。公武合体を旨とした政治姿勢は倒幕勢力の障害とも評された。歌集「此花詠集」,伝記「孝明天皇紀」。
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…59年になると,幕府は,前年8月8日の降勅の画策に荷担し,また一橋慶喜の将軍継嗣擁立のために運動した公卿の処罰にふみきった。2月,幕府の圧力によって,孝明天皇は,青蓮院宮尊融入道親王,二条斉敬,広橋光成,万里小路正房,正親町三条実愛に謹慎を命じた。ついで4月,鷹司政通,同輔熙,近衛忠熙,三条実万も謹慎・落飾を命じられた。…
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