朝日日本歴史人物事典 「藤原忠綱」の解説
藤原忠綱
鎌倉前期の後鳥羽院の近習。父は資綱。同院の北面(院に仕える侍)として仕え,建永1(1206)年には細工所別当となった。朝廷の造営事業を多く請け負うとともに,承久1(1219)年には源実朝暗殺後の対応を講じるため,鎌倉に派遣されて幕府との交渉に当たるなど,後鳥羽上皇の信任を得て多方面に活躍した。しかし,もともと低い家柄の出身でもあり,教養の点でも劣っていたため,一般の貴族からは疎んじられていたらしい。同年に,上皇によって一方的に解官され,すべての権益を失った。
(本郷恵子)
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