河村義秀(読み)かわむら・よしひで

朝日日本歴史人物事典 「河村義秀」の解説

河村義秀

生年生没年不詳
鎌倉前期の武士。相模国の住人。藤原秀郷の子孫,波多野氏一族。秀高の子。治承4(1180)年,源頼朝の石橋山挙兵の際,平家方に属し頼朝軍と戦い,のち捕らわれて大庭景能の許に預けられた。斬罪になるところを景能の計らいで死を免れた。建久1(1190)年8月の鶴岡八幡宮放生会の際,景能の進言流鏑馬射手に召し出され,三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き,頼朝より罪を許された。9月には本領河村郷(神奈川県山北町)を安堵され,以後御家人として活躍。頼朝の2度の上洛曾我兄弟仇討ちで有名な富士野巻狩りにも随行承久3(1221)年の承久の乱では,幕府軍に属して軍功を挙げた。

(澤野泉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河村義秀」の解説

河村義秀 かわむら-よしひで

?-? 平安後期-鎌倉時代の武士。
秀郷(ひでさと)流藤原氏の波多野氏の一族。源頼朝の挙兵の際は平氏側にたち,大庭景親(おおば-かげちか)らとともに捕らえられる。大庭景義のはからいで建久元年(1190)鶴岡八幡宮での流鏑馬(やぶさめ)で妙技をふるい,罪をゆるされたという。承久(じょうきゅう)の乱では幕府側に参加して功をたてた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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