日本歴史地名大系 「上江村」の解説 上江村うわえむら 宮崎県:児湯郡高鍋町上江村[現在地名]高鍋町上江高鍋村の西、小丸(おまる)川の下流両岸に位置する。同川に沿って沖積低地が広がり、右岸南方は洪積台地。北は大池(おいけ)村(現川南町)、西は高城(たかじよう)町(現木城町)・穂北(ほきた)村(現西都市)など、南は新田井倉(にゆうたいくら)村(現新富町)・市(いち)ノ山(やま)村。「和名抄」に載る那珂郡の於部(おべ)郷が転訛して上江となったとする説がある(「大日本地名辞書」など)。元和二年(一六一六)の新納院上江村坪付帳(森家文書)によると、森神左衛門は当村のうちで合せて五石を宛行われている。新納(にいろ)七郷のうち当村と市ノ山村からなる上江郷に所属、新納代官の支配を受けた。庄屋は当村平原(ひらばる)に居住し、寛永一五年(一六三八)の高鍋藩人給帳によると、同郷の庄屋(催司)は喜左衛門で七石扶持であった。年貢は定免で、田方は三ツ四厘六毛、畑方は大豆一石につき三斗を上納した。 上江村かみさばえむら 福井県:鯖江市上江村[現在地名]鯖江市上鯖江町・舟津(ふなつ)町一―五丁目・住吉(すみよし)町一―三丁目・日(ひ)の出(で)町・深江(ふかえ)町・宮前(みやまえ)一―二丁目日野川の東岸、西鯖江(にしさばえ)村の南にある。当地と北陸街道とを結ぶ日野川の白鬼女(しらきじよ)の舟渡があった。「越前国名蹟考」には「駅、馬十六疋」とみえ、枝村として「白鬼女・上中」を記す。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南西郡鯖江村に含まれるが、正保郷帳に村名がみえる。同帳によれば田方一千三六七石余・畠方一〇八石余。福井藩領。白鬼女の舟渡について天正一一年(一五八三)四月二二日付「さばや船頭中」宛の羽柴筑前守秀吉の書状(上鯖江区有文書)は「当渡船之事申付候上者世年如在来諸役免除候也」と記す。 上江村うわえむら 宮崎県:えびの市上江村[現在地名]えびの市上江今西(いまにし)村の南にあり、南の末永(すえなが)村との間を池島(いけじま)川が西流する。村名は元禄一五年(一七〇二)頃は宮原(みやばる)村と称し、のち改められたともいう(日向地誌)。宮原は字名として残る。永享五年(一四三三)七月八日、島津忠国は、「嶋津御庄日向方諸県庄之内入名并宮原村」を料所として樺山孝久に宛行っている(「島津忠国宛行状」樺山文書)。文禄五年(一五九六)二月二三日には大戸(おおと)諏方大明神の大宮司井尻神力坊の子井尻豊前坊に「飯野宮原村之内 倉本之門」の分米大豆九石などが知行分として与えられた(「川上肱枕外二名連署領知目録」旧記雑録)。 上江村うわえむら 石川県:羽咋市上江村[現在地名]羽咋市上江町垣内田(かくつた)村の北、邑知(おうち)潟南の平地に立地。江戸初期までは垣内田村の枝村(「公務当用記」加藤文書)。中世には邑智(おうち)庄の内。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)に「上江」とみえ、当地居住の与四郎などの気多社領作職人がみえる。享禄四年(一五三一)七月の一宮惣分目帳案(気多大宮司家文書)によると、地内に衛門が年貢四〇〇文を負担する田があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by