永田蕨
ながたわらび
JR吉都線えびの上江駅付近に比定される。康永四年(一三四五)一一月二二日の開田出羽守領吉田村年貢濫妨事書(相良家文書)に「真幸院東郷内永田蕨方百町」とみえ、細川頼春が先帝御代(後醍醐天皇時代)に催された的始めで「的十」(一〇発一〇中)をなした勲功として、将軍家(足利尊氏)から真幸院東郷内の永田蕨方一〇〇町を給与され、次いで日向国の守護職に任命されたとある。頼春(管領細川頼之の父)が勲功「的十」をなしたのは元弘四年(一三三四)正月の的始めのときである(御的日記)。その後永田蕨方は幕府から日向国大将畠山直顕に「薩州凶徒対治発向料足」として給与され、康永四年に当国守護に任命された直顕は、同所を守護領として組入れてしまった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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