日本大百科全書(ニッポニカ) 「男山行幸」の意味・わかりやすい解説
男山行幸
おとこやまぎょうこう
幕末、孝明(こうめい)天皇の攘夷(じょうい)祈願のための行幸。石清水社(いわしみずしゃ)行幸ともよぶ。1863年(文久3)三条実美(さねとみ)らの急進派公卿(くぎょう)と尊王攘夷派の激派志士は、幕府に攘夷の実行を迫るため、天皇の親征、行幸を画策した。3月11日に賀茂(かも)両社への行幸が実現し、4月上旬に伊勢(いせ)神宮に次ぐ社格の京都男山の石清水八幡宮(はちまんぐう)への行幸、天皇から将軍へ攘夷の節刀授与が予定された。おりから急進派公卿中山忠光(ただみつ)ら暴発の風評が流れ、幕府は中止を主張したが、4月11日に延期して実現された。将軍徳川家茂(いえもち)は病気を理由に供奉(ぐぶ)を辞退し、名代一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)以下諸藩兵が参列した。祈願中の夜半、慶喜は急病を理由に節刀授与を辞退し退去した。
[井上勝生]