大庭景親(読み)オオバカゲチカ

精選版 日本国語大辞典 「大庭景親」の意味・読み・例文・類語

おおば‐かげちか【大庭景親】

  1. 平安後期の武将。相模国神奈川県)の人。平氏の支族。源頼朝を石橋山に破ったが、のち頼朝再挙の時捕えられ斬られた。治承四年(一一八〇)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「大庭景親」の意味・わかりやすい解説

大庭景親 (おおばかげちか)
生没年:?-1180(治承4)

平安時代末期の武士通称大庭三郎。景忠の子で,平治の乱の際捕らえられながらも助命されたことから平家臣従した。1180年5月の源頼政挙兵時には京都にあって平家軍に属し,東下後の同年8月源頼朝が挙兵すると,平家方の総大将として石橋山でこれを破った。しかし10月再挙した頼朝が富士川で平家軍を破ると,もはやこれまでと降参し,梟首(きようしゆ)された。
大庭氏
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大庭景親」の意味・わかりやすい解説

大庭景親
おおばかげちか
(?―1180)

平安後期の相模(さがみ)国の有力武士。後三年の役に源義家(よしいえ)に属して活躍した鎌倉権五郎景政(景正)(ごんのごろうかげまさ)の曽孫(そうそん)。高座(たかくら)郡の大庭郷(神奈川県藤沢市)を本拠勢力を振るった。保元(ほうげん)の乱には源義朝(よしとも)に従ったが、平治(へいじ)の乱後は平氏の被官となった。1180年(治承4)5月以仁王(もちひとおう)、源頼政(よりまさ)が挙兵すると、平氏に属してこれを討ち、ついで8月には石橋山の戦いで源頼朝(よりとも)を敗走させた。しかし同年10月、再挙した頼朝軍のために、京から下ってきた平氏軍が富士川で敗れるに及んで、景親も降伏。治承(じしょう)4年10月26日に梟首(きょうしゅ)された。なお兄の景義(かげよし)は頼朝に従い、鎌倉幕府において重んぜられた。

[山本博也]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大庭景親」の解説

大庭景親
おおばかげちか

?~1180.10.26

平安末期の武将。景忠の子。通称大庭三郎。相模国大庭御厨(おおばのみくりや)の下司職を相伝。源義朝に従い保元・平治の乱に加わった。平治の乱に敗れたあと,許されて平氏の家人となる。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の挙兵に平家方として参加。源頼朝が挙兵すると追討軍の大将となり,石橋山(現,神奈川県小田原市)に頼朝を破ったが,富士川の戦で頼朝に降伏。平広常に預けられたあと処刑された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大庭景親」の解説

大庭景親 おおば-かげちか

?-1180 平安時代後期の武将。
大庭景忠(かげただ)の子。大庭景義の弟。保元(ほうげん)の乱に兄とともに源義朝に味方する。のち平氏に属し,治承(じしょう)4年挙兵した源頼朝を石橋山でやぶった。頼朝の勢力がのびるにおよんで降伏し,同年10月26日殺された。相模(さがみ)(神奈川県)出身。通称は三郎,平三郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大庭景親」の意味・わかりやすい解説

大庭景親
おおばかげちか

[生]?
[没]治承4(1180).10.26. 片瀬?
平安時代末期の相模の武士。源頼朝挙兵に際し,平氏の大将として石橋山でこれを破った (→石橋山の戦い ) 。

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世界大百科事典(旧版)内の大庭景親の言及

【石橋山の戦】より

…1180年(治承4)8月,相模国石橋山(小田原市南西部)で平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘。この月17日伊豆の北条に挙兵した頼朝は,同国目代(もくだい)山木兼隆を討ち,平氏討滅の緒戦を飾ったが,従う兵はまだ少なく,駿河方面からの圧迫も加わった。…

※「大庭景親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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