(湯山学)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安後期の相模(さがみ)国の有力武士。後三年の役に源義家(よしいえ)に属して活躍した鎌倉権五郎景政(景正)(ごんのごろうかげまさ)の曽孫(そうそん)。高座(たかくら)郡の大庭郷(神奈川県藤沢市)を本拠に勢力を振るった。保元(ほうげん)の乱には源義朝(よしとも)に従ったが、平治(へいじ)の乱後は平氏の被官となった。1180年(治承4)5月以仁王(もちひとおう)、源頼政(よりまさ)が挙兵すると、平氏に属してこれを討ち、ついで8月には石橋山の戦いで源頼朝(よりとも)を敗走させた。しかし同年10月、再挙した頼朝軍のために、京から下ってきた平氏軍が富士川で敗れるに及んで、景親も降伏。治承(じしょう)4年10月26日に梟首(きょうしゅ)された。なお兄の景義(かげよし)は頼朝に従い、鎌倉幕府において重んぜられた。
[山本博也]
?~1180.10.26
平安末期の武将。景忠の子。通称大庭三郎。相模国大庭御厨(おおばのみくりや)の下司職を相伝。源義朝に従い保元・平治の乱に加わった。平治の乱に敗れたあと,許されて平氏の家人となる。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の挙兵に平家方として参加。源頼朝が挙兵すると追討軍の大将となり,石橋山(現,神奈川県小田原市)に頼朝を破ったが,富士川の戦で頼朝に降伏。平広常に預けられたあと処刑された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1180年(治承4)8月,相模国石橋山(小田原市南西部)で平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘。この月17日伊豆の北条に挙兵した頼朝は,同国目代(もくだい)山木兼隆を討ち,平氏討滅の緒戦を飾ったが,従う兵はまだ少なく,駿河方面からの圧迫も加わった。…
※「大庭景親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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