蓮潟興野(読み)はすがたこうや

日本歴史地名大系 「蓮潟興野」の解説

蓮潟興野
はすがたこうや

[現在地名]聖籠町蓮野はすの

東は西高畑にしたかばたけ新田、南は二本松にほんまつ新田、西は大夫だいぶ興野、北は蓮潟新田と接し、第五線砂丘列上に位置する。俵柳たわらやなぎ(現新潟市)間兵衛の次男九兵衛が、延享元年(一七四四)に新発田藩新発田組に属した蓮潟興野へ移住し開作したと伝える(二宮家の地主構造)。享和三年(一八〇三)の御領分組々村別石高庄屋名主名前帳(菱田家文書)によれば村高は二一七石で、苗字帯刀御免の名主二宮九兵衛が支配する。安政四年(一八五七)にも名主を勤めた九兵衛は千町歩地主二宮家の当主で、同家は金子かねこ新田(現加治川村)の白勢長兵衛所有地を管理する差配であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む