朝日日本歴史人物事典 「藤原能盛」の解説
藤原能盛
平安末期の武官。出自不明。保元1(1156)年少監物,壱岐守,安芸守と進む。所領は持たず,国守・預所の得分によって財物を得,致富を行う都の下級貴族である。平清盛家司となり家政,特に財政面を担当し実務官僚として辣腕を振るった。大宰大弐となった平清盛目代として大宰府領の支配を強化し,保元3(1158)年の宇佐神宮式年造営を終えるなど,平家の鎮西支配に尽力。家司としては摂津国八田部郡(兵庫県)の一郡検注(土地調査)を強行し,「能盛図帳」を作り平家一郡の知行とした。清盛の娘平盛子の家司も兼ね,その所領の預所となり,摂関家との交渉役を軸に,平家の摂関家領支配の実務を担当した。また能書の人としてその評価は高い。<参考文献>正木喜三郎『大宰府領の研究』,小松茂美編『日本書蹟大鑑』3巻
(正木喜三郎)
藤原能盛
平安末期の下級貴族。藤原良門の子孫。白河院北面武士藤原盛重の孫。能盛も後白河院北面に近侍。弟兼盛は白河殿(平盛子)領倉預であったが,治承3(1179)年盛子が没すると,これを後白河法皇が領したため,平清盛に憎まれ斬られた。子能兼も後白河院北面に近侍。能盛は滝口・左兵衛尉,左衛門尉兼検非違使尉,出雲守,周防守と進む。後白河法皇の近習として仕え,今様を習い,双六の相手をし,熊野参詣には身近に供奉するなどの親昵さであった。検非違使としては供奉が多く武功はみられず,その本領は周防国・美濃国などの院分国,筑前国怡土荘などの院御領の支配を担当する実務吏僚であった。勅選歌人で知られ,「一品経和歌懐紙」に法師功徳品一首を詠み名を残している。<参考文献>正木喜三郎『大宰府領の研究』
(正木喜三郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報