デジタル大辞泉 「名主」の意味・読み・例文・類語
な‐ぬし【名主】
2 江戸時代、
3 江戸時代、町役人の一。町奉行の支配のもと、町年寄の下で町政を担当した職。町名主。
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近世における村の長。名主のほかに庄屋,肝煎(きもいり)等の称があり,一般的には東国では名主,西国では庄屋が多い。いずれも中世からの伝統を引く語で,名主は中世の名主(みようしゆ),庄屋は荘(庄)園の屋敷からきた語とされている。
近世初期の名主は,身分は百姓であったが,中世末以来の在地有力者が多く,戦国大名の家臣だった者も少なくない。したがって初期の名主は村民に対してかって気ままな振舞いをすることがあり,初期村方騒動の中には,名主の年貢・村入用不正や村民に対する私的夫役(ぶやく)を原因としたものが多い。しかし名主の私的権力は領主によっても規制されたので,その力は時とともに衰え,しだいに村の新しい有力者が選ばれて名主になった。はなはだしい場合は,年番名主といって年々名主が交代するようなこともあった。だが一般的には,村方の長としての名主の権威は幕末まで保たれたといってよい。名主は1村に1名を原則としたが,1村が2名ないし数名の領主に相給(あいきゆう)となっている場合には,領主ごとに名主が置かれた。このような事例は,旗本領が多く存在した関東,近畿地方に多い。また分給されていない村でも1村に名主が2名いる場合が時にあった。これは甲乙つけ難い有力者が1村に2名いる場合,1村を分かってそれぞれに名主を置いたために生じた現象のようである。
名主は身分としては百姓であるが,一般村民よりは一段高い階層に属し,その屋敷に門を構えたり,母屋(おもや)に式台を設けることができ,着衣や履物にも特例を許されていた(絹物や雪駄の着用)。名主の主要な仕事は村民の統制と保護,村を代表しての他村との交渉,領主への請願等多岐にわたった。近世初期の一揆には名主が村人を代表して,領主へ請願したり越訴(おつそ)する場合があった。末期には名主が商人,地主として富を蓄えることが少なからずあり,それが村民はじめ周辺の多数の人々のうらみを買って打ちこわされるようなことが起こった。名主は日常業務を自宅で行っていた。名主宅に組頭等の村役人が集まり,年貢・村入用の割当てをしたり,領主から命ぜられる諸帳簿や,村より領主への願書類等の作成に当たった。また領主からの触書,廻状類は,それを帳面に書き写したうえで,原文を定使(じようづかい)に命じて隣村へ持って行かせた。ほとんどの公文書には名主の署名,捺印が必要とされ,村人相互の土地移動(主として質地)にも名主の証印を必要とする場合が多かった。名主の仕事はこのように多岐にわたっていたから,当然読み書き算用能力が必要であって,したがって名主は多くの場合,僧侶や神官と並んで村の知識人であった。名主はその役職への報酬として給料を受けた。その給料は村入用の一部として村民に割り当てられた。またみずからの所持地のうち年貢のかからない土地を領主に公許される場合もあり,これを名主免といった。1872年(明治5)新行政区画としての大区小区制の発足により廃止された。
執筆者:木村 礎
中世の荘園公領の耕地を分割した名田(みようでん)(名)を占有し,それを単位として課せられる年貢・公事(くじ)等の納入責任を負った農業経営者をいう。律令制下では戸籍計帳に編成された〈戸〉が支配と収取の単位であったが,班田制と籍帳支配が崩壊すると,代わって〈名(みよう)〉があらわれ,平安時代の10世紀以降は,国衙の支配する公田を分割して請け負う大小の田堵(たと)が公民となり,〈負名(ふみよう)〉と呼ばれた。またこれに対応して荘園でも田堵や作人(さくにん)の請作地を〈名〉と称するようになった。名主の語の史料的初見は公領・荘園いずれも平安中期で,〈大名〉〈別名(べちみよう)〉の有力者から名主の呼称が始まったのではないかと思われる。平安時代末から鎌倉初期にかけて,中世の荘園公領体制が確立すると,荘公田は年貢・公事等を賦課する定田(じようでん)と,社寺,沙汰人,職人らにあてられる除田(じよでん)その他に分けられ,定田を基本単位に区分する名田の再編成が行われた。それぞれの名田には,勧農や年貢納入や諸公事勤仕(ごんじ)の責任と権利を有する名主が補任(ぶにん)され,その名称が固定された。名主には大別して,〈大名〉の領主的名主,荘郷村落上層の地主的名主,一般百姓名の農民的名主らの諸階層があったが,小百姓,下作人,間人(もうと)ら下層民に対して,それぞれに下級荘官的な職権と得分(とくぶん)(収益権)がみとめられた。これを名主職(みようしゆしき)といい,名主の子孫に伝領され,相伝の道理をめぐる相論の対象になった。名主の職権と得分はやがて生産者農民から分離して物件化し,その加地子得分権が売買譲渡され,それとともに本名の分割,脇名(わきみよう)の分出,新名への改編など旧名体制の解体が進み,そこから成長する農民的な名主百姓の惣村結合が発展していく。一方,旧名主も村落の乙名(おとな)沙汰人ら指導的上層として生き残り,それを基盤として,国人(こくじん)地侍(じざむらい)ら新興領主層が成長した。戦国大名権力はこれらの勢力に支えられて発展したが,統一政権による太閤検地と兵農分離によって中世名主は消滅に至る。
執筆者:戸田 芳実
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平安後期から中世を通じて荘園(しょうえん)・国衙(こくが)領における年貢・公事(くじ)は名(みょう)を単位として収取されたが、名主は名(みょう)ごとに任命された管理・徴税責任者で最末端の荘官である。時代、地域によって名の性格は多少異なるが、畿内(きない)型と中間・遠隔地型の二つの類型に分けられる。畿内の荘園は概して小さく、名は荘園領主側の年中行事や法会(ほうえ)・神事などの繁雑で細かい要求に対応できるように編成されたので、その規模はせいぜい2~3町(1町は約119アール)でほぼ均等に編成されることも多かった。かつてこのような名はそのまま名主の所有・経営体と考えられていたが、それは誤りで、名主を最有力者とする幾人かの百姓の所有・経営地を一つの収納単位として編成したものである。名主は年貢納入の最終責任を負い、名に随時賦課される人夫役や雑公事を名内の百姓に適確に配分して勤めさせる役割を担った。そのような職務を果たす代償として名主は屋敷地の課役免除などの特権を与えられており、村のなかで有利な立場を築く挺子(てこ)となりうる名主の地位は有力農民の競望するところであった。名には最初の名主の名前がつけられるのが一般的で、たとえば重遠(しげとお)名、末則(すえのり)名などはよくみかける名前である。いったん定まった名の名前は、たとえ名主が交代しても、荘園領主による名の編成替えが行われるまで長く維持された。
中間・遠隔地の荘園は大きいものが多く、名の規模は不均等で、4~5反のものから数十町に及ぶものもある。2~3町規模の名では名主の性格は畿内の場合と基本的に変わらないが、山野や河川を包み込んだ大規模な名の名主は農民というよりも在地領主的である。名の名前はここでは地名、屋号として残ることが多い。
名主を媒介とし名単位に行われた収取は、早い所では14世紀なかばに変質・解体し始め、しだいに直接耕作者が把握されるようになる。
[安田次郎]
『永原慶二著『日本の中世社会』(1968・岩波書店)』▽『稲垣泰彦著『日本中世社会史論』(1981・東京大学出版会)』▽『中野栄夫著『中世荘園史研究の歩み――律令制から鎌倉幕府まで』(1982・新人物往来社)』
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江戸時代の村役人。東日本では名主,西日本では庄屋とよぶことが多い。名主は1村の長で,年貢取立て,戸籍事務,諸書類の作成・奥印,他村・領主との折衝など村政全般を取り扱った。村内で社会的・経済的に優位な者が就任し,世襲が一般的だが,交代制や選挙制をとる村もある。就任に際して領主の認可が必要だが,ふつう村で決めた者がそのまま認められた。名主の職務に対して,年貢諸役を免除されたり,名主給が与えられた。用水普請,貧農への救済活動,教育・文化の普及など村の利益に努めた者もいるが,不正のため村方騒動によって糾弾・罷免される者もいた。
中世,荘園公領制下の村落で中核的な地位を占めた百姓のこと。その前身は中世初期の村落を形成する主体となった根本住人。彼らが荘園領主から名の管領を認められて名主に転化した。名主になることによって百姓上層は,他の弱小な経営を営む小百姓などに対する優越を保持した。名主は名単位に賦課される年貢・公事の徴納責任者である点で,下級荘官の側面をもつ。しかし,公事は共同体行事に淵源をもつ共同体成員の負担に由来していたから,公事負担者である名主は村落の完全な成員権を有する一種の名誉ある身分の証でもあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…江戸時代の各地に散在する幕領(天領)に,宝暦・天明期(18世紀後半)以降存在した村役人の代表。個々の代官所支配管下全体(=郡中)の庄屋(名主)を代表する〈惣代〉の意味で,郡中惣代庄屋(名主)と呼ばれる。形式的には代官による任命のかたちをとるが,実質的には村役人の中での入札で選出,推薦される。…
…近世の村役人。名主(庄屋,肝煎(きもいり)),組頭(長(おとな)百姓,年寄),百姓代の総称。(1)名主・庄屋は村の長で,初期には前代の名主百姓や荘園の下司(げし)の系譜を引く有力農民がその地位についた。…
…地方(じかた)文書,名主文書,庄屋文書ともいい,日本近世の村で作成された文書類(日記などの記録類や絵図などを含む)の総称。村方文書の多くは領主との関係において作成された公文書であるが,これとは別に私的な文書も各種のものが作成された。…
…〈内之得分〉の略称。室町・戦国期の近江,越前,美濃など畿内周辺諸国の田畠売券や寄進状などにしばしば現れる用語で,〈名(みよう)之内得〉〈名内得分〉などと表現され,多くの場合名主(みようしゆ)の私的得分である加地子(かじし)分を指し,売買などで移動した。越前西福寺文書の1515年(永正12)2月9日付春庾田地売券は,平内名(みよう)所属の田地2反を売却したものであるが,それには名の内得分を売るのであるから,本役などは自分(名主)の方で負担するので,この田地には万雑公事(まんぞうくじ)は一切かからない旨記されている。…
…地士とも表記される。研究史上では,土豪・上層名主(みようしゆ)・小領主・中世地主などともいわれ,とくに一揆の時代といわれる戦国期の社会変動を推進した階層として注目される。中世社会の基本身分は侍・凡下(ぼんげ)・下人(げにん)の三つから成っていたが,中世後期の村落でも〈当郷にこれある侍・凡下共に〉〈当郷において侍・凡下をえらばず〉(〈武州文書〉)というように,侍と凡下は一貫してその基本的な構成部分であった。…
…平安時代にみられる荘園(公領)の請作(うけさく)者。かつては名主(みようしゆ)と同じものとみられていたが,最近では名主の前段階的存在とみられている。9~10世紀の史料では主として〈田刀〉とみえる。…
…名字をもち,殿とか方などの敬称をつけて呼ばれ,〈殿原に仕〉える者をもち(《相良氏法度》),〈地下ノ侍〉(《本福寺由来記》)つまり侍身分の地侍として凡下(ぼんげ)身分と区別され,夫役(ぶやく)などの負担を免除されることもあった。後期の村落の名主(みようしゆ)・百姓のうちの名主上層に当たるとみられるが,〈殿原とも百姓として作仕る〉(〈法隆寺文書〉)といわれ,領主からは土地を耕作するかぎり百姓とみなされた。彼らはふつう在村のまま武家や社寺に奉公して,〈殿原以下の被官〉(〈古文書集〉)とか〈士と中間(ちゆうげん)の間〉(《武家名目抄》)といわれ,また親類・殿原・中間(《八代日記》),殿原・中間・下部(しもべ)(《朽木文書》),殿原・中間・小者(こもの)・夫(ぶ)(《大和田重清日記》)という序列に位置した。…
…【大石 直正】 近世から近代にかけての名子は自立性を強めて,地主から家屋敷を借りて労働地代を提供するものに変わってきている。被官,譜代,脇の者,門屋(かどや)等の名称で呼ばれるものと同質であって,もとは有力な土豪的名主(みようしゆ)の家のなかに抱えこまれていた下人,奴婢層が,家族をもって名主の名田の一部を経営するようになったものである。自己の経営地をもつといっても自立した経営ではなく,基本的には名子主の経営の一部分を占めるにすぎず,それだけ人身的隷属性が強かった。…
…番の編成の仕方は多様であり,大別してそれぞれの番がほぼ等しい面積となるような均等な編成と,それぞれの番の面積が違う不均等な編成との2種類がある。もともと荘園の下地は幾つかの名(みよう)に編成され,それぞれの名の名主(みようしゆ)が自分の名にかけられた年貢,公事を勤める責任者となっていた。番の均等な編成には,この名を適当に組み合わせ,均等な面積になるようにしたものと,この名の編成とは別にそれぞれの耕地を適当に組み合わせて均等な面積にしたものとの2種類があった。…
…彼ら百姓身分の上層には在地領主や〈大名〉の田堵百姓がおり,その領主経営,名田経営の内部に,彼らを主人とし人格的に隷属して奉仕し駆使される下人(げにん),従者,所従(しよじゆう)など非自由民が存在したが,一般荘公民である百姓は,この下人らと身分的に区別される一種の自由民であった。
【中世】
中世の荘園体制が確立すると,荘内田畠を分割して名田が編成され,坪付(つぼつけ)と名称を定めた各名田を単位として年貢,公事(くじ),夫役(ぶやく)を賦課する収取体系ができあがり,荘民百姓がそれぞれの名田の名主(みようしゆ)に補任(ぶにん)され,名主百姓が荘民を代表する呼称となった。荘園本来の名田である〈本名(ほんみよう)〉の名主百姓のほかに,平百姓,脇百姓,小百姓,間人(もうと)などと呼ばれる中下層百姓がおり,本名以外の領主直属地である間田,一色田などを耕作した。…
…寛徳・延久の荘園整理令(1045,69)は公民の荘民化について,〈平民おのれを顧みる者〉とか〈恣(ほしいまま)に平民を駈(か)り〉と述べ,また荘園側も〈平民に準じて方々色々の雑役を充て責める〉,荘民は〈平民公田の負名ではない〉と反論したことにみられるように,当時の平民は荘民と区別された公民を意味した。平安末・鎌倉初期に中世荘園体制が確立すると,荘園の名主(みようしゆ)百姓が平民と呼ばれ,荘田を分割・編成した名田も〈平民名(へいみんみよう)〉と称せられた例がある。これに対して,平民である名主百姓の負担する年貢・公事(くじ)等を免除される特権を有し,諸種の職能をもって本所(ほんじよ)に奉仕する〈職人〉は平民と異なる身分とされ,また在地領主や有力名主に人身的に隷属した下人・所従ら非自由民も,平民とはみなされなかった。…
…日本の中世後期,名田畠の寄進・売買などの際,その名田畠に賦課されている年貢,公事(くじ)などの公租を,譲渡者が負担することを契約した田畠。荘園制下の田畠に対する賦課は名を単位とし,名主が徴税責任者として名内の田畠の公租を請け負っていたが,室町時代以降,加地子(かじし),内徳(うちとく)などと呼ばれる名主得分が増大して名主職の分割売買が盛んになると,その公租の負担の有無が問題となり,契約状にそれが記されるようになった。一般的には,譲渡後も被譲渡者が,年貢,公事などを名体制に依拠して名主,名本(みようもと),名代を通しての納入を義務づける契約がなされたが,その譲渡田畠の公租を譲渡者の責任で負担することを契約した〈名抜き〉形態の譲渡形態も多くみられる。…
※「名主」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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