朝日日本歴史人物事典 「葛西晴信」の解説
葛西晴信
生年:永禄1頃(1558)
江戸前期の武将。晴胤の子。左京大夫。兄義重を継ぎ戦国大名葛西氏の第16代当主となる。葛西7郡(牡鹿,登米,本吉,磐井,胆沢,江刺,気仙)と桃生郡東部と栗原郡東北部も領す。居城は登米郡寺池城(宮城県登米町)。隣接する大崎氏としばしば合戦を行う一方,縁約の深い伊達氏と結ぶ。秀吉の小田原征伐に際して,伊達氏を中心とする南奥同盟の中で自家の安泰をはかろうとしたことと,領内内紛のために参陣できず所領を没収され,佐沼城によって上方軍を迎え討ったが敗北。その後,黒川郡大谷12ケ村を与えられたのち,前田利家に預けられ,慶長2(1597)年64歳で死去したと伝えられる。晴信文書は現在200通ほど残っているが多くは近世に作成された偽文書。葛西氏はその後南部氏と伊達氏に分かれて仕えた。<参考文献>『石巻市史』6巻
(伊藤清郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報