真木嶋昭光(読み)まきしま・あきみつ

朝日日本歴史人物事典 「真木嶋昭光」の解説

真木嶋昭光

生年:生没年不詳
戦国時代の武将。将軍足利義昭奉公衆。真木嶋氏は山城国槙島(宇治市)に本拠を持った武士で,その祖先は槙長者あるいは槙島惣官と呼ばれた一族である。室町時代には代々将軍奉公衆を勤めた。昭光も元亀2(1571)年7月までに義昭の奉公衆となっている(『言継卿記』)。天正1(1573)年7月,義昭は槙島城挙兵して織田信長に敗れたが,常に義昭と行動を共にし,その後の毛利氏への寄寓にも同行した。信長の死後,帰洛した義昭は昭光の邸に入っている。慶長2(1597)年8月大坂で死去した義昭の遺体京都等持院に移し,葬儀を挙行したのも昭光であった。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真木嶋昭光」の解説

真木嶋昭光 まきしま-あきみつ

?-? 戦国-織豊時代の武将。
15代将軍足利義昭の奉公衆。義昭出家後も終始近侍し,慶長2年(1597)大坂で死去した義昭の遺体を京都等持院にうつして葬儀をおこなった。通称玄蕃頭

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世界大百科事典(旧版)内の真木嶋昭光の言及

【真木嶋氏】より

…室町時代の武将。槙島氏とも記す。山城国の土豪で,近衛家領五箇庄(現,京都府宇治市)の有力名主で,宇治離宮社の神官をも務め,槙島長者とも呼ばれた。室町中期には,山城守護畠山氏の被官であったが,応仁の乱前後に宇治大路氏とともに室町幕府の奉公衆に抜擢され,将軍の親衛隊を構成した。本拠の槙島城は巨椋池(おぐらいけ)に浮ぶ小島にあったが,奈良街道を押さえる要衝であり,幕府の南山城支配の中心となった。乱中は東軍として行動した。…

※「真木嶋昭光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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