旺文社日本史事典 三訂版 「本田畑」の解説
本田畑
ほんでんぱた
以後開発された新田に対していう。1726(享保11)年の新検地条目で,元禄(1688〜1704)以前の検地帳記載の田畑を本田畑,元禄〜享保年間(1716〜36)を古新田,享保以後を新田とした。本田畑は一般に租率が重く,商品作物などの作付制限がきびしかった。
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…ついで寛文の関東総検地,延宝の畿内・近国の幕領検地(寛文・延宝検地),さらに貞享の上野などの検地,元禄の信濃・飛驒などの検地(元禄検地)があり,そのたびに新しい規準が若干ずつ加えられていき,1726年(享保11)には詳細な新田検地条目ヵ条が出された。これより享保以前の検地を古検,以後のそれを新検と称し,元禄以前に検地した耕地を本田畑,元禄以後享保以前に検地した新田を古新田といって,享保以後の新田と区別した。 この検地条目により関東諸国と大和の検地が実施されて以後,幕府の手による大がかりな検地はなかったが,新田の本田への組入れ,隠田の摘発,年貢増徴などのため,享保以後も小規模の検地は幕末にいたるまで各地で実施された。…
…それゆえ新田は,東国における在地領主制の発展にきわめて有利な条件となったのである。【黒田 日出男】 江戸時代の新田には,新しく開発された耕地という一般的な意味のほかに,本田畑に対する新田という法制上の土地範疇としての意味が存在した。本田畑とは,ふつう江戸幕府初期の慶長初年(1596)以前に行われた総検地(古検ともいう)によって石高をつけられた土地をいい,これに対し,その後に新田開発され,寛文・延宝検地や元禄検地(新検ということがある)によって新たに高付けされた田畑屋敷地をすべて新田と称した。…
…古田(こでん)・古畑ともいう。江戸時代においては,ふつう元禄(1688‐1704)以前の検地によって石高をつけられ,村高に組み入れられた田畑を指すが,地域・時期によって本田畑・新田畑の区分は多様である。本田畑は新田畑に比べ一般に生産力が高いため貢租が重く,稲以外の作付けも厳しく制限されていた。…
※「本田畑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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