鎌倉市の中央部、
「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月一二日条によると、当宮は康平六年(一〇六三)八月、源頼義が奥州の安倍貞任征伐を記念し、ひそかに石清水八幡宮分霊を勧請して
一六日には若宮に鳥居を建立し、頼朝は供僧に長日の最勝王経講讃を始行させ、自らも同席した。養和元年(一一八一)五月一三日「松柱に萱の軒」という簡素な若宮の改築が計画され、材木の沙汰があった。奉行は土肥実平・大庭景義ら。六月二七日用材の柱一三本・虹梁二支が由比ガ浜に到着、七月三日営作の沙汰があったが、鎌倉に工匠がいなかったので武州
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鎌倉市に鎮座。祭神は応神天皇,比売(ひめ)神,神功皇后。旧国幣中社。1063年(康平6)源頼義が安倍貞任を追討する際戦勝祈願をした石清水(いわしみず)八幡宮を由比郷に勧請したのが始まりで,その子義家は81年(永保1)修復を加えるとともに小林郷に移した。その後1180年(治承4)平氏打倒の旗印をかかげて伊豆に蜂起した頼朝は同宮を小林郷北山の地に遷した。都市鎌倉建設の際に,頼朝は同宮を内裏に,同宮から南に走る中心道の若宮大路を朱雀大路にそれぞれ見たてて整備した。宮内には別当,供僧,少別当,神主,小宮神主,巫子などの職があり,供僧は25坊(のち院と称す)に属した。正式な別当として円暁が補任されたのが82年(寿永1)で,八幡宮全体を統轄し宮内の諸職を補任するのが役割であった。同年3月には政子の安産を祈願して社頭から由比ヶ浜に至る参道が築き直された。これを置石(おきいし)とか段葛(だんかずら)と呼ぶ。しかし91年(建久2)3月の大火で同宮も焼失したため,同年末には現在の位置にあたる高台を選定し,新しく石清水八幡宮を勧請して以前よりも大規模な社殿を建立した。これを本宮(上宮),もとの社は若宮(下宮)と呼ぶ。
93年には楽所・舞殿を設置し,それまで楽人も京都から多好方を招いて都風の楽曲を奏していたのを,このころから独自に楽人を養成するようになった。将軍の崇敬あつく,代々の将軍は1月1日に参詣するのが恒例であり,鎌倉幕府の政治的守護神としての性格も併有していた。旧8月15日の放生会(ほうじようえ)が大祭で,原則として東国御家人のみが参加して将軍参列のもとに流鏑馬(やぶさめ)などが催された。放生会前の8月1日から15日まで東国全体に〈殺生禁断〉が幕府から厳命され,祭礼等を通じて幕府内の政治的身分的序列関係を固定化する役割を果たし,幕府による御家人(ごけにん)統制の一手段となった。社領は関東中心に点在し,神人(じにん)も存在した。その後室町幕府,鎌倉府,後北条氏,江戸幕府も社領の寄進,社殿の修造等につとめた。上宮(本宮)は1828年(文政11)将軍徳川家斉の造営,下宮(若宮)は1624年(寛永1)家光の修造による。明治の神仏分離の際諸仏堂は取り除かれた。什宝のうち,正恒の銘をもつ太刀,古神宝類,籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)はともに鎌倉期の作で国宝に指定されている。なお,末社には武内・丸山稲荷・祖霊の各社,境外末社に今宮・由比若宮がある。
→石清水八幡宮
執筆者:伊藤 清郎
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神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。祭神は応神(おうじん)天皇、比売(ひめ)神、神功(じんぐう)皇后の3座を祀(まつ)る。1063年(康平6)源頼義(よりよし)は鎌倉由比(ゆい)郷に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請(かんじょう)(現在の末社由比若宮)し、1180年(治承4)源頼朝(よりとも)は東国に挙兵し鎌倉に入ると、社を小林郷北山の現社地に遷(うつ)し、都市鎌倉の中心に据えた。以後八幡宮は、源氏の氏神、幕府の守護社として鎌倉御家人(ごけにん)らの精神的支柱とされ、幕府の公的行事の場となった。鎌倉幕府の発展に伴って機構が整備され、別当、25坊の供僧(ぐそう)などが置かれた。「鶴岡八幡宮寺」とも称されているように、神仏習合の典型である宮寺形式の神社であり、神主に大伴(おおとも)氏が補せられていたものの、社内の権限は僧侶(そうりょ)が握っていた。
1191年(建久2)社殿を焼失したため、裏山の中腹を切り開いて本社(上宮)を造営、山下の若宮(下宮)、摂末社も整い、面目を一新した。若宮回廊における静御前(しずかごぜん)の舞、社頭にて別当公暁(くぎょう)に3代将軍源実朝(さねとも)が殺された事件は有名。歴代将軍家の崇敬厚く、鎌倉幕府滅亡後も、室町幕府の鎌倉府の足利公方(あしかがくぼう)、戦国期の後北条(ごほうじょう)氏と、その信仰に怠りなく、北条氏綱(うじつな)、豊臣(とよとみ)秀吉らによって社殿の造営や修理が行われるなど、武士の尊崇を集めた。近年、そのときの遺構が発掘されている。明治の神仏分離によって打撃を受け、一時疲弊したが、第二次世界大戦後とくに昭和40年代の初詣(はつもう)で人口の増大にのって、8年間初詣で日本一を記録した。社宝には籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)、正恒(まさつね)銘の太刀(たち)(いずれも国宝)などがある。県文化財の桃山期神輿(みこし)3基の渡御する例大祭は9月15日、流鏑馬(やぶさめ)神事は9月16日。
[岡田荘司]
鎌倉八幡宮とも。明治期の神仏分離まで鶴岡八幡宮新宮(いまみや)若宮・鶴岡八幡宮寺とも。神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。祭神は応神天皇・比売(ひめ)神・神功皇后。1063年(康平6)源頼義が石清水八幡宮を由比(ゆい)郷に勧請し,1180年(治承4)源頼朝が現在地に遷座。以後源氏の氏神として,また都市鎌倉の中心として武士・庶民の崇敬を集めた。ここで将軍年初の参詣・流鏑馬(やぶさめ)・放生会(ほうじょうえ)など鎌倉幕府の儀式や行事が行われた。室町時代以降も鎌倉公方・後北条氏・徳川将軍家の保護をうけ,社領の寄進・安堵,社殿の修造がなされた。例祭は9月15日。籬菊螺鈿(まがききくらでん)蒔絵硯箱・太刀(銘正恒・糸巻太刀拵)・襲袖5領など古神宝類は国宝。境内は国史跡。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…しかし三方を山で囲まれ,相模湾に面した自然環境や,鎌倉七口といわれる鎌倉に入る切通し,道路網などに昔をしのぶことができる。鎌倉の市街地の中心をなすのは鶴岡八幡宮で,八幡宮前から由比ヶ浜海岸に向かって一直線に若宮大路が通じる。八幡宮境内には1928年開館の市立国宝館と51年日本最初の近代美術館として開館した県立近代美術館などがある。…
…鎌倉の鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に通ずる若宮大路の中央の一段高い道路部分をいう。現在は赤橋(三ノ鳥居前)から小町口(二ノ鳥居)までの間に残っているが,元は米町口(下馬四つ角)あるいは浜の大鳥居(一ノ鳥居)まで続いていたともいう。…
…この戦いを通じて東国における源氏の地位が確立された。同年8月相模由井郷に石清水(いわしみず)八幡宮を勧請(かんじよう)(鶴岡八幡宮の起源)。【飯田 悠紀子】。…
※「鶴岡八幡宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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