大坂(読み)おおさか

日本歴史地名大系 「大坂」の解説

大坂
おおさか

近世逢坂おうさか郷、すなわち松河原まつがわら村・塩津しおつ村・おか村・下市しもいち村・上市うわいち村・殿河内とのがわち村・高橋たかはし村の七ヵ村一帯に比定される。「一遍上人絵伝」巻八に、弘安八年(一二八五)に「伯耆国おほさかと申所にて、雪の中にひとりうづもれ給て」として、「つまばつめとまらぬ年もふるゆきにきへのこるべきわが身ならねば」とある。金勝院本「太平記」は、元弘三年(一三三三)閏二月、隠岐島を脱出した後醍醐天皇の伯耆着船地を「奈和湊大坂浜」とする。


大坂
おおさか

与惣よそう川右岸から竜今寺りゆうごんじ川左岸にかけての地域、現大坂・浜野はまの地区一帯に比定される。天文四年(一五三五)一一月七日の興津正信書状写(諸家文書纂所収興津文書)に「大坂」とみえ、子息信綱にその保全を命じている。同一一年五月二〇日の今川義元判物(写、同文書)では「村岡之郷大坂西方当田」を興津信綱に安堵しており、東西に分れている。永禄五年(一五六二)正月一一日の今川氏真判物(写、同文書)によれば、興津摂津守に「大坂之内知行浜野浦」に係留中の新船一艚に賦課される諸役を免除しており、また今川氏の退去後の同一二年一月二〇日に徳川家康が小笠原清有に与えた所領に「参百貫文 大坂西方・同浜野村舟共」とあり、大坂は浜野の海岸まで含んでいる(「徳川家康判物」小笠原文書)

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旺文社日本史事典 三訂版 「大坂」の解説

大坂
おおさか

近畿地方のほぼ中央部,現在の大阪
古代の難波 (なにわ) の地。大和政権の大陸交通上の要地で,大化の改新のとき孝徳天皇の都が置かれたこともある。1496年蓮如 (れんによ) が石山本願寺を創建しその寺内町として近世都市の基礎が置かれ,織田信長の焼打ちにより焼失したが,1583年豊臣秀吉の大坂城築造に伴い,その城下町造りで強制移住させられた堺・伏見などの町人を中心に,江戸時代の商業都市としての発展の基礎が確立された。江戸時代,幕府直轄地となり城代・町奉行が置かれた。「天下台所」と呼ばれ,諸藩の蔵屋敷が建ち並び,蔵物・納屋物 (なやもの) の取引きが盛んで,豪商が生まれ元禄文化を開花させた。元禄(1688〜1704)ごろの人口35万。明治時代になって,「大阪」と改められた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大坂」の解説

大坂
おおさか

本来は大阪市のほぼ中央を南北に貫く上町(うえまち)台地北端の地。摂津国東成(ひがしなり)郡に属し,1496年(明応5)の「本願寺蓮如消息」に「摂州東成郡生玉之庄内,大坂トイフ在所」とみえる。小坂(おさか)とも書いたようで「厳助(ごんじょ)往年記」の1561年(永禄4)3月28日条には「小坂本願寺」とある。戦国期に本願寺蓮如が建立した坊舎が石山本願寺となって寺内町が建設され,豊臣秀吉の大坂城の建設で城下町となり,やがて近世の大坂三郷へと発展し,大坂という呼称も広域名称となった。近世にはほとんど大坂と書くが,住吉大社石灯籠や道標などに大阪と彫られたものもある。大阪の文字が広く用いられるようになったのは,1877年(明治10)前後である。

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百科事典マイペディア 「大坂」の意味・わかりやすい解説

大坂【おおさか】

大阪[市]

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世界大百科事典(旧版)内の大坂の言及

【大阪[市]】より

…地形は,淀川大和(やまと)川がつくった沖積低地と上町台地によって構成される。上町台地は大坂城付近から南へ向かって細長く半島状につづく台地で,淀川に臨む台地北部は,古代の難波(なにわ)京と四天王寺,中世後期の石山本願寺,近世の大坂城が立地して,大阪の長い都市史における中核をなしてきた。台地の北側と西側には,天満から船場島之内を経て難波(なんば),粉浜(こはま)にかけて,砂州と呼ばれる微高地が帯状に伸びている。…

【港湾】より

…このような場所は,河川流域を背後地とすることで,産業,経済の中心地として発展する要因ももっていたのである。大坂はその典型的な例であり,16世紀,豊臣秀吉は淀川河口上町台地の北端に大坂城を築いてここを政治の中心とするとともに,河川の流下土砂のために機能を失ってしまっていた難波津に湊を整備し,堺の貿易商をこの地に移したが,以後,大坂は港湾都市として,そして経済・産業活動の一大中心地として発展を続けることができたのである。 近世,徳川幕府の鎖国政策は西洋との交易の窓口を長崎の出島に限定したが,藩米の大坂移送,大坂から諸国への諸物品の移送のため,沿岸の泊,湊の整備が進み,とくに日本海から関門海峡を経て大坂に至る西回りおよび日本海から津軽海峡を経て江戸に至る東回りの航路はよく発達し,沿岸の湊は海の宿場としても繁栄した。…

【三都】より

…江戸時代,幕府の直轄都市で人口などの面でずぬけて規模の大きかった京都,江戸,大坂をいう。元禄期(1688‐1704)ころの三都の人口はほぼ35万人前後であったが,同じ幕府の直轄都市堺が約6万,長崎が約5万,また城下町として最大規模の金沢,鹿児島,名古屋が約5万であったから,三都の大きさがわかる。…

【下肥】より

…行政担当者側は屎尿船や荷車の進出に対して,町方の衛生行政上から寛容な処置しかとれず,在方側の要望を聞きいれることが多かった。 大坂の場合,町人人口だけでも30万~40万と増大し,屎尿処理に大坂町奉行は苦慮した。市中に青物類を供給する周辺農村では,近世中期になって諸肥料の値段が高騰してくると下屎を大幅に利用することになり,1769年(明和6)〈摂河三一四ヶ村及び河内新田方支配〉の村々の間で下屎仲間を結成して,下屎くみ取りの規制を申し合わせた。…

【城】より

…しかしこれらの城は,短期間存在しただけで破壊される。安土城が本能寺の変で焼失した翌年(1583),信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉は大坂石山に築城を開始し,1598年(慶長3)に没するまでの15年間に数次の普請を行って完成させた大坂城は,近世城郭の典型といえる。さらに関白となった秀吉は,京都の邸として聚楽第を築き,太閤となったのちには風光明媚な伏見に城を築いた。…

【摂津国】より

…その後,尾張から上洛した織田信長は三好,松永氏や摂津の国衆を平定して,和田惟政,池田勝正,荒木村重らに支配させ,さきに蓮如の創建した石山御坊によって反抗する一向衆徒と戦い続け,80年(天正8)に講和した(石山本願寺一揆)。【宮川 満】
【近世】

[所領配置]
 織田信長は反逆した摂津の大名荒木村重を制圧し,石山本願寺と講和した後,1580年(天正8)大坂,兵庫,伊丹を含む〈摂津一国諸所多く〉を池田恒興父子に与えた。しかし本能寺の変(1582)後,信長の後継者たる地位を確立した羽柴(豊臣)秀吉は83年池田父子を美濃に移して大坂を手にし,石山本願寺の旧地に大坂城を築いて居城とした。…

【船場】より

…江戸時代の大坂三郷,さらに近・現代の大阪市における商業中心地の地名。北は土佐堀川,東は東横堀川,南は長堀川(現在は長堀通),西は西横堀川(現在は阪神高速環状線道路高架下)に限られた地域で,本町通を境に北船場と南船場に分けられた。…

【大名貸】より

…このずれを埋めるのが大名貸であるが,借手からみれば大名個人の負債ではなく藩債である。中央都市とは三都であり,近世初期に全国的な集散市場としての基礎が築かれ,運河網の完成にともなって諸藩の蔵屋敷も設置・整備・拡大され,登米(のぼせまい)が増して最大の領主米市場となった大坂を第一とする。京都は高級織物,美術工芸品の生産・流通都市であったが,領主米市場としては大津,大坂に包含されていた。…

※「大坂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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