京都(読み)キョウト

デジタル大辞泉 「京都」の意味・読み・例文・類語

きょうと〔キヤウト〕【京都】

近畿地方中部から北部に位置する府。もとの山城国丹後国の全域と丹波国の大部分にあたる。人口263.7万(2010)。
京都府南部の市。府庁所在地。指定都市。国際文化観光都市に指定され、古都保存法の適用を受けている。延暦13年(794)に桓武かんむ天皇遷都せんとして平安京と称した。以来、明治維新まで千年以上にわたって日本の首都。京都御所二条城清水きよみずなど、史跡・社寺が多く、西陣織友禅染清水焼などの伝統的工芸品を産する。歴史的な年中行事も多い。人口147.4万(2010)。京。
[補説]京都市の区は、右京区上京区北区左京区下京区中京区西京区東山区伏見区南区山科区の11区。
京都市の賀茂別雷神社賀茂御祖神社教王護国寺清水寺醍醐寺仁和寺高山寺西芳寺天竜寺鹿苑寺慈照寺竜安寺本願寺二条城、宇治市の平等院宇治上神社と、滋賀県大津市の延暦寺は、平成6年(1994)「古都京都の文化財」の名で世界遺産(文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「京都」の意味・読み・例文・類語

きょうとキャウト【京都】

  1. [ 一 ] 京都府南東部の地名。府庁所在地。政令指定都市。延暦一三年(七九四)長岡から遷都して以来、明治維新に至るまでの日本の首都。市街は平安京の碁盤目状の区画を残し、京都御所を始め、史跡、文化財が豊富で、国際文化観光都市に指定され、古都保存法の適用を受けている。西陣織、京友禅などの伝統的工業、酒、京菓子などの食品工業、京人形などの工芸がさかん。また、歴史的な年中行事も多く、嵐山などの景勝地がある。東海道新幹線東海道本線、山陰本線、名神高速道路などが通じる。明治二二年(一八八九)市制。
  2. [ 二 ]きょうとふ(京都府)」の略。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「京都」の意味・わかりやすい解説

京都(市)
きょうと

京都府南部の京都盆地北半に位置する都市。8世紀末から明治維新まで首都。京都府庁の所在地で、政令指定都市。11区から成る。1889年(明治22)上京(かみぎょう)区、下京(しもぎょう)区(区域は現在と異なる)の2区をもって市制施行。1918年(大正7)愛宕(おたぎ)郡の鞍馬口(くらまぐち)、下鴨(しもがも)村など5村、葛野(かどの)郡の衣笠(きぬがさ)村など4村、紀伊郡の柳原(やなぎはら)町、東九条村を編入。1929年(昭和4)左京(さきょう)、中京(なかぎょう)、東山(ひがしやま)の3区を新設。1931年伏見(ふしみ)市と紀伊郡深草(ふかくさ)町、葛野郡嵯峨(さが)町、宇治郡山科(やましな)町、愛宕郡上賀茂(かみがも)村など近郊の1市3町23村を合併し、伏見区と右京(うきょう)区を新設。1948年(昭和23)葛野郡中川、小野郷(おのごう)の2村、1949年愛宕郡雲ヶ畑(くもがはた)、岩倉、八瀬(やせ)、大原、静市野(しずいちの)、鞍馬、花背(はなせ)、久多(くた)の8村、1950年乙訓(おとくに)郡久我(くが)、羽束師(はつかし)、大枝(おおえ)の3村を編入。1955年上京区から北区、下京区から南区を分設。1957年久世(くせ)郡淀(よど)町、1959年乙訓郡久世(くぜ)、大原野の2村を編入。1976年には人口の増大に伴い東山区から山科区、右京区から西京(にしきょう)区が分離された。2003年(平成15)には11区からなり、市の面積は610.22平方キロメートルで市制施行時より20.5倍に拡張され、人口は146万7785で5.2倍に増加した。しかし、1990~1995年の5年間の人口増加率は、京都府全体の1.0%に比べて0.2%増加したにとどまる。人口密度は1平方キロメートル当り2405人で、上京、中京、下京の3区に集中し、この地域の人口密度は約1万1752人で、大部分が山地で占められる左京区の人口密度は694人にすぎない。2005年京北町(けいほくちょう)を編入、右京区に編成。同年の人口147万4811、面積827.90平方キロメートル。2020年には人口146万3723、面積827.83平方キロメートル。

[織田武雄]

自然

地形

市域は京都盆地と周辺の山地に広くまたがっている。京都盆地は第三紀末の瀬戸内陥没地帯の一部で、南北に長い地溝盆地である。周囲の山地とはおもに断層によって境されている。盆地の北東部には、安曇(あど)川、高野(たかの)川の河谷を通ずる花折(はなおれ)断層線に沿って四明(しめい)岳(839メートル)を主峰とする比叡山地(ひえいさんち)がそびえる。その南にはお盆の送り火「大文字(だいもんじ)」で知られる如意(にょい)ヶ岳があり、さらに東山の丘陵地帯へと続いている。盆地の南東部には大津市との境をなす醍醐山地(だいごさんち)が連なる。市域北部は丹波(たんば)高地の一部をなす北山山地(きたやまさんち)が占める。標高は500~700メートルほどであるが、西には愛宕(あたご)山(924メートル)、北東には皆子(みなご)山(971メートル)がそびえる。2016年(平成28)、右京区と左京区の一部は京都丹波高原国定公園に指定された。市域西部には亀岡(かめおか)市との境をなす西山山地がある。

 京都盆地は洪積世(更新世)のころまでは大部分が水をたたえた湖盆であり、盆地周辺の山麓(さんろく)地帯には洪積層が堆積(たいせき)し、西山山地の山麓には乙訓、長岡の洪積丘陵が台地状をなして横たわっている。しかし、盆地床の部分は、盆地を流れる諸河川の堆積によって生じた沖積地であり、盆地床の北部には北白川、鷹峯(たかがみね)の扇状地が発達している。したがって京都市街地は北から南へときわめて緩やかに傾斜し、北部の上賀茂付近は標高約100メートル、南部の宇治川右岸の淀付近で標高約10メートルとなる。

 市域を貫流する河川には、丹波高地の水を集めた大堰川(おおいがわ)が亀岡盆地から保津(ほづ)峡の峡谷をつくって京都盆地に流出して桂川(かつらがわ)となり、さらに市域の西を南流する。北山山地に発する高野川、賀茂川は出町(でまち)付近で合流して鴨川(かもがわ)となり、市街を南に流れて下鳥羽(しもとば)付近で桂川と合流する。桂川は淀付近で、琵琶(びわ)湖に発して市域の南辺を流れる宇治川に注ぎ、淀(よど)川となって大阪湾へ向かって流れる。

[織田武雄]

気候

盆地に位置し、海に接しない京都市の気候は内陸性を示し、8月の平均最高気温は33.3℃で、東京よりも2℃以上も高く、昼のうだるような暑さは夜になっても蒸し暑さが残ることがある。1月の平均最低気温は1.2℃で、夜には盆地周辺からの冷たい空気が流れ込み、湿度も比較的高いため、「京の底冷(そこび)え」とよばれる締め付けるような冷たさを感じることも多い。年降水量は1491.3ミリメートルで(以上、1981~2010年の平均値)、6月から9月にかけての4か月間で年間の半分以上が降る夏雨型で、太平洋型気候に含まれる。

[織田武雄]

歴史

先史・古代

京都市の先史遺跡は、北白川や上賀茂などの小扇状地に発見され、また伏見区の深草には弥生(やよい)時代の遺跡から農具などが出土している。しかし盆地床の中央は土地が低湿で居住に適さなかったが、渡来系氏族の秦氏(はたうじ)が台頭する7世紀ごろから開発が始まり、ことに市街地西部の太秦(うずまさ)と南部の深草を根拠地として、秦氏は盆地の開拓や灌漑(かんがい)を行い、また養蚕や絹織の技術も大陸から伝えたといわれる。太秦の蛇塚(へびづか)とよばれる巨大な石室の露出した古墳も秦氏の首長の墳墓といわれ、603年(推古天皇11)には秦河勝(はたのかわかつ)が太秦に蜂岡寺(はちおかでら)とよばれた広隆寺(こうりゅうじ)を建立した。なお秦氏のような渡来系氏族のほかに、賀茂川、高野川の流域では賀茂氏、出雲(いずも)氏などが居住し開発にあたった。

 奈良時代後半の8世紀なかばごろには律令(りつりょう)体制に動揺をきたして内乱や政変などが生じたので、桓武(かんむ)天皇は律令体制の再編成のために平城京(奈良市)からの遷都を決意した。現在の向日(むこう)市鶏冠井(かいで)付近を中心とする地域を新都に選定して、784年(延暦3)藤原種継(たねつぐ)に命じて長岡京の造営にあたらせたが、種継の暗殺や桂川の水害などがあり、長岡京の造営は10年足らずで中止された。藤原小黒麻呂(おぐろまろ)が造営大夫(だいぶ)に任ぜられ、794年長岡京から平安京への遷都が行われた。長岡京、平安京への遷都は、種継や小黒麻呂が秦氏と姻戚(いんせき)関係にあったことからみて、京都盆地の開発にあたった秦氏の勢力が大きく影響したものと考えられる。

 平安京は平城京などと同じく、唐の長安を模し、南北1753丈(約5.3キロメートル)、東西1508丈(約4.5キロメートル)に及ぶ壮大な方形の計画都市である。長安のような巨大な城壁は欠いたが、北部中央には大内裏(だいだいり)が配され、朱雀大路(すざくおおじ)を中心に左右両京に分かれ、朱雀大路の南端には平安京の正門として羅城門(らじょうもん)が設けられた。両京はそれぞれ9条4坊に分かれ、条坊は3本の道路で4坊16町に整然と区画された。現在の市の碁盤目(ごばんめ)状の町割にその名残(なごり)をとどめている。しかし平安京は当時の人口に比べて規模が大きすぎ、単に都市計画の区画にとどまった所も多かったとみえ、遷都後50年もたたないうちに、低湿地であった右京の部分は衰退し始めた。慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』(982)にも、「西之京(右京)は人家漸(ようや)く稀(まれ)にして殆(ほとん)ど幽墟(ゆうきょ)に畿(ちか)し、……東京(左京)は四条より以北、乾(いぬい)と艮(うしとら)との二方は人々貴賤(きせん)となく群聚(ぐんしゅう)する所也(なり)。高家門を比べ堂を連ね、小屋壁を隔て簷(のき)(軒)を接す」と記された。右京の衰微に比し、左京は鴨川を越えて土地の高燥な東山の山麓地帯にまで及び、平安時代後期には鴨東(おうとう)の白川に白河殿や法勝寺(ほっしょうじ)などが創建された。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱(1156、1159)によって白河殿を中心とする地域は戦禍で焼失したが、平氏の全盛時代には、南白川の五条から七条にかけての、鴨東の六波羅(ろくはら)が政治の中心となり、鎌倉時代にも幕府の出先機関として六波羅探題が置かれた。

[織田武雄]

中世

室町時代には足利義満(あしかがよしみつ)の「花の御所」とよばれた室町幕府が現在の今出川通から北の烏丸(からすま)通と室町通の間に開かれた。政権の交代に伴って政治の中心地区も変遷したが、10年間にわたる応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)によって、公家(くげ)・武家の邸宅も含めて3万余戸が戦火を受け、京都の大部分は焦土と化した。しかしこの乱を境に、焼失を免れた三条から松原にかけてのいわゆる下京古町を中心にして、自治組織として町組制ができ、町衆(まちしゅう)が団結して京都の復興にあたり、祇園祭(ぎおんまつり)も町衆の祭りとして盛んとなった。

[織田武雄]

近世

織豊(しょくほう)政権の成立によってようやく天下は統一され、ことに織田信長の上洛(じょうらく)の後を受けた豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、前田玄以(げんい)を奉行(ぶぎょう)に任命して積極的に京都の復興に着手し、まず1590年(天正18)に平安京制以来の方1町区画を半町ごとの南北の道路で切り、南北に長い短冊型の新しい町割をつくり、また市中に散在する寺院を東の寺町と西の寺之内に集めた。翌年には市街地整備のために御土居(おどい)とよばれる土塁を四周に巡らした。その延長は23キロメートルに及び、今日でも一部が残っている。さらに秀吉は聚楽第(じゅらくだい)を造営し、伏見に伏見城と城下町を建設し、また築城にあたって宇治川の水路をかえて、伏見を起点とする淀川の水運を開いた。

 江戸時代になると政治の中心は江戸に移ったが、徳川家康は上洛の用意に二条城を造営して所司代(しょしだい)を置き、禁裏(きんり)の守護と京都の市政にあたらせた。1623年(元和9)には伏見城は廃城となったが、幕府は角倉了以(すみのくらりょうい)に命じて高瀬川を開削し、これによって伏見は京都の外港となり、淀川水運で大坂と結ばれた。伏見の南西部の地には1622年新淀城が築かれ、松平(久松)氏が入封し淀藩が成立した。秀吉のときに建立された西本願寺に次いで、江戸時代には東本願寺や、徳川氏の帰依(きえ)する浄土宗の知恩院などの巨刹(きょさつ)も相次いで建設された。また民衆の生活が豊かになるにつれ、西陣織をはじめ、陶器、漆器、染物など、伝統を生かした京都の手工業はますます発達し、商業も栄えた。したがって京都は政治的都市としての意義は失ったが、江戸、大坂と並んで三都といわれ、人口40万以上を有する大都市であった。幕末には蛤(はまぐり)御門の変などの兵火を受けて市内の中心は焼失し、さらに明治維新を迎えた1868年(慶応4)には、東京遷都の布告が発せられ、京都は名実ともに千年の帝都としての地位を失った。

 遷都の打撃を切り抜けるために、全国に先駆けて産業の近代化が図られ、1871年には勧業場(かんぎょうば)を設け、西欧の科学技術の応用と産業化を指導する舎密局(せいみきょく)なども開設された。また教育、文化の面では、町組を学区制に改編して1869年にはわが国最初の小学校、さらに翌年には中学校、女学校が開かれた。琵琶湖の水を京都に引く琵琶湖疏水(そすい)が企画され、1890年には開通をみ、翌年には疏水の水を発電に利用する日本最初の蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が完成し、1895年にはこの電力を利用して、日本で初めて市街電車が開通した。

 しかし、盆地に位置するため、近代工業の発展にとって不可欠な港湾を欠き、また後背地も乏しいため、伝統工業以外の工業の発展は立ち後れた。したがってこれまでの京都市の発展は、歴史的風土を基盤とする文化観光都市として方向づけられ、近代産業都市としての位置づけは低かったが、近年、産業道路の整備によって洛南(らくなん)工業地域が形成された。

[織田武雄]

産業

農林業

江戸時代から三都の一つとして栄えた京都は、早くから近郊農村では野菜栽培が盛んで、聖護院(しょうごいん)カブラ、九条ネギ、賀茂ナス、壬生(みぶ)菜などの名産があり、今日ではこれらの野菜の産地は、市街化によって市外にも拡大されている。2015年(平成27)の京都市の総農家数は3687戸、うち専業農家は744戸で約20%である。また耕地面積は2333ヘクタールである。ビニルハウスなどによる集約的な典型的近郊農業が営まれている。2005年に京北町が右京区に編成され、2010年の林野面積は6万0970ヘクタールに達した。右京区、左京区と北区に多く、スギの植林が盛んである。ことに北区の中川、小野郷(おのごう)、右京区京北地区は「北山丸太」とよばれる高級建築材のスギの磨き丸太の産地として知られる。

[織田武雄]

工業

2013年(平成25)の京都市の製造業事業所数は2364、従業者数は6万1370人、製造品出荷額等は2兆0140億円である。業種別にみると、製造品出荷額等では、飲料・たばこ・飼料が5137億円でもっとも多く、電子部品・デバイス・電子回路製造業、業務用機械器具が続く。事業所数では、繊維工業が572ともっとも多く、食料品製造業、印刷・同関連業が続く。繊維工業は京都市を代表する伝統的工業で、西陣織や友禅染とそれに関連する染色、精練工業なども発達している。また、織物、陶業、漆器、扇子(せんす)などの家内工業も伝統的に行われている。食料品製造業も盛んで、伏見を中心とする清酒醸造をはじめ、缶詰、京菓子などを含む。日本最初の水力発電所が置かれた京都市では、電気機械製造の歴史も古く、また蓄電池などの生産もみられる。そのほかの重化学工業では、機械製造業や製薬を含む化学工業などの出荷額が比較的多いが、近年は洛南工業地域を中心に諸工業が盛んとなりつつある。

 工業の地域的分布では、市街地北西の西陣地区は西陣織の産地であり、江戸時代からすでに同業者町が形成されていた。1973年(昭和48)、西陣織工業組合が発足。2014年の時点で組合員数は391で、近年郊外に移転し工場化するものもみられる。また着尺(きじゃく)、帯地(おびじ)のほか、服地、ネクタイ、室内装飾用などもあり、出荷額は約373億円に達する。西陣織とともに京染の名で知られ、江戸中期に宮崎友禅斎の創意に始まる友禅染は、堀川(上京区)付近で手描きの高級品がつくられるが、量産を要する広幅捺染(ひろはばなっせん)の友禅工場は、多量の水を利用できる、東は高野川、西は桂川の河川沿いに集まっている。中京区や下京区では扇子、人形、仏具、漆器などが家内工業によって営まれるほか、印刷・食料品製造などもみられる。東山西麓の五条坂から泉涌寺(せんにゅうじ)地区にかけては良質の陶土を産し、古くから清水焼(きよみずやき)で知られた陶磁器業が立地し、1960年代には東山東麓にも陶業団地がつくられた。なお水陸の交通の便に恵まれ、良質の硬水を湧出(ゆうしゅつ)する伏見では、江戸時代から兵庫の灘(なだ)とともに酒造地として著名で、現在も清酒の生産が多い。これに対して市街地南西部は、一般に土地が低湿で地価も低廉であったので、昭和初年から電気機器、輸送機械、伸銅(しんどう)、化学などの諸工業が進出し、近年は国道の拡張などで輸送条件も改善された。各種の近代工場も誘致されるようになり、阪神工業地帯の一環として、桂川沿岸を含めて洛南工業地域の発展がみられる。

[織田武雄]

商業

歴史的に近代工業の発達が後れ、生産性の乏しい消費都市であった京都市は、商業活動もあまり盛んでなく、商店数は約1万9804(2014)であるが、卸売業はその27%にすぎない。しかし卸売業の主体をなすのは、西陣織や友禅染など高級品を扱う繊維問屋であるため、販売額は圧倒的に多く、京都市は東京、大阪、名古屋とともに、全国織物の四大集散地の一つである。繊維問屋は五条から丸太町の間の室町通に集まっている。小売商店街の中心は四条河原町、新京極付近で、京都市の娯楽街であり、買物街をなしている。そのほか銀行などの金融機関は四条烏丸(からすま)付近に多く、また東西両本願寺付近には仏具、夷川(えびすがわ)通には家具、二条通には薬種、錦小路(にしきこうじ)には生鮮食料品関係の商店が集まって、江戸時代から同業者町を形成している。

[織田武雄]

交通

東海道、西国(さいごく)街道、大和(やまと)街道、山陰街道などはいずれも京都を中心に通じていた。現在、京都市の交通の中心は1877年(明治10)に開設された京都駅(七条停車場)であり、京都市の表玄関としてJR東海道本線・新幹線が通過し、山陰本線、奈良線の起点となり、山科駅で湖西線が分岐している。私鉄もよく発達し、大阪との間には京都河原町駅を起点とする阪急電鉄京都線と、京阪三条駅を起点とする京阪電鉄本線があり、前者は桂(かつら)で嵐山(あらしやま)線、後者は伏見(ふしみ)の中書島(ちゅうしょじま)で宇治線が分岐し、京阪三条では鴨東線、大津に向かう京津線(けいしんせん)が接続している。また京都駅を起点に近畿日本鉄道京都線が奈良、橿原(かしはら)市方面に通じている。このほか京都市周辺の近郊を結ぶ京福電鉄(けいふくでんてつ)の嵐山本線、北野線、叡山(えいざん)電鉄の本線、鞍馬(くらま)線がある。これらの沿線は名勝旧跡に富み、観光交通の一翼を担うとともに、近年は京都市街や大阪への通勤者の主要な交通機関になっている。また、保津川沿いに嵯峨野(さがの)観光鉄道(トロッコ列車)が走る。1978年(昭和53)には市電が全廃されたが、かわって1981年には京都駅と北大路間に市営地下鉄烏丸線(からすません)が開通(のちに、北は国際会館まで、南は竹田まで延長)、1997年(平成9)には二条と醍醐(だいご)間に東西線が開通(のちに西は太秦天神川、東は六地蔵まで延長)、烏丸線は近畿日本鉄道京都線と、東西線は京阪電鉄京津線と相互乗入れをしている。市内間、市内と近郊を結ぶ市営バスや私営バス交通も多いが、交通渋滞を緩和するために道路の整備拡充も進められている。阪神地方や東海地方を結ぶ国道1号、171号、名神高速道路、京都高速道路などは産業道路としても重要である。京都市から丹波(たんば)方面には国道9号、京都縦貫自動車道、若狭(わかさ)方面へは162号など、奈良、和歌山方面へは24号が通じている。観光道路には東山ドライブウェイや、北白川から比叡(ひえい)山頂に達する比叡山ドライブウェイのほかに、比叡山頂から琵琶湖大橋へ抜ける奥比叡ドライブウェイ、嵐山から高雄に通ずる嵐山・高雄パークウェイなどがある。

[織田武雄]

文化・生活

史跡・文化財

千年の古都として栄えた京都市には、2014年(平成26)時点では1527の寺院と243の神社がある。また美術、工芸、建造物など1800点以上の国指定重要文化財(2018)があり、うち200点以上が国宝に指定されている。また国指定の史跡、名勝、天然記念物は115を数え、優れた風光と近代的施設にも恵まれ、国際的な文化観光都市として、京都市の名は海外にまで知られている。1994年(平成6)には金閣寺(鹿苑(ろくおん)寺)をはじめ宇治市、大津市にまたがる17の寺社や城が「古都京都の文化財」として世界遺産(文化遺産)リストに登録された。観光客は5275万人(2018)に達し、そのうち宿泊外国人観光客は450万人。

 洛中(らくちゅう)とよばれる市街中央部には「王城の地」京都を象徴する京都御所がある。平安京の大内裏の位置とは異なり、14世紀末に東洞院土御門(ひがしのとういんつちみかど)にあった里内裏を拡大したもので、御苑(ぎょえん)内には、紫宸殿(ししんでん)の正面に建礼門、東側には仙洞(せんとう)御所がある。二条城(国史跡)は徳川家康が上洛の際の居城とし造営したもので、二の丸御殿(国宝)は近世初期の大名居館を示す遺構である。近くには神泉苑(えん)、二条陣屋、壬生寺(みぶでら)などがある。御苑の北には禅宗の名刹(めいさつ)相国(しょうこく)寺がある。鴨川右岸に頼山陽(らいさんよう)書斎(山紫水明処)跡、堀川通沿いに儒者伊藤仁斎(じんさい)宅(古義堂)跡があり、ともに国指定史跡。洛中の北西部には、庭園に優れた大徳寺、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る北野天満宮のほか、平野(ひらの)神社、千本釈迦(しゃか)堂などがあり、大徳寺の西には、1950年(昭和25)に金閣が焼失し、その後再建された金閣寺(鹿苑寺)がある。京都駅前には東西両本願寺がある。西本願寺は秀吉、東本願寺は家康によって建立された大伽藍(がらん)で、全国真宗門徒の信仰の中心であり、付近には仏具などを商う門前町が発達している。京都駅の南には、一般に東寺(とうじ)とよばれ、五重塔のそびえる真言宗東寺派総本山の教王護国寺がある。

 東山山麓一帯の洛東にも多くの社寺がある。大文字山ともよばれる如意ヶ岳山麓には、もと足利義政(あしかがよしまさ)の山荘であった銀閣寺(慈照寺)があり、ここから南の山麓に沿って、法然院、黒谷の真如(しんにょ)堂や若王子(にゃくおうじ)の永観堂、雄大な三門のそびえる南禅寺などの寺院が連なっている。南禅寺の西には、1895年(明治28)に建立された桓武(かんむ)天皇を祀る平安神宮があり、平安京の大極殿(だいごくでん)を模した朱塗りの社殿が美しい。付近一帯は市民の文化センターをなす岡崎公園で、美術館、動物園、京都会館(愛称、ロームシアター京都)などが集まる。岡崎公園の南には、青蓮院(しょうれんいん)や、巨大な三門を有する浄土宗総本山の知恩院(ちおんいん)があり、さらに南に抜けると、祇園(ぎおん)の夜桜で知られた円山(まるやま)公園と、祇園祭で有名な八坂(やさか)神社がある。祇園の南には、室町時代に建てられた法観寺の五重塔八坂ノ塔や、山腹にせり出した舞台で名高い清水(きよみず)寺があり、五条坂、清水坂には清水焼などの土産(みやげ)物店が軒を並べている。さらに東山七条付近には国立博物館、妙法院(みょうほういん)、三十三間堂(蓮華王院(れんげおういん))、智積院(ちしゃくいん)などが集まっている。

 洛北の上賀茂には、下鴨神社(賀茂御祖(みおや)神社)とともに葵(あおい)祭で知られた上賀茂神社(賀茂別雷(わけいかずち)神社)があり、比叡山山麓には、林泉や展望に優れた修学院離宮、その近くの宝ヶ池池畔には国立京都国際会館がある。宝ヶ池の北の岩倉には、維新の元勲岩倉具視(ともみ)幽棲(ゆうせい)旧宅(国史跡)や、岩倉門跡とよばれた実相院、平安京造営の際に瓦(かわら)を供給した栗栖野瓦窯(くるすのがよう)跡(国史跡)がある。高野川上流の大原には、『平家物語』の「大原御幸(ごこう)」で知られた寂光院(じゃっこういん)や、紅葉の名所で藤原時代の代表的建築の本堂(往生極楽院)のある三千院がある。老杉の生い茂る鞍馬(くらま)には鞍馬寺がある。

 洛西とよばれる市街西部の花園(はなぞの)から御室(おむろ)にかけては、広い境内に多くの塔頭(たっちゅう)の集まる妙心寺をはじめ、サクラの名所の仁和(にんな)寺や、石庭で著名な龍安寺(りょうあんじ)、等持院などがあり、太秦(うずまさ)には、有名な飛鳥(あすか)仏の弥勒菩薩(みろくぼさつ)が安置されている広隆寺がある。嵐山(あらしやま)は、保津川が京都盆地に流れ出る谷口にあたり、古くから山水の美に優れ、サクラと紅葉の名所である。また嵐山から嵯峨野(さがの)にかけての一帯は、天竜寺、大覚寺の名刹をはじめ、清凉(せいりょう)寺、二尊(にそん)院、落柿舎(らくししゃ)、祇王寺(ぎおうじ)、化野(あだしの)念仏寺などの史跡に富む。嵐山からドライブウェーの通じる清滝(きよたき)川に沿う三尾(さんび)とよばれる栂尾(とがのお)、槇尾(まきのお)、高雄(たかお)一帯は、下流の清滝とともに紅葉の名所であり、また神護(じんご)寺(高雄)、高山(こうざん)寺(栂尾)、西明(さいみょう)寺(槇尾)がある。嵐山から桂川に沿って南には、松尾大社や、苔寺(こけでら)とよばれる西芳(さいほう)寺があり、その南には、庭園と建物に優れた調和美のみられる桂離宮(かつらりきゅう)がある。

 洛南の地には、東山山麓に沿って、臨済宗東福寺派大本山で、紅葉の名所の通天橋が架かる東福寺や、泉涌(せんにゅう)寺があり、さらに南へ進むと、全国稲荷(いなり)社の総本社の伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)がある。山科(やましな)の南には真言宗醍醐(だいご)派の総本山醍醐寺がある。平安・室町時代の国宝建造物が多い。付近には随心(ずいしん)院、勧修(かじゅう)寺などの寺院がある。また上鳥羽(かみとば)一帯は、白河(しらかわ)、後鳥羽(ごとば)、後白河上皇の院政がとられた地で、鳥羽殿跡として国の史跡に指定されている。

[織田武雄]

芸能

古い文化の伝統をもつ京都は、古来数々の芸能文化を育成してきた。とくに茶道や華道の流派の家元の多くは京都市にあり、また能楽、狂言、舞踊、歌舞伎(かぶき)などの諸流派も京都におこり、いまもその宗家が少なくない。これらの古典芸能文化は、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のころ以降、室町時代から江戸時代の元禄(げんろく)(1688~1704)ごろにかけて、京都の町衆の生活のなかから生まれたものが多い。

 茶道についてみると、室町時代に村田珠光(じゅこう)が創始し、千利休(せんのりきゅう)により完成されたが、利休の孫宗旦(そうたん)のあと、千家は表、裏、武者小路(むしゃこうじ)の三千家に分かれた。このほか千家とは別に、西本願寺と関係の深い藪内(やぶのうち)流の家元もあり、今日も京都市は茶道の全国的な中心をなしている。この茶道と深い関連をもつ華道の最古の流派は池坊(いけのぼう)で、桃山時代から江戸時代初期にかけて盛んとなった。池坊とは中京区の頂法(ちょうほう)寺の一僧房の名で、この寺の司僧専慶(せんけい)がいけ花の名手であったと伝えられている。このほか華道には、旧嵯峨(さが)御所の大覚寺の伝統をもつ嵯峨御流や、御室(おむろ)流、平安流、京都未生(みしょう)流などの家元がある。

 また能は、室町時代に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子の手で完成され、のちに観世(かんぜ)、金春(こんぱる)、宝生(ほうしょう)、金剛(こんごう)の大和(やまと)四座として発達した。江戸時代に能が幕府の式楽(しきがく)となると、大和四座の多くは江戸に移ったが、金剛流宗家は京都にあり、観世流の片山家も京観世として重きをなし、両家ともそれぞれ月並能(つきなみのう)をもち、6月初めには平安神宮で薪能(たきぎのう)が催される。江戸時代に江戸で発達した歌舞伎の源流も、近世初頭に京都の四条河原で演じられた出雲(いずも)の阿国(おくに)の念仏(ねんぶつ)踊に始まったのであり、舞踊では井上流が京舞の伝統を伝えている。

 こうした芸能は今日でも京都の庶民の生活のなかに溶け込んでいるが、より民俗的な色彩の強いものとしては、夏のお盆や地蔵盆に行われる六斎(ろくさい)念仏(国の重要無形民俗文化財)や洛北八瀬(やせ)に伝わる赦免地(しゃめんち)踊などがある。

[織田武雄]

年中行事

京都市の新春は白朮参り(おけらまいり)で明ける。除夜の鐘が響き渡るころ祇園の八坂神社では、社前でオケラ(白朮)というキク科の薬草を混ぜた篝火(かがりび)がたかれる。その火を細い火縄に移し取って持ち帰り、それを火種にして雑煮を炊き新年を祝うと、悪鬼厄難を祓(はら)えると信じられている。

 2月の節分になると、吉田神社、壬生(みぶ)寺、廬山(ろざん)寺などでは古式ゆかしい節分会(せつぶんえ)が行われる。ことに廬山寺の鬼の法楽(ほうらく)の追儺(ついな)式は有名である。2月25日には北野天満宮で菅原道真の霊を慰める梅花祭(ばいかさい)が行われ、咲き始めた梅の花の下では、野点(のだて)が催される。彼岸(ひがん)が近づく3月15日に嵯峨清凉(せいりょう)寺では、涅槃会(ねはんえ)を営んだのち、釈迦(しゃか)堂前に立つ大松明(たいまつ)3本が点火され、その燃え方でその年の稲作の豊凶が占われる。京の春のいちばんの行事に花見がある。清水寺、円山(まるやま)公園、平安神宮をはじめ、洛南の醍醐(だいご)寺、洛西の嵐山などサクラの名所は観光客も加えて大いににぎわい、ことに醍醐寺では、豊太閤(ほうたいこう)の花見を模して、花見行列が山内を練り歩く。このころには祇園では「都をどり」、先斗(ぽんと)町では「鴨川をどり」の絢爛(けんらん)たる舞台が展開され、また壬生寺では、素朴で古い民俗を伝える壬生狂言(国の重要無形民俗文化財)が演じられる。紫野(むらさきの)の今宮神社では、悪霊や疫神を鎮めるための鎮花祭「やすらい花」(国の重要無形民俗文化財)が行われる。新緑の候の5月15日に上賀茂・下鴨両神社の葵祭(あおいまつり)がある。わが国で最上の格式を誇る祭りで、さながら王朝絵巻を繰り広げたように優美であり、夏の祇園祭、秋の時代祭とともに京都の三大祭となっている。そのほか5月には御霊(ごりょう)神社の御霊会、車折(くるまざき)神社の三船(みふね)祭などが行われる。6月には伏見稲荷の御田植祭、鞍馬寺の竹伐り会式(たけきりえしき)など、いずれも古式を伝え、また平安神宮の薪能も初夏にふさわしい行事である。

 梅雨が明けて夏を迎えると、豪華な祇園祭が始まる。元来は疫病退散のための町衆の祭りで、7月1日の吉符入(きっぷいり)を皮切りに、24日の還幸祭までの3週間にわたって行われる。とくに、16日の宵山(よいやま)と17日の山鉾(やまぼこ)巡行が祭りのハイライトで、都大路は見物客でうずまる(京都祇園祭の山鉾行事として国指定重要無形民俗文化財およびユネスコ無形文化遺産)。8月には五条通に陶器市が開かれ、鴨川の河原に張り出した納涼床は暑い京都の夜の風物詩である。16日の盂蘭盆(うらぼん)の夕べには、大文字山をはじめ、西山、船山など京都市の東、北、西の五つの山に精霊(しょうりょう)送り火が点火され、夏の夜空を彩る情景がみられる。お盆が過ぎると、市内の町々では子供たちのための地蔵盆がにぎやかに行われる。

 京都を取り巻く山々が美しく色づくころには、高雄、嵐山、大原などの紅葉の名所は観光客でにぎわう。10月初めには北野天満宮の瑞饋祭(ずいきまつり)があり、屋根をズイキやナスなど野菜で飾った神輿が巡行する。22日は平安神宮の時代祭で、平安時代から明治維新までの時代風俗を再現した大行列が都大路を練り歩く。同じ日の夜には鞍馬の由岐(ゆき)神社で勇壮な火祭がみられる。

 12月の師走(しわす)の声が聞かれると、四条の南座では「顔見世(かおみせ)」が始まる。芸能の町京都の年の暮れを飾るにふさわしい興行である。9日と10日、鳴滝(なるたき)の了徳寺(りょうとくじ)では、中風除けと長寿のまじないに参詣(さんけい)者に炊きたての大根をふるまう「大根だき」の行事がある。13日の「事始め」には、迎春の準備がこの日から始められ、祇園などの花街では芸事の師匠へ鏡餅(かがみもち)を贈る風習がいまも行われている。21日には東寺の「終(しま)い弘法(こうぼう)」、25日には北野天満宮の「終い天神」と、京都の二大縁日市(いち)がにぎわいをみせるうちに大みそかが近づき、やがて年も暮れるのである。

[織田武雄]

暮らしと住まい

「京の着倒れ」と昔からいわれているが、つつましい京都の庶民も祭りとか芸事のある日には晴れ着を身に着けた。それが京都人の誇りであり、また西陣織や友禅染の技(わざ)をもつ京都人は衣服に対して洗練された感覚を有し、それが京女の優雅な美しさを引き立てたのである。それに、いわゆる標準語に比べて柔らかで悠長な抑揚と、やさしく独得な響きをもつ女性の京ことばが、いっそう京女を魅力的なものにしている。町方ばかりでなく、村方でも白川女(しらかわめ)や大原女(おはらめ)のように、紺木綿の衣服に襷(たすき)掛け、三幅前垂(みのまえだれ)の服装は労働着ではあるが、京の田舎(いなか)にふさわしい優雅な姿である。

 海に遠い京都市では、川魚以外には新鮮な魚は得にくかったので、生ぶし、棒だらなどの干物や塩さばなどの塩物が昔から珍重された。乏しい材料を利用して、棒だらとサトイモを煮合わせた芋棒(いもぼう)やさばずしなど、家庭料理から京都名物になったものもある。新鮮な魚類には恵まれないが、京都の近郊では、春のタケノコ、秋のマツタケをはじめ、壬生(みぶ)菜、聖護院(しょうごいん)カブラなどの野菜が豊富である。したがって京都では、新鮮な野菜を薄口しょうゆであっさり味つけするのが料理の本道とされた。新鮮な野菜を利用した漬物の多いことも京都の特色で、聖護院カブラを用いた千枚漬、スグキナを用いたすぐきなどは京都独得の漬物である。また良質の水に恵まれて、豆腐、湯葉(ゆば)、生麩(なまふ)も優れた味である。さらに代表的な京料理としては、茶道とともに発達した懐石(かいせき)料理がある。

 京都の町家は、間口が狭く、奥行が深く「ウナギの寝床」と称される。表は紅殻(べんがら)格子で、入口は大戸を下ろし、大戸の潜(くぐ)りから出入りするようになっている。家に入ると土間で、通り庭があって裏庭へ続き、裏庭には離れと土蔵がある。通りに面して「上げ座」とよばれる蝶番(ちょうつがい)で上げ下げのできる床机がついている家もみられる。通りに面した2階は「虫籠(むしこ)窓」という細い格子を組んだ縦窓がついていて、紅殻格子と美しい調和をみせている。このように、緩やかな勾配(こうばい)の低い瓦(かわら)屋根が連なる京都の町並みは、いかにも日本の古都らしい落ち着いた美しさを示している。古い町並みもいまでは少なくなってきたが、織物問屋の多い室町界隈(かいわい)や西陣一帯では、なお伝統を伝える町並みが残り、東山区の産寧(さんねい)坂、祇園新橋、右京区嵯峨鳥居本(とりいもと)、北区上賀茂は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

[織田武雄]

『藤田元春著『平安京変遷史』(1930・スズカケ出版)』『竹林俊則著『新撰京都名所図会』全7巻(1957~1965・白川書院)』『林屋辰三郎著『京都』(1962・岩波新書)』『林屋辰三郎著『町衆』(1964・中公新書)』『藤岡謙二郎編『京都』(1962・有斐閣)』『京都自然研究会編『京都の自然』(1964・六月社)』『京都市編『京都の歴史』全10巻(1968~1970・学芸書林)』『『日本の文化地理10』(1968・講談社)』『『日本歴史地名大系 26 京都市の地名』(1982・平凡社)』『『日本地名大辞典 京都府』2巻(1982・角川書店)』『京都新聞社編『京のおばんざい12か月』(1995・京都新聞社)』『梅原猛著『京都発見』全8巻(1997~ ・新潮社)』『『京都の大路小路』(2003・小学館)』『『古写真で語る京都』(2004・淡交社)』



京都(府)
きょうと

近畿地方の中央部から北部にかけて細長く伸び、東は福井・滋賀・三重の各県に接し、南は奈良県、西は兵庫県・大阪府と境し、北は日本海に面する。五畿内(きない)の山城(やましろ)一国と、山陰道の丹波(たんば)国の大部分および丹後(たんご)国全域からなる。山城国にあたる南部の京都盆地は早くから開発が進み、ことに平安京が置かれて以来、明治に至るまで1000余年にわたって王城の地として、日本文化の中心をなした所であり、現在も京都市は大阪市、神戸市とともに京阪神大都市圏を構成し、西日本の中枢的地位を占めている。2020年(令和2)10月現在、15市6郡10町1村からなる。府庁所在地は京都市。

 京都府の総人口は1878年(明治11)の81万4000人から、2000年には264万4391人、2010年には263万6092人と約3.2倍の増加を示している。しかし、2000年の段階で府総人口の約81%は京都市のある旧山城国に集中し、人口増加率は1990~2000年の10年間に2.1%(人口集中の激しかった1975~1980年の5年間では4.8%)、人口密度は1平方キロメートル当り1850人に達し、京都市を除いても1239人と稠密(ちゅうみつ)である。これに対して、府の面積の75%を占める旧丹波・丹後国にあたる北部の大部分は山地が多く、府の総人口の20%に満たない。亀岡(かめおか)盆地や福知山(ふくちやま)盆地、舞鶴(まいづる)市などにやや人口の集中がみられるが、人口密度は1平方キロメートル当り142人。人口増加率も平均3%減、旧北桑田・船井・加佐郡の山村地域では5~7%(1975~1980年では5~10%)も減少し、過疎化により廃村となった所もある。面積4612.20平方キロメートル。人口257万8087人(2020)。

[織田武雄]

自然

地形

地形上、南部の京都盆地と北部の丹波高地、丹後山地に大別される。京都盆地は瀬戸内(せとうち)陥没地帯の延長にあたる地溝盆地で、更新世(洪積世)の湖盆の時代に堆積(たいせき)した洪積層が盆地周辺に乙訓(おとくに)、長岡などの台地や丘陵を形成した。また盆地床は沖積層で占められ、宇治(うじ)川、木津(きづ)川、桂(かつら)川、鴨(かも)川が貫流したあと、合流して淀(よど)川となって大阪湾に流入する。宇治川の天ヶ瀬(あまがせ)ダムから上流は宇治川ラインとよばれ、琵琶(びわ)湖国定公園の一部に含まれる。盆地床の最低所は標高10メートルで、1941年(昭和16)に干拓されるまでは遺跡湖の巨椋(おぐら)池があった。また京都の北東と北西にそびえる比叡(ひえい)山や愛宕(あたご)山も標高900メートル前後にすぎない。

 丹波高地も標高600メートルほどの定高性を示す開析隆起準平原で、大部分は古生層からなり、多くの断層が交差し、福知山、亀岡などの小盆地がみられる。大堰川(おおいがわ)、由良(ゆら)川の本・支流が山地を侵食し、大堰川は南流して保津(ほづ)川・桂川となり、由良川は北流して日本海に注ぐ。大堰川の亀岡と京都嵐山(あらしやま)との間を屈曲して流れる保津峡や、大堰川支流の園部(そのべ)川にある瑠璃(るり)渓はともに渓谷美に優れている。

 おもに花崗(かこう)岩からなる丹後山地は、日本海に向かって奥丹後(与謝(よさ))半島となって突出し、その東に広がる若狭(わかさ)湾沿岸はリアス海岸をなし、舞鶴湾、宮津湾などのいくつかの小湾をつくり丹後天橋立大江山(たんごあまのはしだておおえやま)国定公園、若狭湾国定公園に含まれる。宮津湾と阿蘇海(あそかい)を隔てる砂州(さす)は、白砂青松の天橋立として古来日本三景の一つに数えられる。半島の北東端の経ヶ岬(きょうがみさき)以西の海岸は、断崖(だんがい)、砂丘、砂浜、湾入が続いて変化に富み、一部は丹後天橋立大江山国定公園に、一部は山陰海岸国立公園に指定されている。2016年、中央部の丹波高原が京都丹波高原国定公園に指定された。なお、府立自然公園には笠置(かさぎ)山、保津峡、るり溪の三つがある。

[織田武雄]

気候

京都府の年平均気温は14℃か15℃であるが、8月の平均気温は京都盆地では28℃に達する所もあり、丹後地方がこれに次ぎ、丹波高地の東部では26℃以下である。1月の平均気温は京都盆地や丹後地方では3℃、また対馬(つしま)暖流の流れる日本海に面する丹後半島では4℃以上にもなるが、丹波高地では2℃以下の所が多い。気温の年較差も、日本海に臨む舞鶴では23.5℃に対して、京都市は25℃であり、京都盆地などはそれだけ内陸性を示している。気候の南北の対比は降水の関係によく現れる。年降水量は京都盆地では1400ミリメートルに満たない所もあるが、丹後半島の一部では2600ミリメートルに達し、日本海沿岸では年降水量の40%は冬に降り、冬は曇天か雨天の日の多い日本海型気候を示し、山間部では1メートルを超える積雪がある。これに対して丹波高地南部から京都盆地にかけては、年降水量の半分以上が6~9月の夏に集中し、太平洋型気候を示している。

[織田武雄]

歴史

先史・古代

奈良盆地に接する京都盆地の歴史は古く、縄文時代の遺跡は高燥な京都市の北白川(きたしらかわ)扇状地や乙訓(おとくに)丘陵などに発見されているが、弥生(やよい)時代になると、桂(かつら)川流域をはじめ、南山城の木津川沿岸などに多くの遺跡がみられ、盆地床の低湿地を利用して水田耕作が営まれたことがうかがわれる。大和(やまと)朝廷の中央集権化が進むに伴って、大和に隣接する後背地として京都盆地には地方豪族が輩出し、盆地周辺の台地や丘陵には前方後円墳などの多数の古墳が築造された。なかでも盆地開発の中心的役割をなしたのは、今日の京都市域の太秦(うずまさ)や深草(ふかくさ)を根拠地とした渡来系氏族の秦氏(はたうじ)であり、7世紀には秦河勝(はたのかわかつ)によって太秦に蜂岡(はちおか)寺(広隆(こうりゅう)寺)が創建された。

 ついで784年(延暦3)には律令(りつりょう)体制の再編成のために桓武(かんむ)天皇によって平城京(奈良市)から長岡京(向日(むこう)市・長岡京市)に、さらに794年には平安京(京都市)に遷都が行われた。それ以来、京都は時代によって盛衰はあったにしても、東京遷都(1868)に至るまで、「都(みやこ)」として日本の政治・文化・学芸の中心をなした。長岡京は水害や怨霊(おんりょう)などの問題によって造営なかばのわずか10年で終わったが、発掘調査によって、内裏(だいり)などはすでに完成していたことが知られる。平安京や長岡京も平城京と同じく中国の都制を模しているが、平安京では朱雀(すざく)大路を中心に左京・右京の条坊が広がる広大な規模を有していた。しかし遷都後まもなく右京は土地が低湿のために荒廃したのに対して、左京は鴨(かも)川を越えて洛東(らくとう)に広がり、法勝(ほっしょう)寺や白河殿などの寺院や貴族の邸宅が設けられた。10世紀以後になると律令国家は徐々に解体していった。12世紀末、鎌倉幕府の成立により、政治の中心は鎌倉(神奈川県)に移った。

 京都盆地以外の府の代表的な先史遺跡は、縄文時代に属する京丹後市の浜詰(はまづめ)遺跡、舞鶴市の桑飼下(くわがいしも)遺跡など、また弥生時代には、大陸との交通を物語る中国の貨泉が出土した京丹後市の函石浜(はこいしはま)遺跡など、多くは丹後地方の日本海沿岸にみられるが、古墳時代には亀岡盆地や福知山盆地、峰山盆地に地方豪族の築造になる前方後円墳などがみられる。しかし京都府の北部は畿内の中心から離れた位置にあるため開発も遅れ、丹波国が丹波と丹後の2国に分けられたのは713年(和銅6)である。平安京遷都によってようやく都と丹波・丹後地方との関係も密となり、ことに丹波の木材が造都の用材として大堰川によって輸送されたが、城下町のような都市的集落の発達がみられたのは近世になってからである。

[織田武雄]

中世

12世紀末には幕府が鎌倉に開かれ、京都には鴨東(おうとう)に六波羅(ろくはら)探題が置かれたが、室町時代には幕府は京都に移り、ふたたび政治の中心となった。しかしたびたびの戦乱を受け、ことに応仁文明(おうにんぶんめい)の乱(1467~1477)によって京都は焦土と化した。その後、町衆(まちしゅう)の手によって京都の復興が図られた。

[織田武雄]

近世

豊臣(とよとみ)秀吉は天下を統一すると大規模な都市計画に着手した。1587年(天正15)聚楽第(じゅらくだい)を造営し、市街の町割を整備して外側に御土居(おどい)を巡らすなど京都の再建に努め、さらに伏見(ふしみ)に伏見城を築城した。1603年(慶長8)徳川家康は江戸に幕府を開き、政治の中心は江戸に移ったが、幕府は京都に二条城を築いて所司代(しょしだい)を置き、京都の繁栄を維持せしめた。したがって京都は江戸時代にも日本文化の中心をなし、人口は40万以上を数え、江戸・大坂とともに三都とよばれた。また伏見城は1623年(元和9)に解体されたが、伏見は京都と大坂を結ぶ淀川水運の発達によって河港として栄えた。宇治川と木津川が合流して淀川となる地には、かつて秀吉が築いた淀城があったが、1622年江戸幕府は京都守護のため新たに築城し、松平(久松)定綱(さだつな)が入封して淀藩が成立し、幕末まで続いた。

 丹波・丹後地方のおもな城下町としては、亀岡盆地の南部には亀岡、北部には園部(そのべ)がある。亀岡は明治以前は亀山とよばれ、1579年(天正7)に明智光秀(あけちみつひで)が亀山城を築き、江戸時代には藤井松平氏5万石の城下町となり、園部も小出(こいで)氏2万5000石の城下町である。福知山盆地東端の綾部(あやべ)は九鬼(くき)氏2万石の城下町であり、盆地西端には朽木(くつき)氏3万2000石の城下町福知山があり、由良(ゆら)川河口までの水運の河港をも兼ねた。また綾部市南部には谷氏山家(やまが)藩1万6000石の陣屋が置かれた。丹後では田辺郷(舞鶴市)に1580年細川藤孝(ふじたか)が築城し、その後、牧野氏田辺藩(舞鶴藩)3万5000石の城下町となり、宮津も細川氏に始まる城下町であるが、江戸時代には西廻(にしまわり)海運の発達によって、日本海沿岸屈指の港町としてにぎわった。峰山には1万3000石の京極(きょうごく)氏峰山藩があった。

[織田武雄]

近代

江戸幕府の大政奉還により、1868年(慶応4)には京都府が置かれ、山城国の大部分の行政にあたった。また山城、丹波、丹後には淀などの9藩と久美浜県が置かれていたが、1871年(明治4)の廃藩置県のあと、淀、亀岡、綾部、山家(やまが)、園部の5県は京都府に、福知山、舞鶴、宮津、峰山と久美浜の5県が但馬(たじま)(兵庫県)の豊岡(とよおか)県に合併された。しかし1876年には、豊岡県下の丹後国全域と丹波国のうちの天田(あまた)郡が京都府に編入され、いまの京都府の全域が成立した。

 明治以後の京都市は、東京遷都によって大きな打撃を受けたが、いち早く開化政策を取り入れ、舎密(せいみ)局や勧業場を設け、琵琶(びわ)湖疏水を開通させるなど、積極的に産業の近代化が図られ、西陣(にしじん)織、清水(きよみず)焼などの伝統産業の育成にも努めた。また教育面でも、全国に先駆けて学区制を採用し、1869年(明治2)には小学校、翌年には中学校も開設された。しかし近代産業の発達にとっては、京都市は内陸に位置して港湾を欠き、後背地に恵まれないなど立地条件に劣っているため立ち後れ、これまで観光・文化の都市として発達してきた。しかし、1960年代から名神高速道路など交通の開発に伴って、京都市の南郊では阪神工業地帯の延長として諸工業が発達した。また府下では1901年(明治34)舞鶴に軍港が置かれ、綾部、福知山に製糸工業の発達がみられ、第二次世界大戦後は舞鶴の旧軍港の諸施設が平和産業に転換された。現在の京都府は、人口、産業、都市機能の多くが京都市とその近郊部に集中し、地域間に格差がみられる。府では均衡ある地域構造の確立のため、低開発地域である北部の丹後リゾート開発や中部の丹波複合中軸都市群の整備、府全体の総合交通体系の整備などを目ざした「京都府総合開発計画」を策定し、1990年(平成2)から2000年まで第四次計画に取り組んだ。2001年からは「新京都府総合計画」、2011年からは行政運営の指針となる「明日の京都」を遂行している。

[織田武雄]

産業

農業

京都盆地を除けば、丹波高地をはじめ府下の大部分は山地で占められ、農地の宅地への転用も多く、京都府の総耕地面積は2002年(平成14)現在3万3700ヘクタールで、1970年に比べて18%減少し、耕地率も7.3%で、全国平均の12.8%よりはるかに低い。また2000年現在の農家戸数は1980年の6万2575戸からさらに減少して4万2374戸、そのうち専業農家は4788戸で11%にすぎない。また農家1戸当りの耕地は0.6ヘクタールで、全国平均の約2分の1である。ことに京都市の近郊では0.3ヘクタール以下の零細経営が27%を占める。水田率は約80%で、とくに京都盆地や亀岡盆地に水田が多い。2002年産水稲の10アール当り収量は508キログラム(全国平均は524キログラム)である。積雪の深い府北部では一毛作田が多く、南部の二毛作田では裏作として麦、菜種などが栽培されたが、需要の減退や労働力の不足で裏作も一部にしか行われなくなった。

 京都盆地や亀岡盆地では古代に条里制が敷かれ、開発が早かったことがうかがわれる。ことに京都市周辺では、江戸時代からすでに聖護院(しょうごいん)カブラ、賀茂(かも)ナス、九条ネギなどの名で知られた市場向けの野菜の産地をなしていたが、京都市の市街地拡大に伴い、近郊野菜の集約的栽培地帯は遠心的に広がり、南山城や亀岡盆地が近郊農業地帯となり、野菜のビニル栽培や温室栽培がみられるようになった。さらに京都盆地東部の宇治市を中心とする洪積台地では茶園が開かれ、茶の栽培が盛んである。生産額では全国の3%(2001)にすぎないが、すでに室町時代ごろから禅宗や茶道の興隆によって発達し、碾茶(てんちゃ)(抹茶)、玉露(ぎょくろ)の高級品を産し、「宇治茶」は品質の高さで全国に名高い。しかし宇治市では住宅化によって茶園の壊廃が進み、現在では宇治市南東部の宇治田原(うじたわら)町や和束(わづか)町が茶の主産地である。宇治田原町では玉露を主とし、和束町では煎茶(せんちゃ)の産出が多い。盆地西部の乙訓(おとくに)長岡の洪積層丘陵には孟宗竹(もうそうちく)の竹林が広く分布し、良質のタケノコの産地として知られる。福知山盆地では由良川の氾濫原(はんらんげん)の砂礫(されき)地を利用して古くから桑畑が開かれて養蚕が行われ、昭和初期の最盛期には約6000ヘクタールに達したが、2001年には最盛期の約200分の1に減じている。なお南山城の木津川の旧河床や、日本海に面する奥丹後の海岸砂丘地帯ではモモ、ナシなどの果樹栽培が行われ、奥丹後ではチューリップの栽培もみられる。

 牧畜はとくに盛んではないが、福知山盆地周辺の丹波高地では、中国山地の産牛地帯の延長として牛の放牧が行われる。牛の飼養頭数は1985年(昭和60)ごろより漸次減少しているものの、1戸当りの頭数は乳用牛が1980年の3倍、肉用牛が8倍になり規模拡大が進んでいる。一方、豚の飼養頭数は減少状態であり、1戸当りの規模は全国水準を下回っている。鶏卵の生産は、南丹・中丹・山城地域の順に多く、ブロイラーの生産は中丹地域が中心となっている。

[織田武雄]

林業

山地の多い京都府は総面積の約75%が森林に覆われ、ことに丹波地方では林業は重要な産業である。森林のほとんどは私有林で経営規模も零細であるが、植林によるスギ、ヒノキの人工林がよく発達し、ことに京都市の北西から丹波高地南部にかけては、スギの集約的管理による「北山丸太」とよばれる磨き丸太の特産があり、高級建築材としての需要が多い。また林業の副産物としてはシイタケ、マツタケ、クリ、竹材などがある。生シイタケは複合経営生産物として府内各地で生産されており、大消費地に近い南部地域では年間を通じて生産されている。丹波マツタケは、高い香りと優れた風味で知られているが、アカマツ林の荒廃などにより減産傾向にある。クリは、樹木の老齢化や病害獣被害のため減少傾向にあり、植え替えなどの改善が望まれている。竹材は、優れた品質と加工技術により、「京銘竹」の銘柄で、工芸品や建築、庭園資材の原料として広く活用されている。

[織田武雄]

漁業

北部の丹後地方は日本海に臨み、定置網、釣り、小型底びき網などの沿岸漁業が営まれている。沿岸地域は日本海を流れる対馬(つしま)暖流にのって回遊するブリをはじめ、アジ、サバの好漁場をなしている。京都府の年間総漁獲量は約2万トン(2000)、その52%は定置網による。定置網では丹後半島の伊根(いね)のブリ漁業が古来有名である。1982年ごろからマダイ、ヒラメ、サザエなどの栽培漁業が始まり、1992年ごろからは資源の持続可能な利用を目ざした資源管理型漁業が進められている。

[織田武雄]

鉱工業

地下資源はきわめて乏しく、鉱業としてはみるべきものはない。

 京都府の工業製品出荷額は2000年(平成12)現在約5兆9719億円であるが、全国の約2%にとどまり、工業活動は盛んであるとはいえない。また工業事業所数は1万8153であるが、従業者3人以下の事業所が58%を占め、1事業所当りの平均従業者数は10.8人で、全国平均16.4人の半分強にすぎず、零細家内工業が多いことがうかがえる。それは、古い歴史をもつ伝統工業が盛んだからである。ことに京都市には、平安時代に起源する西陣(にしじん)織をはじめ、清水(きよみず)焼、友禅(ゆうぜん)染、漆器、象眼(ぞうがん)、扇子(せんす)、仏具などがあり、丹後地方にも江戸中期に西陣織の技術が伝わって、冬の農閑期を利用して発達した丹後縮緬(ちりめん)の機業があり、京丹後市の峰山と網野、および与謝野(よさの)町などが主産地である。これらの伝統工業はいずれも高度の技術を必要とする家内工業で、高級品の生産を誇るが量産には適しない。また良質の硬水が湧出(ゆうしゅつ)する伏見(ふしみ)では、江戸時代初期から酒造業が発達し、今日でも銘酒の産地として兵庫県の灘(なだ)とともに全国的に著名である。

 京都府における近代工業の発達は、原料や製品の輸送に不利な地理的条件もあって立ち後れているが、名神高速道路や産業道路の開通によって京都市南部には阪神工業地帯の一環をなす洛南工業地帯(らくなんこうぎょうちたい)が1970年(昭和45)ごろ形成され、繊維、染色、機械、金属、化学、食料品などの諸工業が集まった。また府下では、宇治市に化学繊維や輸送機械、養蚕業が発達していた綾部市、福知山市では製糸・繊維工業、舞鶴市では旧軍港の施設や敷地を利用して、造船、板ガラス、化学工業などが立地し、1970年には福知山市の南部に長田野(おさだの)工業団地が造成された。1996年(平成8)には綾部市に綾部工業団地が完成した。

[織田武雄]

水力発電

1890年(明治23)の琵琶湖疏水(そすい)の開削により、京都市の蹴上(けあげ)に、疎水の水を利用して日本最初の水力発電所が設けられ、ついで宇治川でも宇治発電所が開設された。また1952年(昭和27)に発電のほかに流量調節を兼ねて大堰(おおい)川の世木(せぎ)ダム、1962年に由良川の大野ダム、1968年に名張川の高山ダムが設置された。宇治川には9万2000キロワットの天ヶ瀬(あまがせ)ダムが完成し、さらに1970年には宇治川上流に、46万6000キロワットの出力を有する、国内では珍しい揚水式の喜撰山発電所(きせんやまはつでんしょ)が新設された。

[織田武雄]

交通

平安時代以来首都であった京都を中心に、東へ東海道、南西へ西国(さいごく)街道、南に大和(やまと)街道、北西に山陰道が通じていたが、今日ではそれぞれ国道1号、171号、24号、9号となり、いずれも主要幹線道路となっている。そのほか京都から福井県へは国道162号、367号が走り、日本海に沿っては27号がある。京都市の南を名神高速道路、京滋バイパスが走り、ほかに舞鶴若狭(わかさ)自動車道、京都縦貫自動車道、第二京阪道路があり、京奈和自動車道も一部開通した。比叡(ひえい)山や高雄などへのドライブウェー、丹後半島一周道路(国道178号)も開設され、京都市を中心にバス交通も発達する。JRは東海道本線・新幹線が府の南部を通過し、京都駅からは山陰本線と、木津で関西本線・片町(かたまち)線(学研都市線)と接続する奈良線が分岐、山科駅から湖西線が滋賀県に向かう。JR山陰本線綾部駅と東舞鶴駅間にはJR舞鶴線が通じ、東舞鶴駅でJR小浜(おばま)線、西舞鶴駅で京都丹後鉄道宮舞線と接続する。京都丹後鉄道は、宮舞線(宮津―西舞鶴間)・宮豊線(宮津―豊岡間)・宮福線(宮津―福知山間)からなり、このうち宮福線は西日本初の第三セクターとして1983年に起工され、1988年7月開通した。また山陰本線福知山駅は大阪方面へJR福知山線を分岐する。

 京都市では1895年(明治28)蹴上発電所の完成に伴って日本最初の市街電車が登場したが、1978年(昭和53)までに全線撤去され、1981年5月新たに京都市内を南北に走る市営地下鉄烏丸(からすま)線が、さらに1997年(平成9)10月には市営地下鉄東西線が開通した。郊外電車も発達し、大阪へは京阪電鉄・阪急電鉄、奈良へは近畿日本鉄道京都線、大津へは京阪電鉄京津(けいしん)線、宇治へは同宇治線が走る。京都市郊外の名所地を結ぶ京福電鉄の嵐山(あらしやま)本線・北野線、叡山電鉄の叡山本線・鞍馬(くらま)線がある。そのほか、保津川沿いにトロッコ列車の嵯峨野(さがの)観光鉄道がある。また舞鶴には旧軍港の埠頭(ふとう)が1万トン級十数隻を接岸しうるので、戦後は日本海沿岸有数の貿易港となり、とくに対ロシア貿易による木材などの輸入が多かった。2010年国際埠頭が完成し、5万トン級のコンテナ船の就航が可能となった。

[織田武雄]

社会・教育

教育・文化

日本の文化の中心として長い歴史を有する京都は、東京遷都による打撃を避けるために開化政策が推進されたが、教育の面でもいち早く近代化が図られ、旧来の町組を学区制に改編して、1869年(明治2)には小学校、翌年には中学校・女学校が全国に先駆けて開設された。1897年には京都帝国大学が開学されたほかに、同志社、立命館大学が開学し、また中世、近世初期に起源をもつ本願寺の学寮が大谷大学、龍谷(りゅうこく)大学として発足した。2008年(平成20)には京都府の大学は31校、短大16校を数える。学校の多くは京都市に集中し、市の学生数は約14万で、市民の約1割を占める。学生の割合は全国でももっとも高く、学術都市としての特色を示している。そのほか学術的な施設としては、京都国立博物館、京都国立近代美術館、京都市美術館などがあるが、江戸時代に江戸と並んで盛んであった出版文化は今日では振るわず、地方新聞もおもなものは、1885年発行の『日出(ひので)新聞』に起源をもつ『京都新聞』1紙のみである。

 また古来さまざまな芸能文化がはぐくまれてきたので、花道、茶道、舞踊などの諸流派がおこり、それら宗家も多い。芸能文化の発達に伴って、美術工芸ばかりでなく、建築、造園なども京都が中心となって発達した。今日でも市民の間には、これらの芸能文化や古いしきたりがよく守られているが、その反面、開化政策にもみられたように、西欧の理化学を取り入れるため1870年(明治3)には舎密(せいみ)局が設けられ、疎水、水力発電、市街電車、博覧会などでも京都が日本の先鞭(せんべん)をつけたように、進歩的な面もあり、政治的にも革新勢力が強い。これに対して、丹波・丹後地方は交通が不便で、近畿地方の中心の阪神地方から遠く隔たり、京都市と比較するとなお文化的較差が大きい。大部分は農山村であるが、農事慣行などには、それぞれの地域とのつながりが認められる。

[織田武雄]

生活文化

住居や暮らし、年中行事などの庶民の日常生活にも古くからの伝統が残っている。俗に「京の着倒れ」といわれるように、西陣織や友禅染の名産をもつ京都人は、衣服には金をかけ、また洗練された感覚をもっているが、大原女(おはらめ)や白川女(しらかわめ)にみられるように、紺木綿(こんもめん)に三幅前垂(みはばまえだれ)の農村婦人の仕事着にも優雅さがうかがわれる。

 京都の町屋の住居は、通りに面しては紅殻格子(べんがらごうし)に上げ床几(しょうぎ)と虫籠(むしこ)窓をもち、その平面形態は「うなぎの寝床」のたとえのように、片側の土間の通り庭から奥庭、土蔵へと続く奥行の深い形態をなしている。農村の民家は切妻(きりづま)の裾(すそ)に垂れをつけ、上に破風(はふ)をのせた入母屋(いりもや)造であり、破風にはその家の定紋や防火のまじないに水や川の字を透彫りしたものがみられる。丹波・丹後地方では冬が長いので、居間にはいろりが掘られ、山間部では積雪を防ぐための雪囲いが設けられる。なお丹後半島の伊根では、母屋(おもや)と道を隔てた海岸に船小屋が並び、船置場の上は部屋や物置になっている。

 年中行事も、京都市中では5月の葵(あおい)祭、7月の祇園(ぎおん)祭、10月の時代祭の三大祭のほかに、大晦日から元旦(がんたん)にかけての白朮(おけら)参りに始まり、2月の節分会(せつぶんえ)、壬生(みぶ)寺の壬生狂言、4月の都をどり、6月の鞍馬(くらま)の竹伐り会式(たけきりえしき)、8月の大文字(だいもんじ)の送り火、12月の南座の顔見世(かおみせ)興行など、きわめて多彩である。府下でも、物忌みの行事として南山城の精華(せいか)町の祝園(ほうその)神社では正月に斎籠(いごもり)祭が行われ、それとともに大松明(だいたいまつ)のもとで、木製の農具を使って耕作の所作が演じられるが、京都市嵯峨清凉寺(さがせいりょうじ)の3月15日の涅槃会(ねはんえ)に営まれる御松明(おたいまつ)も斎籠堂の松明行事が仏事に結び付いたものである。豊作を祈るお田植祭は芸能化された田楽(でんがく)も伴って、丹波から丹後にかけての農村にかなり伝承されているが、ことに京都市右京区京北(けいほく)地区の日枝(ひえ)神社や南丹(なんたん)市の大原神社の田植祭は古風を伝えている。また6月5日には宇治市県神社(あがたじんじゃ)で梵天(ぼんてん)とよばれる依代(よりしろ)が暗夜に渡御(とぎょ)する奇祭があり、8月14日には亀岡市の稗田野神社(ひえだのじんじゃ)で灯籠(とうろう)祭と人形浄瑠璃(じょうるり)が演じられる。8月のお盆には精霊送りの行事として府下では宮津の灯籠(とうろう)流しが有名であり、盆踊りは各地で行われるが、なかでも福知山の盆踊りは盛大である。秋祭では、9月の城陽市の水渡神社(みとじんじゃ)の祭礼に宮座(みやざ)の古式が残っている。10月の木津川(きづがわ)市御霊(ごりょう)神社と岡田神社の御輿太鼓(みこしだいこ)祭なども民俗として興味深いものがある。

[織田武雄]

文化財

京都府の文化財や史跡も多くは京都市に集まる。それらは京都市の項目で触れるとして、府下のおもな文化財には次のようなものがある。宇治市には藤原道長(みちなが)の別荘を受け継いだ平等院があり、鳳凰堂(ほうおうどう)とよばれる阿弥陀(あみだ)堂には、平安時代を代表する定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来(にょらい)坐像(国宝)が安置される。また1661年(寛文1)に隠元(いんげん)禅師が開創した万福寺は、黄檗(おうばく)宗の本山で「山門を出づれば日本ぞ茶摘唄(ちゃつみうた)」と歌われるように、日本では珍しい中国風の建築である。そのほか南山城には、宇治川、木津川、桂川の3川合流点の南岸近くに接する小丘陵上には石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)があり、対岸の天王山は豊臣秀吉と明智光秀(あけちみつひで)の古戦場として知られる。また奈良県と境する木津川(きづがわ)市の旧加茂町地区には、定朝様式の9体の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置する本堂(国宝)などのある浄瑠璃寺(じょうるりじ)や岩船(がんせん)寺、木津川に沿っては南朝の史跡に富む笠置(かさぎ)山(国の史跡・名勝)がある。

 丹波地方では、亀岡市に円山応挙(まるやまおうきょ)の山水画(国の重要文化財)など応挙の作品を多く収蔵する金剛寺(こんごうじ)、綾部市には聖徳太子創建と伝える光明寺(こうみょうじ)に鎌倉時代の建築二王門(国宝)がある。丹後の舞鶴市には、平安時代の絹本着色普賢延命像(国宝)のある松尾寺(まつのおでら)、平安・鎌倉時代の仏像を多く蔵する金剛院などがある。国指定史跡には、山城、丹波、丹後の各国分寺跡や、銚子山(ちょうしやま)古墳、神明山古墳(京丹後市)、長岡京跡(向日(むこう)市・長岡京市)、正道官衙(かんが)遺跡、平川廃寺跡(城陽市)などがある。

[織田武雄]

伝説

代表的な伝説は浦島太郎と安寿(あんじゅ)・厨子王(ずしおう)であろう。浦島伝説の原型は『丹後国風土記(ふどき)逸文』にみえる水の江の浦嶼(うらしま)の子である。浦島太郎を祀(まつ)る宇良神社(うらじんじゃ)(伊根町)には、海のロマンを語る浦嶼の子の絵巻が伝えられている。宮津市の由良川左岸の上石浦に、安寿・厨子王の伝説で知られる山(三)椒太夫(さんしょうだゆう)の屋敷跡がある。この伝説は古説経節によって諸国に語り伝えられた。同地には身代り地蔵、山椒太夫の首塚がある。丹波の大江山は、酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼が山塞(さんさい)を構えた伝説があって、鬼ヶ茶屋、童子屋敷跡、鬼の岩屋などの伝説地が山中に散在する。京都市東山の三十三間堂(蓮華王院)は棟木(むなぎ)にまつわる樹木伝説で有名。棟木は熊野山中から切り出したヤナギの大木で、その伝説は浄瑠璃『三十三間堂棟木由来(むなぎのゆらい)』に脚色されて広く知られるようになった。同じく京都市黒谷(くろだに)の金戒光明寺に熊谷直実(くまがいなおざね)が源空(法然)の弟子となって髪を下ろしたときに、鎧(よろい)をかけた鎧かけ松があり、熊谷堂には直実、平敦盛(あつもり)の供養塔がある。左京区東北院の軒端(のきば)の梅は和泉式部(いずみしきぶ)遺愛の老樹で、その梅に供養すると式部の霊が出現するという伝説がある。謡曲『東北(とうぼく)』はそれに取材する。鹿ヶ谷(ししがたに)の安楽寺は、源空の弟子住蓮、安楽が刑死となった承元の法難で知られている。松虫・鈴虫という後鳥羽(ごとば)上皇の愛妾(あいしょう)が仏門に入ったことが原因の法難で、源空は土佐へ流罪になった。同寺に松虫・鈴虫の塚がある。宇治市の宇治橋守護神の橋姫の祠(ほこら)が橋の南にある。伝説によれば、男の心変わりを恨んで相手の女を呪(のろ)い殺し、橋姫は生きながら鬼になった。そのため、婚礼の行列は祠の前を避けて通ったという。小野小町(おののこまち)の屋敷跡は山科随心院(やましなずいしんいん)にある。付近に化粧井、文塚、小町の文張り地蔵がある。百夜通いの伝説で有名な深草少将(ふかくさのしょうしょう)の屋敷は、伏見区深草の欣浄寺(ごんじょうじ)の近くにあったと伝え、同寺に少将の墓が残っている。蛇蟹(へびかに)合戦の伝説を伝える蟹満寺(かにまんじ)(木津川(きづがわ)市)の寺号は『今昔(こんじゃく)物語集』(巻16)の「山城国の女人、観音の助けにより蛇の難を遁(のが)れる語(ものがたり)」の伝説によるという。

[武田静澄]

『『京都府の自然と名所』(1951・京都府)』『『図説日本文化地理大系』(1960・小学館)』『二友長平著『京都の民話』(1965・未来社)』『『京都府資料所在目録』(1968・府立総合資料館)』『『日本の文化地理』(1968・講談社)』『赤松俊秀・山本四郎著『京都府の歴史』(1969・山川出版社)』『『京都府関係雑誌論文目録』(1971・府立総合資料館)』『『野田宇太郎文学散歩第18巻 関西文学散歩 京都・近江編』(1977・文一総合出版)』『『日本歴史地名大系27 京都市の地名』(1979・平凡社)』『『日本歴史地名大系26 京都府の地名』(1981・平凡社)』『『日本地名大辞典 京都府』全2巻(1982・角川書店)』『『図説日本の歴史26 図説京都府の歴史』(1994・河出書房新社)』『『京都大事典 府域編』(1994・淡交社)』『山本四郎著『新版 京都府の歴史散歩(上・中・下)』(1995・山川出版社)』『平山輝男他編『日本のことばシリーズ26 京都府のことば』(1997・明治書院)』『浅尾直弘他著『京都府の歴史』(1999・山川出版社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「京都」の意味・わかりやすい解説

京都[市] (きょうと)

京都府南部の市。府庁所在地で,政令指定都市。2005年4月旧京都市が京北(けいほく)町を編入して成立した。人口147万4015(2010)。

京都市中南部の旧市で,府庁所在地。1889年市制。人口146万7785(2000)。府の政治,経済,交通,文化の中心をなすばかりでなく,国際的文化観光都市として著名である。地形的には京都盆地の北東部に位置し,南部と西部が低く,北部と東部が高い。市街東縁部には東山の連峰が連なるが,それを越えた東側の山科(やましな)盆地も京都市域に属する。歴史的には794年(延暦13)に建設された平安京が都市としての起源で,平安京は朱雀(すざく)大路を中心に左右両京に分かれていた。低湿な右京(西部)はやがてさびれ,高燥な東部,北部へと発展し,平安京の東縁であった鴨川の東へも早くから市街が広がっていった。

 市制施行時には面積は約30km2で,上京,下京の2区のみであったが(現在の両区とは範囲が異なる),その後市域が拡大し,1929年には上京,下京,中京,左京,東山の5区となった。31年には伏見市などを編入して伏見区,右京区が設けられ,第2次世界大戦後にはさらに北方の丹波高地や南西方の町村を合わせ,59年約610km2の市域が成立した。また1955年には上京,下京が分区されて北区と南区が生まれ,76年には東山区から山科区,右京区から西京(にしきよう)区が分かれて,合わせて11行政区となっている。なお1956年9月政令指定都市となった。

 平安京の町割りは,豊臣秀吉によって大きく改造され,さらに明治以後もさまざまの改変を受けたが,中心市街には現在も,東西南北の整然たる方格状の街路網がよく残っている。現在ビジネスの中心をなすのは東西の四条通りと南北の烏丸(からすま)通りの交わる付近であり,多くの金融機関や企業のオフィスが集まっている。四条通りと河原町通りの交わる付近は繁華街をなし,周辺には飲食店やみやげ物店の集まる新京極や,魚,青物市場の錦小路通などの通りもある。そのほか千本通りや伏見大手筋などにも繁華な商店街が成立している。卸売業も重要で,ことに室町通りを中心とする絹織物関係の卸売商は,全国的に大きな力をもっている。

 市内での就業者数の産業別内訳では製造業が28%(1995)を占め,また市内純生産のうち製造業の占める比率も32%(1994)で,京都市はふつう考えられるよりは工業都市的色彩が強い。京都市の工業は繊維工業を主とし,その代表は市街北西部の西陣を中心とした西陣織で,高級呉服地や帯地の生産が行われ,また元禄年間(1688-1704)に絵師宮崎友禅によって始められたといわれる友禅染も重要である。そのほか東山の山麓で慶長年間(1596-1615)から発達した清水焼や,京仏具,京漆器,京扇子など,京都の工業は工芸品的な高級品製造を行う伝統工業に特徴がある。これらの伝統工業がおもに旧市街内部の比較的小規模な事業所で行われるのに対し,その西方から南方にかけての周辺部は近代工業地区をなし,電気機器,輸送用機器,一般機器,化学,金属製品,印刷などの比較的大規模な工場がある。

 市街の北部には京都大学,同志社大学,立命館大学,京都工芸繊維大学,京都府立医科大学などの国公私立大学や,美術館,資料館,京都会館,京都国際会館などがあって,文教地区をなしている。市の人口は1960年128万人,70年142万人,80年147万人と漸増してきたが,その後は停滞している。住宅は,市街中心部にも商住混合,工住混合の形で多くの古くからの住宅がみられるが,純住宅地区は北東,北,北西方面に広がり,近年は南東の山科,醍醐,日野,向島でも住宅地化が進み,また市域南西端部にも大規模な洛西(らくさい)ニュータウンが建設されている。

 交通の面では,東海道本線,新幹線が通じ,山陰本線と奈良線が分岐し,また大阪方面への阪急と京阪,奈良方面への近鉄など,私鉄もよく整備されている。道路も国道1号線と名神高速道路のほか,山陰方面へ9号線,奈良方面へ24号線が通じ,交通の結節点をなしている。ただし市内交通はほとんど路面交通に依存し,地下鉄は四条通りの地下を東西に阪急電鉄が通じているだけであったが,1981年5月に市営の地下鉄が烏丸通りの地下を南北に京都駅から北大路まで開通して,その後,南は竹田,北は国際会館まで延び,さらに97年10月には二条~醍醐間(現在は太秦天神川~六地蔵間に延長)の東西線が開通した。1895年全国で最初に通じた市電は1978年までにすべて廃止されている。市内は第2次大戦で戦災を受けなかったためもあって,狭い街路が多く,近年の自動車普及の結果,しばしば交通渋滞を生ずる。

 古い歴史をもつ京都市には,旧市街の内部(洛中)にも周辺部(洛外)にも,多くの有名な古社寺や史跡があり,また嵐山などの名勝にも恵まれているため,国際的な観光都市として知られる。観光客が多く訪れる社寺は清水寺,八坂神社,金閣寺,平安神宮,銀閣寺,知恩院,三十三間堂,東西両本願寺,竜安寺などであり,地区としては四条河原町付近,嵐山,嵯峨野,八瀬(やせ)大原,三尾(さんび),比叡山,鞍馬貴船などである。1994年京都市,宇治市,滋賀県大津市の寺院などが,〈古都京都の文化財〉として世界文化遺産に登録された。
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京都は,8世紀の末,桓武天皇により山城国葛野(かどの)郡に造営された平安京を母体とする。まわりを山に囲まれた盆地にあるが,この地が選ばれたのは,長岡京以上に水陸の交通の便に恵まれていたことによる。以来1200年に及ぶ生命力を持ち続け,今日に至ったが,その間,一般名詞であった〈京都〉が平安後期には固有名詞(地名)化している。

 平安京の造営は,長岡京の放棄を決意した桓武天皇により793年に開始され,翌年10月22日,革命の日を期して新京に移っている。翌月の詔で国名を山背から山城に改め,新京は平安京と名付けられたが,造都工事は緒についたばかりで,これ以後本格化した。しかし長岡京につづく造都事業,それと並行して進められた蝦夷経営による民苦を放置できなくなった天皇は,805年12月,造宮職(ぞうぐうしき)の廃止を決定,これにより造都事業は終息した。ただしここが宮都として定まるのは,嵯峨天皇の時,平城上皇が平城京への遷都を呼びかけて失敗した,810年(弘仁1)の薬子の変以後のことである。

 平安京の規模は東西約4.7km,南北約5.4kmで,この京域の北部に大内裏がつくられたが,その平面構成は,当初,大内裏の北に2丁の余地を残す藤原京型であり,それが9世紀末に北闕(ほつけつ)型に改められ,それにともない宮城門も14にふえたと推定される。京中は朱雀大路によって左京と右京に分けられ,条坊制に基づく大小の道路による町割りがなされたが,低湿地の多かった右京域については,未造成に終わった部分もあったと推測され,早くすたれた。遷都後20~30年たったころで京中の町数は580余町と報告されており,平安京は実質予定の半分の規模であったと思われる。10世紀後半に書かれた慶滋保胤の《池亭記》にも,右京は人が去ってさびれ,左京の方に人口の集中したようすが記されている。嵯峨天皇の時,唐の都城名をかりて左京を洛陽(城),右京を長安(城)と名付けたことから,衰微した右京にかわり,左京の洛陽が平安京の代名詞ともなった。9世紀の段階における平安京の人口については決め手の史料を欠くが,宅地を班給されて京中に住んだ貴族をはじめ,課税が他地域に比して軽かった一般庶民,地方から徴発された課役民などをあわせ,10万人から15万人までの間であったろう。このうち左右京職(きようしき)によって戸籍に付された住民を京戸(きようこ)といい,その多くは,京外,ときには山城国以外の遠隔地に口分田を与えられた農民的存在であったが,口分田の耕営は不利な条件にあったから,農業生産を離れ,官衙や貴族の家政に関わるもの,東西市の市人をはじめとする商工業に従事するものなども,早くから現れていたと考えられる。また地方からの課役民には諸司厨町(しよしくりやまち)という宿所が用意された。この厨町は,中世になってその住民が官衙での職掌をもとに商工業の座を形成したものがあり,これが京都特有の座となったことでも留意される。京中の民政は京職が当たったが(京外は山城国司),10世紀以降治安警察は令外官である検非違使(けびいし)(庁)が当たり,中世に及んだ。

平安京を舞台に貴族政治が展開し,王朝文化が開花したが,今日,市中には王朝の遺構はほとんど残っていない。京都御所は本来の内裏ではなく,960年(天徳4)を初度として内裏がたびたび罹災したことで利用された里内裏の一つ,東洞院土御門殿の後身であり,現在の建物は,江戸後期,松平定信により古制に戻して再建された寛政度造営内裏をもとに,1855年(安政2)につくられたものである。摂関家によって東京極の東(京外)に造営された法興院や法成寺なども遺構をとどめず,ただ醍醐寺五重塔とか宇治平等院鳳凰堂などが周辺地域に残っているにすぎないが,葵祭などに王朝の風流をしのぶことができよう。ちなみに平安京でも,寺院勢力を排除した長岡遷都の意図が踏襲され,東西両寺は別として,京中に寺院を建立することはなかった。京中に寺院が出現するのは,鎌倉後期,日蓮の法孫日像が関東から上洛し,富裕町人の帰依を得てその屋敷地に寺を建てたのがはじめである。なお10世紀の半ば,比叡山延暦寺が摂関家の帰依を得て権門の寺となったが,これが以後京都の宗教界はもとより,政治的・社会的な影響を強く及ぼすことになる。

 院政期に下ると,右京の衰微はいっそう進み,市域は鴨川の東へと広がった。〈国王ノ氏寺〉といわれた法勝寺以下の六勝寺や,白河殿などの離宮が相ついで営まれ,市街化したことから,〈京・白河〉の称も生まれた。この鴨東には,それより南に,台頭した平家の一門や郎等,所従らの集住する一大集落が出現したことも見落とせない。のちここには六波羅探題が設置される。洛南の鳥羽も,相前後して御堂や水閣が営まれ,さながら都移りのごとくであったといわれた。市街地の偏在化が進んだために,このころになると本来の朱雀大路が西朱雀路と呼ばれる一方,東京極大路に東朱雀大路,鴨川(原)に朱雀河(原)の呼称が生まれている。また市域も二条大路を境に,上辺(かみわたり)・下辺(しもわたり)と呼ばれたが,これは中世では上京下京という呼称にかわる。また条坊制の四行八門の制による地点表示法が崩れはじめ,道路を基準とする表示法,たとえば〈油小路西,六角通北〉といったいい方が11世紀の後葉に登場したのも留意されるところで,これは人為的な都市が生活に即した形に変容しはじめたことを物語っている。道路の通称が現れ,それを覚えるための口遊(くちずさみ)が生まれたのもそれで,京都のわらべうたとして知られる〈アネ,サン,ロッカク,タコ,ニシキ……〉という,道路名を歌い込んだ歌の原型が平安後期には現れている。

 都市の発展にともない,いわゆる都市問題が発生した。記録の上では,9世紀半ばすぎ,貞観年間(859-877)あたりから顕著となる。とくに863年5月,流行する咳逆(がいぎやく)病を鎮めるため,神泉苑で催した御霊会(ごりようえ)は,その後に展開する各所の御霊会の最初となったが,その一つ祇園社の御霊会がもっとも典型的な都市型祭礼として発展し,今日に及んでいる。生活基盤の弱体であった京中住民の救済のために,水旱損のおこるたびに米塩を放出支給する賑給(しんごう)がしばしば行われ,のちには年中行事化した。日照り続きには神泉苑で祈雨の法会が行われ,またその水が灌漑用に開放された。このように天変地異の被害は人口の集中する都市であるがために増幅された。平安末期,1177年(治承1)4月の大火は,2万余家が焼亡し,死者も数千人にのぼったという空前の火災で,世に〈太郎焼亡(じようもう)〉と称される。この大火により大内裏の諸官衙が焼失したが,大極殿はこののち再建されることはなかった。大内裏の中は荒廃の一途をたどり,鎌倉時代には一面野原となり,内野(うちの)と呼ばれた。

鎌倉幕府の成立は,京都の政治的地位を低下させた。とくに承久の乱後に設置された六波羅探題(南・北)は,京都朝廷の監視をはじめ洛中の警固に当たったことから,武家の力が京都に貫徹するに至ったが,一方検非違使の機能もなお保持されている。鎌倉時代の京都では,仏教界の新しい動きがみられた。法然,親鸞や日蓮といい,栄西,道元といい,宗祖の多くが比叡山で学んだ天台の僧であったのが特徴的で,これらの新仏教が都市の宗教として浸透するのは室町時代であろう。市街に釘貫(くぎぬき)といって,町の入口に木戸を構えることが,鎌倉前期には確認されるが,これは都市民の間に共同体的な関係が成長していたことを物語っている。商工業者の成長も著しく,なかでも〈山門気風の土倉(どそう)〉といわれる,比叡山延暦寺の管轄する法体の土倉が高利貸業者として活躍した。土倉は室町時代には幕府の財政を支える重要な存在となる。

 建武中興とその瓦解,それにつづく足利氏の京都開幕は,地方の大名武士を多数上洛集住させることとなり,京都は公家よりも武家の町となった。その結果,政治の上はもとより,文化的にも公・武,都・鄙が接触,混淆し,京都を場として新しい武家文化の形成される要因となった。室町時代,京都の都市的発展も進み,道路によって区画された条坊制の町から,道路をはさんで向かい合う居住者によってつくられた町,いわゆる〈両側町〉が生まれた。京都の代表的な祭礼として発展した祇園祭は,典型的な両側町である山鉾町の町人によって支えられた好例である。公家,武家の邸宅や西陣機業者の集まる上京に対して,商工業者の集住する下京という地域性も明確となり,革堂(こうどう)・六角堂がそれぞれの町堂として市民生活の中核となった。現世利益を説く法華宗が町衆に受容され,洛中法華二十一ヵ本山と呼ばれるほど多数の寺院が市中に建立されるとともに,町衆の法華一揆がしばしば一向一揆に対抗した。

 応仁・文明の乱は京都の町の大半を焼いたが,都市の発展はむしろこれ以後に本格化した。〈市中の山居〉をたのしむ茶の湯や立華が盛んになったのも戦国時代のことで,都市文化の出現とみなされる。一方,地方大名のなかには積極的に京都文化を摂取して領国文化を育成し,その城下町に京都の自然的・人文的な景観を移したものも少なくなかった。西の京都といわれた大内氏の周防山口,越南の都とうたわれた朝倉氏の越前一乗谷,あるいは一条氏の土佐中村などがその代表であろう。《洛中洛外図屛風》が,そうした京都の景気を描いたものとして地方大名に愛好されたのも,同じ理由による。
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1568年(永禄11)織田信長が入京し,近世的統一国家構想の中心に京都を据えたことにより,京都は本格的な政治・経済の舞台となる。信長は村井貞勝を,信長の後継者豊臣秀吉は前田玄以を,京都奉行あるいは所司代に任じて京都の支配に当たらせたが,彼らの役割は京都に常駐できない信長や秀吉にかわって,国家統一の拠点としての京都をいかに統治していくかにあった。しかし豊臣秀吉は天下統一がすすむと,統一の拠点としての京都を一歩すすめて,近世的統一国家の中核にふさわしい近世都市へと改造した。

 秀吉が天下の統一をほぼ完了した1590年(天正18)から翌年にかけて行った京都の都市改造は,短冊型町割り,寺院街の形成,御土居(どい)の築造,地子銭の免除からなる総合的な都市改造であった。この都市改造以前には,上京と下京の市街地は連続せず,二条近辺は荒地となって城構えの妙顕寺や妙覚寺などが散在し,外来の地方軍団などの進駐するところとなっていた。秀吉は,下京の商業繁華地域など特定地を除き,平安京以来の東西南北路に加えて,新しい南北路をその中間に貫通させる町割りを行った。これによって,道路で区画される町地が従来の1町(約109m)四方の正方形から,南北1町,東西半町の短冊型となった。短冊型町割りは道路に面する町並みを増加させ,空地となっていた中央部を活用させるという,市街地再開発がねらいであった。また秀吉は,市中に散在する中小寺院を市街地の東端と北端に集め,寺町および寺之内とよばれる寺院街をつくった。これには,市民と寺院との精神的な結びつきを断つ宗教政策的な意味と,市中にあって相当な面積を占めていた寺院を郊外に移転させ,その跡地を町地に転用する意味もあった。京都を囲繞(いによう)する堤は御土居と呼ばれるが,これは秀吉が,京都の市街地を鴨川の洪水から守る役目と,京都の都市規模を策定するために建設したのではないかと考えられ,注目される。秀吉による京都改造は,1591年の洛中地子永代免除によって終結するが,地子銭の免除は,貴族や社寺などが京都市中に設定していた地子徴収の領主権をことごとく否定し,近世的統一権力が京都という都市を独占的に掌握するための措置であり,それはさらに都市民の懐柔と都市の経済的保護育成をねらいとしたものでもあった。秀吉は,この都市改造で京都の商工業機能を発展させることにより,近世社会の石高制を支える中央市場として京都を位置づけようとしたようである。以後京都の発展はめざましく,17世紀初頭には人口30万人以上,洛中町数1300町余を数える大都市に成長したのである。

1603年(慶長8)に徳川家康が江戸に開幕したことは,信長,秀吉の構想した京都を中心とする畿内近国型の経済や文化を基調とする統一国家ではなく,江戸および関八州を基盤とする国家構想を提示したことであった。東日本と西日本の差異を認めたうえでの選択であったから,江戸幕府にとってみずからの統一国家構想のなかに,西日本をどのように位置づけるかは大きな課題となった。京都には朝廷や公家,社寺などの伝統的勢力があり,また町人の経済力は無視しがたく,さらに反徳川で結集しようとする豊臣方の勢力も京坂一帯では根強かった。こうした状況のなかで,京都はもとより西日本支配の大きな権限を所司代に付与し,所司代を中心に八人衆と呼ばれる合議体制を設けて,江戸の政治からは相対的に独自な幕政を行わせた。所司代は,幕初の板倉勝重につづいてその子息の板倉重宗が継承し,板倉父子の支配は約半世紀に及び,重宗のあとは牧野親成が就任した。板倉父子および牧野親成の所司代時代に,京都の市中法度が制定され,町共同体と町組の組織も干渉を加えられ,行政機構として整備された。町組は上京12組,下京8組のほか禁裏六町町組と東西両本願寺の寺内町組があり,全町組は町代を通じて奉行所から政令を伝達された。また町組所属以外の洛外町続町および農村部も,雑色(ぞうしき)と呼ばれる触頭(ふれがしら)を通じて所司代の直轄下に組み込まれていた。

 1668年(寛文8)に京都町奉行が設置されると,京都市中および山城の支配も,その権限が所司代から町奉行へと移された。京都町奉行は東西の2員制で,一時元禄年間に伏見奉行廃止にともない3名となったこともあったが,幕末まで基本的に変更はなかった。

近世の京都は,秀吉の都市改造によってその原型が決定した。市街地は,北は鞍馬口通り,南は七条で一部東寺辺が九条まで,東は寺町通り,西は北部が千本辺,南部は大宮通りといったところであったが,統一権力の保護育成によってしだいに市街地も拡大し,とくに寺町以東の河原町および木屋町辺の市街化,南東部の東本願寺新屋敷辺,北西部の千本以西地域などの開発が盛んであった。また東海道である三条通りの鴨川以東地域,祇園社周辺地域,大仏回り,伏見街道沿線など,鴨東の発展も著しく,17世紀末までには近代京都の市街地原型がほとんどできあがっている。《京都御役所向大概覚書》という江戸中期の記録によると,町数は洛中1615町,洛外町続町228町で合計1843町,家数は洛中3万9649軒,洛外5258軒で合計4万4907軒,人数は洛中30万2755人,洛外4万1624人で合計34万4379人と記されている。もちろんこれは平民数と考えられるから,僧侶や公家,武家などを加えると人数で40万人前後となるかもしれない。京都の景観や構造をうかがわせるものに《洛中洛外図屛風》や京都絵図,京都案内記などがあるが,それらを総合的に復元した《京都の歴史》近世巻の別添地図によると,洛中の中心部に禁裏御所を中心とする公家屋敷街と,二条城を中心とする武家役所街が形成されている。武家役所街とは二条城北の所司代,二条城西の二条城番,蔵奉行,鉄砲奉行,西町奉行,京都代官,南では東町奉行といった役所であり,これらをとりまくように有力大名の京屋敷もあった。もちろん,すべての大名屋敷や公家屋敷がこの地区にのみあったわけではなく,市中の町屋のなかに散在するものも少なくなかった。社寺は寺町,寺之内をはじめ,西では千本,西ノ京および大宮通り,南では東西本願寺寺内町と,文字通り市街地外縁部に多いが,市中各所にも散在している。寺院の多くは,本末制度のなかで各宗派の本山と呼ばれて全国寺院に君臨する格式をもち,京都の宗教都市としての性格をかたちづくっていた。京都には,ほかに歴史と伝統をほこる諸職名匠をはじめ,特権的な御用達町人,当代一流の学者や医師,文人なども多く居住していた。町人の地域的な住み分けも見られ,それが京都内部の地域的特色ともなっていた。たとえば,商業中心地区は下京の四条通り,新町・室町通り一帯で,ここには有力な京都商人が軒をつらねていたし,学者や文人たちは公家街の南西のいわゆる新在家辺に多く,公家街と武家街をつなぐ上京の下立売通り,中立売通り一帯には呉服所や幕府,諸大名の御用達町人が多かった。また市街地北西部にあたる西陣地域には,機業家や染色,糸屋などの織物業関係の人々が集住していた。

西陣が,応仁の乱後の復興のなかで大舎人座の系譜などによって,高級絹織物業の同業者街となったのはよく知られている。江戸中期におけるその範囲は,堀川以西,一条または中立売以北で,その町数は168町と数えられている。江戸初期の状況を伝える俳書《毛吹草》にもすでに西陣の撰糸,金襴,唐織,紋紗等々が名産として記されている。《毛吹草》によって京都の名産を紹介してみると,安居院(あぐい),寺之内の畳縁,筆柿,白みそ,一条の薬玉(くすだま),似紺染,二条の薬種,はかり,きせる,洗鮫,三条の袈裟(けさ),蚊帳(かや),四条の屛風,五条の扇地紙,渋紙,紙帳,六条の仏具,灯籠細工,山川酒,七条の編笠団子,八条の浅瓜,九条の真桑,芋,藍といった具合である。手工業品が市中に多いのに比較して,南部に農産物系統のものが見られるように,周縁部では加工品や農産品が名産にまで成長していた。《京雀》や《京羽二重》という京都案内記でも,京都の産業分布をうかがうことができるが,全体として高級手工芸品の生産・小売業が多く,禁裏や幕府との密接な関係をもつ特権的町人として,名誉と技術を相伝するのも,京都産業界の特徴である。

京都盆地は内陸に位置して海がないために,京都は都市として発展すると,物資の運搬に苦慮した。舟運としては角倉氏の高瀬舟のみであった。全国的な商品流通の発達のなかで,大堰川と由良川とを結んで日本海と京都を舟で往来しようという通船計画や,琵琶湖疏水計画が江戸中期以降たびたび企てられ,これは実現しなかったものの京都の内発的な都市改造の欲求として注目される。

 ところで,実際に京都を変貌させたのは,幕末の政治的動乱である。ペリーの浦賀来航によってにわかに京都朝廷の政治的意味が浮上し,幕府や雄藩は京都へ政治的な働きかけを開始した。所司代の上位に京都守護職を置き,将軍みずからも上洛を繰り返して,幕府みずから京都の政治的意味を強調する結果となった。攘夷と開国,佐幕と勤王,公武合体などの論が複雑にからみ合い,京都では寺院は諸大名の本陣と化し,大名の京屋敷は拡大・新築され,市中の旅館や町の会所や民家の離れなどにまで,入京した武士が投宿,人口は約2倍にも増加し,物価は上昇,都市の構造も市民生活も激変した。結局,政治に引きまわされた京都には,西高瀬川が残されたくらいで,市民のための町づくりという大きな課題が明治以後に残された。
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京都市北西部の旧町。旧北桑田郡所属。人口6686(2000)。旧京都市の北に接する。標高600~700mの丹波高地を大堰(おおい)川が刻み,町域の大半を山林が占める。高級建築材北山杉の産地として知られ,1962年ころより素材生産中心から木材加工へ比重を移し,みがき丸太生産が盛んとなる。農業は宅地化の進行,農業人口の減少により,衰退傾向にある。中心集落は明智光秀の築いた周山城跡がある周山で,京都市から周山街道(国道162号線)が通じ,商業が盛ん。山国(やまぐに)は古くから皇室と関係が深く,平安時代から皇室領の山国荘があり,南北朝期には北朝の光厳天皇が常照皇寺を開き,隠棲の地とした。境内には光厳天皇陵,後花園天皇陵があり,天然記念物の九重桜もある。また,明治維新で討幕のために活躍した農民隊の〈山国隊〉でも知られている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「京都」の解説

京都
きょうと

京都府南部に位置する。府庁所在地。794~1868年(延暦13~明治元)日本の首都であった。京都が平安京をさす固有名詞として用いられている早い例は,988年(永延2)の尾張国郡司百姓等解文第23条で「裁断せられんことを請う,旧例に非ず,国の雑色人并に部内人民等に夫駄を差し負わしめ,京都・朝妻両所に雑物を運送せしむる事」とある文で,平安後期には通例化した。保元・平治の乱以後,兵乱に遭うことが多かったが,そのたびに復興し政治・経済・文化の中心として栄えてきた。明治維新で東京遷都となったが,三都の一つとして行政上も特別に扱われた。1878年(明治11)郡区町村編制法の施行により,三条通を境にした上京・下京両区を設置。89年の市制・町村制施行後も市制特例法が適用されて東京・大阪両市とともに府の直接行政が行われた。98年市制特例法が廃止され普通市制となる。1906年に開始された第2琵琶湖疏水の開削と蹴上(けあげ)上水場の建設,道路拡築と電気軌道(市電)敷設事業は京都市3大事業といわれ,近代都市へと大きく飛躍する。29年(昭和4)左京・中京・東山の3区を,31年に右京・伏見2区を設置した。55年には上京区から北区,下京区から南区を,76年には東山区から山科区,右京区から西京区を分区して現在11区の編成となっている。50年国際文化観光都市,56年政令指定都市となり,66年には古都保存法が適用された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

普及版 字通 「京都」の読み・字形・画数・意味

【京都】けいと

みやこ。魏・応〔従弟の君苗・君冑に与ふる書〕京に來(きた)りり、塊然(くわいぜん)として獨り處(を)る。宅を濱洛に營み、囂塵(がうぢん)に困(くる)しむ。

字通「京」の項目を見る

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旺文社日本史事典 三訂版 「京都」の解説

京都
きょうと

京都府南部にある府庁所在地。794(延暦13)年から1868(明治元)年までの帝都
794年桓武天皇のとき,奈良から遷都し,平安京を建設。律令国家の首都として繁栄した。鎌倉時代,経済都市としても発展。室町時代には幕府が置かれ,特に洛北が発展,町衆も勃興し活躍した。応仁の乱(1467〜77)で焦土と化したが町衆の力で復興し,その後,豊臣秀吉は大規模な市街整備を行った。江戸時代には西陣の機業などを中心に繁栄し,江戸・大坂と並んで三都の一つに数えられた。東京遷都とともに帝都としての地位を失ったが,平安京以来の古社寺が多く,観光都市として世界的に有名である。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「京都」の解説

京都

黒川創の連作小説。2014年刊行。2015年、第69回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の京都の言及

【京都御役所向大概覚書】より

京都町奉行の支配地域の状況とその権限について記した奉行所役人の勤方の手引書。7巻。…

【三都】より

…江戸時代,幕府の直轄都市で人口などの面でずぬけて規模の大きかった京都,江戸,大坂をいう。元禄期(1688‐1704)ころの三都の人口はほぼ35万人前後であったが,同じ幕府の直轄都市堺が約6万,長崎が約5万,また城下町として最大規模の金沢,鹿児島,名古屋が約5万であったから,三都の大きさがわかる。…

【都市】より

国府都城【鬼頭 清明】
【中世】
 日本の中世都市に関する古典的研究は,西欧の古典的中世都市論の影響の下に,古代都市を統治機能中心にみるのと対の形で,経済すなわち商業手工業中心に自治の達成を規準としながら論じられてきた。したがって中世前期は古代の残影という視角で三都(京都奈良鎌倉)の変貌,形成をとらえ,商業・手工業の発達する中世後期に及んで地方を含めて多様な中世都市が一律に自治的要素をもって本格的に成立するとみる傾向が強かった。さらに三都や城下町門前町寺内町港町等々の多様な地方都市の質的差異や,構造的連関まで論じられることは少なかった。…

【都城】より

…すなわち長安は五胡十六国時代の前趙,夏,前秦,後秦と西魏,北周,隋,唐の各王朝の首都であり,洛陽は三国の魏,西晋,北魏,後唐の首都で,隋と唐の副都とされた。そして日本で〈千年の古都〉と称される京都が,平安時代に西半分の右京が長安,東半分の左京が洛陽の別名をもった,という事実が示唆するように,日本古代の都城は,中国の長安と洛陽との両都城を模倣したものなのであり,さらに時代を限定すると,北魏王朝の首都たる洛陽城と,それにひきつづく隋・唐王朝の首都たる長安城との都城制を移入したのである。ただし留意すべきは,儒教の古典たる礼制に記載され,伝統的に中国人一般が抱いてきた都城のイメージにおいて,北魏の洛陽城と隋・唐の長安城とは,ともに正統ではなく異端の位置にあったという点である。…

※「京都」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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太陽の表面にあるしみのように見える黒点で起きる爆発。黒点の磁場が変化することで周りのガスにエネルギーが伝わって起きるとされる。ガスは1千万度を超す高温になり、強力なエックス線や紫外線、電気を帯びた粒...

太陽フレアの用語解説を読む

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