出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
荒野などを開墾してできた新しい田地。隠田が領主に申告されていない田地であるのに対して,新田は検注によって領主に把握されている田地である。そして必ずしも新規の開墾地だけでなく,大検注の年に〈年不(ねんふ)〉(その年作付けされていない耕地)だった田地が,新田とされる場合もあった。領主の掌握地とはいっても,本田が領主の年貢・公事賦課の基本的な対象耕地であるのに対し,新田はまだ本田に組み込まれていないので,年貢額もきわめて低いのが通例であった。また,新田の開墾には開発資本が必要であり,しかも安定した収穫が得られるようになるには一定の期間が必要である。そこで中世でも,開墾・開発にあたっては,3年ないし4年間の年貢と雑公事の免除を受けられるのが慣習法となっていた。開墾された新田は,〈古新〉〈本新〉〈出田〉などの中間的な地目を経て,やがて本田となるが,簡単に本田化されるわけではない。新田の年貢額の決定をめぐってはもちろんのこと,本田化にあたっては領主と農民の間で虚々実々の交渉が繰り返された。また,新田の検注権は,一般的には荘園領主がもっている。しかし関東御分とされた東国では,鎌倉幕府は預所の新田検注を認めず,新田を地頭の得分とした。それゆえ新田は,東国における在地領主制の発展にきわめて有利な条件となったのである。
執筆者:黒田 日出男 江戸時代の新田には,新しく開発された耕地という一般的な意味のほかに,本田畑に対する新田という法制上の土地範疇としての意味が存在した。本田畑とは,ふつう江戸幕府初期の慶長初年(1596)以前に行われた総検地(古検ともいう)によって石高をつけられた土地をいい,これに対し,その後に新田開発され,寛文・延宝検地や元禄検地(新検ということがある)によって新たに高付けされた田畑屋敷地をすべて新田と称した。新田は,比較的大規模なものは本村の枝村となったり新田村として独立することがあったが,その他の場合は新田高として村高の内に編入された。ただし,石盛が低くつけられるなど,あくまで本田畑とは別扱いであり,後年になって両者の差異が事実上なくなっても,土地法制上の区別は形式的に残された。幕府は1726年(享保11)に新田検地条目を制定したが,この条目による享保以降の新田と区別するために,享保以前に成立した新田を古新田と呼ぶことがあった。
執筆者:安藤 正人
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群馬県南東部、新田郡にあった旧町名(新田町(まち))。現在は太田市の西部を占める地区。1956年(昭和31)木崎(きざき)町と生品(いくしな)、綿打(わたうち)の2村が合併して新田町が成立。2005年(平成17)太田市に合併。東武鉄道伊勢崎(いせさき)線が通じる。地域の北部は大間々(おおまま)扇状地で桑畑などの畑作地が広く、南部の大部分は低平な水田地帯である。扇端湧泉(ゆうせん)地帯は標高55メートルで、小金井(こがねい)、市野井(いちのい)、金井(かねい)など「井」のつく集落が分布する。中世新田氏の荘園(しょうえん)として開墾が進み、新田義貞(よしさだ)の挙兵地といわれ、ゆかりの生品神社、反町館(そりまちやかた)跡などの史跡に富む。荘園に関する遺跡は2000年にまとめて「新田荘遺跡」として国の史跡に指定された。旧町域の中心集落の木崎は宿場から発展した小市街地で、買い物町のほかビール工場があり、扇状地では野菜の促成栽培や畜産が行われる。市野倉(いちのくら)開拓地は軍の旧飛行場跡。
[村木定雄]
『『新田町誌』全5巻(1983~1990・新田町)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中国,山西省侯馬市の北西にある春秋戦国時代の城址。この地は,北に汾水が,南に澮水が流れ,春秋時代に晋国の都が置かれた〈新田〉に比定されている。付近には,牛村古城のほか,白店古城,平望古城,台神古城,馬荘古城,呈王古城などの古城址が多数残り,1957年以来たびたび調査が行われている。…
…こうした傾向の増大が幕府の処理能力を超えたとき,北条氏の鎌倉幕府は終末を迎える。 北条氏没落後の越後は,倒幕の中心の一人新田義貞の手に移ったが,建武政府が短期間で滅んでからは,足利尊氏の側に移った。尊氏は関東を重視して,鎌倉府を置き基氏を鎌倉公方に,上杉憲顕,高師冬を関東管領に任じた。…
…鎌倉末に成立した《沙汰未練書》には〈御家人トハ,往昔以来,開発領主トシテ,武家ノ御下文ヲ賜ハル人ノ事ナリ〉〈本領トハ,開発領主トシテ,代々武家ノ御下文ヲ賜ハル所領田畠等ノ事ナリ〉と述べており,開発領主たることが鎌倉幕府の御家人の本質的属性として端的に示されている。鎌倉幕府は,関東御分国たる東国において,開発された〈新田〉を地頭の得分とし,検注免除の特権を付与した。開発を推進させ,開発地に対する強力な領主権を保障したのである。…
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[日本の干拓]
東日本に湖沼干拓が多く,西日本に海面干拓が多い。湖沼干拓地は新田という地名であるが,海面干拓は旧藩領によって異なり,八代海の新地,有明海の牟田(むた),搦(からみ),籠(こもり),瀬戸内海の開作,新開などがあり,大阪湾,伊勢湾では新田という。湖沼干拓は17世紀の治水技術の発達によって,干潟八万石,飯沼,見沼,紫雲寺潟などに2000~3000haの干拓地ができた。…
…慶長・元和の検地につぐ寛永・慶安期(1624‐52)の検地は,幕政初期の農政の仕上げともいうべきもので,1649年(慶安2)にはいわゆる〈慶安御触書〉32ヵ条とともに〈検地掟〉26ヵ条(慶安検地条目)が出されている。ついで寛文の関東総検地,延宝の畿内・近国の幕領検地(寛文・延宝検地),さらに貞享の上野などの検地,元禄の信濃・飛驒などの検地(元禄検地)があり,そのたびに新しい規準が若干ずつ加えられていき,1726年(享保11)には詳細な新田検地条目ヵ条が出された。これより享保以前の検地を古検,以後のそれを新検と称し,元禄以前に検地した耕地を本田畑,元禄以後享保以前に検地した新田を古新田といって,享保以後の新田と区別した。…
※「新田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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