奉公衆 (ほうこうしゅう)
室町幕府において将軍に近侍し,近習・申次などの諸役を務めた御目見(おめみえ)以上の御家人。年始,五節句と毎月1日,15日に将軍との対面が行われたので〈節朔(せつさく)衆〉ともいわれた(《貞丈雑記》)。15世紀の将軍足利義政~義稙の時期の番帳でみると,総数は350余人,5番に編成され,五番衆,番方ともいわれたが,各番の長である番頭は〈御伴衆〉として幕政に参与した。その成立期にはなお不明のところがあるが,遅くも将軍義教期には成立しており,応仁の乱後も15世紀末の将軍義稙の河内出陣まではほぼ健全に機能していた。
奉公衆は,鎌倉幕府の御所内番を継承した〈当参(とうざん)奉公人〉の制度的発展として位置づけることができる。当参奉公人は〈当参輩〉〈当参奉公之仁〉などとも呼ばれ,室町幕府成立以来,守護の手に属してしだいに被官化の傾向を強めつつあった〈諸国地頭御家人〉と対比される幕府直勤の御家人であり,彼らの名簿は小侍所(こさむらいどころ)に常備されていた。彼らは日常的には近習をはじめとする将軍御所内の諸役を務め,将軍の外出には帯刀(たちはき)や衛府侍として身辺警固に当たり,合戦に際しては〈御馬廻衆〉として将軍親衛軍の役割を果たし,守護の反乱などでは領国内の幕府軍の拠点ともなった。したがって将軍は日常的にその給養に努め,御料所や洛中の屋敷地を貸与し,彼らの所領には守護使の介入をとどめ,段銭や地頭御家人役は幕府に直納させている。こうして当参奉公人は,奉行人とならぶ将軍権力の政治的・経済的・軍事的な基盤となり,ややもすると自立化しようとする守護大名を牽制して将軍につなぎとめる役割を果たしていた。奉公衆はこの当参奉公人の権利や機能をうけつぎ,さらに有機的に編成されたもので,《年中恒例記》によると,営中の勤務は番ごとに6日連続の当番制を原則としていた。15世紀の番帳によると,彼らの出自は守護大名の一族庶流,足利氏の根本被官,有力国人領主など多様であるが,その番所属はほとんど譜代的に固定されており,〈相番衆〉といわれる同一番の所属者は,相互に強い連帯意識をもって行動している。
奉公衆の体制は応仁の乱後も基本的な変動なしに再建されるが,彼らは将軍の権威確立をはかってしばしば守護大名や奉行人勢力と対立し,幕政混乱の原因になることもあった。1485年(文明17)におこる数十人の奉行人の遁世退去,義政落飾事件は,東山殿義政を囲む奉行人と若い将軍義尚に仕える奉公衆との対立に始まるし,将軍義稙が六角氏追討のため近江出陣中には,3番奉公衆が守護京極政経に対抗する一揆を起こしている。なお上洛して将軍に近侍した奉公衆は,京都の文化に接触して東山文化の重要な担い手となり,中央と地方とを結ぶ文化交流の一つの結節点ともなった。
執筆者:福田 豊彦
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奉公衆【ほうこうしゅう】
室町幕府において将軍に近侍して諸役を務めた御目見(おめみえ)以上の御家人。将軍足利義満から義教のころに制度化されたと考えられる。足利一門および守護大名の庶流,足利氏の根本被官,有力国人層らによって構成。300人余が5番に編成され,番方(ばんかた)・番衆ともいった。数千騎の常備軍を擁し,将軍権力の政治的・軍事的基盤となり,自立化しようとする守護大名を牽制する役割を果たした。
→関連項目甲賀者|御料所|土岐氏|放生津
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奉公衆
ほうこうしゅう
室町幕府において将軍に近侍した御目見(おめみえ)以上の直勤御家人。番方(ばんかた)、番衆(ばんしゅう)、五番衆(ごばんしゅう)ともいう。また御相伴衆(ごしょうばんしゅう)・御伴衆(おともしゅう)なども含め、奉行衆(ぶぎょうしゅう)に対する呼称として広く使われた場合もある。室町幕府には当初から、鎌倉幕府の御所内番を受け継ぎ、直勤の御家人を編成する「当参奉公」の制度があったが、自立性を増す守護大名に対して将軍権力の強化を図った足利義満(あしかがよしみつ)から義教(よりのり)の時期に奉公衆の制度が確立した。彼らの出自は守護大名の庶流、足利氏の根本被官、国人(こくじん)領主など多様であった。奉公衆は五番に編成され、日常的には番頭の下で御所内の諸役や将軍御出の供奉(ぐぶ)などを務め、戦時には将軍の親衛隊として出陣した。将軍は奉公衆に対し、御料所の給与や所領への守護使不入の承認など、その給養に意を用いた。奉公衆の制度は、応仁・文明の乱後に将軍義稙(よしたね)が河内(かわち)へ赴く頃までは機能していたが、明応の政変によって事実上崩壊、詰衆(つめしゅう)などとして形骸化する。
[福田豊彦]
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奉公衆
ほうこうしゅう
室町幕府において,御目見 (おめみえ) 以上の直勤御家人。彼らはおもに,足利氏一門および守護大名の庶流・被官,足利氏の根本被官・家僚的奉行人層,有力国人領主の3者から成り,その所領は東海・東山道西部に集中する。奉公衆体制は6代将軍足利義教時代 (15世紀) に確立し,地方においては有力守護大名を牽制して中央への依存性を強化させる機能を果した。奉公衆の番所属は家ごとに譜代化し,彼らには幕府の料所 (直轄地) が預けおかれ,また彼らの所領には守護使不入や御家人役免除などの特権が与えられた。
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奉公衆
ほうこうしゅう
番衆・番方・五箇番とも。室町幕府の御目見以上の直勤御家人。直轄軍。5番編成で,番頭の指揮下で御所警固や将軍の供奉,戦時の将軍の旗本や馬廻を勤めた。足利一門や守護大名家の庶流,足利家根本被官,有力国人領主など300人ほどで構成され,御料所などが預けおかれた。鎌倉幕府の御所内番衆の制を継承し,足利義満から義教にかけての時期に整備された。将軍家の直轄軍として守護大名を牽制し,東山文化の担い手でもあったが,明応の政変で事実上解体。古河公方も奉公衆を擁していた。
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世界大百科事典(旧版)内の奉公衆の言及
【鎌倉府】より
…関東府ともいう。その政治組織は,〈天子ノ御代官〉たる[鎌倉公方]足利氏のもとに[関東管領],守護,奉公衆,奉行衆から成り立っていた。鎌倉公方は,任国内の武士に対する軍事統率権や土地安堵権など,そして諸寺社の住持職の補任権や吹挙権などを保持したが,関東管領と任国内の守護任免権は室町将軍の保持するところであった。…
【小侍所】より
…小侍の配下には,恪勤(かくご),走衆や朝夕雑色(ちようじやくぞうしき),公人(くにん)雑色などが属して雑役などを務めたと考えられる。義教・義政期に整えられる[奉公衆](番方)には小侍番の継承発展という性格が認められる。【福田 豊彦】。…
【番頭】より
…[番衆],番方(ばんかた)([番方・役方])の各[番]の筆頭者を指し,〈ばんとう〉ともいわれる。中世・近世には警固などの役は主として分番交代して行われたので各種の番頭があるが,中世には,鎌倉幕府の雑色(ぞうしき)番頭,これを継承する室町幕府の公人(くにん)番頭,制度として後世に大きな影響を及ぼす室町幕府の[奉公衆]の番頭などが特に著名である。番頭と番衆との関係はしばしば親子に擬せられ,番頭は相番の者を自宅に招いて饗応し,日常生活や婚姻,子弟のことまで世話をやくなどして,番内の親密なとりまとめに努めることが多かった。…
【番衆】より
…将軍もその給養に意を用い,御料所などを預け,その所領には御家人役・段銭の京済(きようせい),守護使不入などの特権を与えたので,一般の地頭御家人が多く守護の被官化する中で,彼らは御目見(おめみえ)以上の直勤御家人として特別の地位を得ることになった。その中核はやがて5番に編成された[奉公衆]になるが,彼らは番ごとに[番頭]のもとで6日連続の小番に従事し,申次・近習詰番などの御所内諸番役を務めるとともに,将軍の御出には帯刀(たちはき)などとして警固に当たったが,鎌倉時代に比べると番ごとの連帯性が強まり,将軍親衛軍としての色彩が強くなっている。足利義政のころには守護大名は御相伴衆,国持,外様などに分類されて家柄的に序列付けられ,御所内勤務者も御伴衆,御部屋衆,番頭,申次衆,近習,小番,走衆,御末衆などのように勤務内容によって格付けされ,しだいに身分的な格差を伴って分化していく傾向が認められる。…
【番帳】より
…列挙すると,(1)永享以来御番帳,(2)文安年中御番帳,(3)常徳院御動座当時在陣衆着到(以上《群書類従》所収),(4)室町殿文明中番帳,(5)同永享文正中番帳,(6)同在陣衆名簿(以上,水戸彰考館蔵),(7)東山殿時代大名外様附(京都大学蔵),(8)室町殿番帳(内閣文庫蔵〈蜷川文庫〉所収)となる。いずれも種々の史料を集めたもので,御相伴(おしようばん)衆,御供衆,[奉公衆]などの名簿を含むが,それぞれに時代考証が必要である。このうち大部を占める奉公衆の番帳としては,(2)(8)は1444‐48年の間のもの,(1)(4)は1450‐54年,(3)(6)は1487‐89年,(7)は1491‐92年の間のものと推定されており,相互に対照させることによって誤脱を正し,応仁の乱を挟んだこの時代の幕府体制の変化をみることができる。…
【美濃国】より
…この土岐氏の実力は,鎌倉時代以来国内に分布した一族を中心とする強力な軍事力と,半済(はんぜい)などによって国内の膨大な国衙領を手中にした経済力にもとづくものであった。その後将軍足利義満は,[土岐氏]の乱を誘発するとともに,国内に分布した土岐氏一族および有力国人を[奉公衆](直轄軍)に吸収し,土岐氏の強大化をけんせいした。石谷(いしがい),多治見,揖斐,明智氏などの土岐氏一族をはじめ,東濃の遠山氏,郡上の東(とう)氏,西濃の宇都宮氏,山県郡の山県氏,武儀郡の佐竹氏などが奉公衆に編成されたのである。…
※「奉公衆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」