平安末期の武将。平忠盛の嫡子。白河院の落胤(らくいん)といわれ,母は祇園女御(ぎおんのにようご)の妹とする説が有力。白河院の寵姫であった祇園女御妹が懐妊したまま忠盛に下賜され,生まれたのが清盛という。この生母は清盛生誕の翌々年に病没したらしい。通称〈平相国(へいしようこく)〉〈平禅門(へいぜんもん)〉,またその居所から〈六波羅殿(ろくはらどの)〉〈六波羅入道〉とも呼ばれた。
平忠盛が鳥羽院の近臣として築きあげた武将としての地位,西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに,忠盛死後,平家武士団の首長を継ぐ。1156年(保元1)保元の乱で源義朝とともに後白河天皇方として勝利をおさめ,少納言入道信西(しんぜい)と結んで昇進,59年(平治1)には平治の乱で源義朝を破り,以後は唯一の武門の棟梁として,国家権力の中で〈武(軍事)〉を担当する権門としての地位を確立する。この間,父祖同様肥後,安芸,播磨など西国の国守に任ぜられ,大宰大弐(だざいのだいに)として鎮西(ちんぜい)支配にも乗り出している。平治の乱後は昇進を急速に早め,60年(永暦1)には参議正三位となり,武士として初めて公卿に列した。67年(仁安2)には内大臣正二位から左右大臣を飛び越えて一気に太政大臣従一位の極官に昇る。時に清盛50歳であった。しかし3ヵ月後清盛は官を辞し,翌68年2月病により出家,摂津福原に引退する。しかし,その後も平家一門の総帥として朝廷内にも強い発言力を保持し続けた。法名清蓮,のち静(浄)海。
清盛の昇進にともない,嫡子重盛以下平家一門の人々の官位も昇り,また諸国の知行主(ちぎようしゆ),国守の地位を多く得て,平家は政治的,経済的に圧倒的優位に立つようになった。その権力集中を容易にした方策の一つに婚姻政策がある。一門の人々は政界の有力者とそれぞれ婚姻関係を結んだが,とくに清盛の娘たちは,盛子(せいし)が関白藤原基実(もとざね)の室となり,基実が1166年に24歳で他界したときには,その遺領を室盛子に継がせ,清盛は盛子の後見として実質的に摂関家領を押領してしまった。盛子の妹寛子は基実の子基通(もとみち)の室となったほか,徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいる。安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。また高倉天皇自体,清盛の妻平時子の妹滋子(じし)(建春門院)が後白河院のもとに入って1161年(応保1)に生んだ天皇であった。この時子・滋子姉妹は桓武平氏高棟(たかむね)王系の平時信の子で,堂上公家平家の出であり,また桓武平氏の本宗の流れをくむ家柄である。〈平氏〉としてはこの高棟王系のほうが嫡流で,清盛のような高望(たかもち)王系の武家平家は傍流にすぎなかった。そこで清盛はこの時信一族と婚姻関係を結び,時子を室としたほか,時子の妹たちを重盛,宗盛の室とし,平氏本宗を一族中にとりこんでいったのである。
平氏の勢力伸張は,一門による官位の独占,一門への知行国の集中,荘園の集積という現象をいっそう促進させた。そのことは京都の公家勢力の政治的・経済的基盤を侵食する結果となり,朝廷内外には反平氏の気運がしだいにはぐくまれていった。とくにかつて平家の保護者的立場にあった後白河院とは,清盛の権力集中にともなって対立が深刻化し,1177年(治承1)には院近臣による平家討滅の陰謀が露顕するに至った(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)。これを契機に清盛と院とは鋭い対立を見せ始め,79年6月平盛子が死去すると,その遺領を院が没収し,7月清盛の嫡子重盛死去の際にはその知行国越前を院が奪うに至った。そこで同年11月清盛は大軍を率いて福原から上洛し,後白河院を鳥羽殿に幽閉し,院に近い公家39名の官を解いて親平家派の人々をこれに替えた。ここに名実ともに権力を完全掌握した平氏政権が成立し,以後平氏は禿童(かむろ)を密偵として京中に放つ恐怖政治のもと,〈一門公卿十余人,殿上人三十余人〉〈平家知行の国三十余ヵ国,既に半国に及べり〉と言われる独裁政権が樹立された。しかしこのことは反平氏の気運をいっそう強めることとなり,院,貴族,寺社および在地武士が反平氏という立場で結束し,翌80年5月には以仁(もちひと)王の挙兵,8月には伊豆の源頼朝,9月には木曾の源義仲の挙兵と諸国源氏の蜂起が相ついだ。これに対し清盛は福原遷都,南都焼打ちを敢行してこれに対抗しようとしたが,結果は平氏の孤立化を深めただけであった。そして翌81年閏2月4日,清盛は憂慮のうちに熱病で64歳の生涯を閉じた。
平安時代,伊勢国は東国との海上交通の要地で,安濃津(あのつ),桑名津は東国と往反する船の発着港であった。伊勢に根拠地をもった平家は,父祖以来の伝統として海上への志向性をもっていたと思われる。しかも正盛,忠盛が白河・鳥羽両院政下,海賊を追捕してこれを家人化したり,西国の国守を歴任,また院領を支配したりして,西国およびそこの海民・水軍を基盤とするようになった関係から,いっそう海上交通や日宋貿易に積極的政策をとるようになったといえる。清盛の別業が福原に営まれたのもそうした事情と無関係ではあるまい。清盛はここで大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し,宋船の内海入航を図った。伝承によれば音戸ノ瀬戸(おんどのせと)の開削(あるいは修復)も清盛の事績であるという。また厳島(いつくしま)神社を崇敬したのも,宗教上の問題だけでなく,内海交通・軍事編成と深い関係があったと思われる。西国を基盤とする以上,平家は伊予の河野(こうの)・越智(おち)水軍や肥前松浦(まつら)党に代表される勢力を把握せねばならず,彼らが離反したとき平家の命運も決したといえる。1183年(寿永2)7月の西走以前,平家の中では一度ならず鎮西に移ろうとの話がもちあがっていたが,実際に都落ちしたときは,まず鎮西を目ざしたにもかかわらず同地の在地武士に拒否されて上陸できなかった。また平家一族が滅んだのも結局壇ノ浦の海上においてであった。それは清盛亡きあとも海民の首領であるべき平家の皮肉な末路であった。
→平氏政権
執筆者:飯田 悠紀子
《平家物語》によると,清盛が犯した数多くの〈悪業〉のうち最も象徴的なものは,後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉し,大臣以下多くの公卿を流罪に処したこと,南都の東大寺,興福寺を重衡に命じて焼亡させたことであろう。古代王権の秩序を支える理念が王法と仏法にあるとすれば,清盛の行為は,まさに古代王権を根底から覆し,乱逆(らんげき)の世の到来を告げたことになる。またそれは,武士を担い手とする新しい政治体制に道を開いたことをも意味する。清盛は単なる悪業深い人として処理できない,歴史の転換期における必要悪のようなものを体現している。〈あっち死〉という無残な死は,清盛の犯した〈悪業〉の当然の報いでもあるが,死に臨んでみずからの生涯をふり返り,まったく後悔するところがないと言い放つ,その態度は,頼朝の首を墓前に供える以外は,堂塔の建立も,仏事供養もすべからずとのことばとともに,不遜ではあるが,転換期を身をもって生きた人間のみが発することのできる威厳にみちている。また,〈経島築造説話〉〈慈恵僧正再誕説話〉〈白河法皇落胤説話〉は,後の増補といわれる部分であるが,これらの説話には,清盛が熱心な法華信仰者であり,只人ではない点が強調されており,〈悪業〉深い清盛の評価を払拭している。これは,《平家物語》の伝承者や享受者が清盛に寄せる親愛感の現れであり,鎮魂の思いでもある。
執筆者:岩崎 武夫
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平安末期の武将。平忠盛(ただもり)の嫡男、実は白河(しらかわ)院の落胤(らくいん)といわれる。母は祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹とする説が有力。元永(げんえい)元年誕生。祖父正盛、父忠盛が院近臣・受領(ずりょう)として蓄えた政治力・財力を背景に政界に台頭し、太政(だいじょう)大臣従(じゅ)一位まで昇進。軍事権門として政治権力を掌握し平氏政権を現出した。通称平相国(へいしょうこく)、六波羅殿(ろくはらどの)、入道相国、六波羅入道。法号清蓮、のち静(浄)海(じょうかい)。
[飯田悠紀子]
1153年(仁平3)父忠盛の死没後、平家一門を率い武門棟梁(ぶもんのとうりょう)の一人として鳥羽(とば)院に仕える。56年(保元1)鳥羽院の死を契機に起こった保元(ほうげん)の乱では、畿内(きない)近国・西国(さいごく)の武士を率いて後白河(ごしらかわ)天皇方にくみし、勝利を収めた。少納言(しょうなごん)入道信西(しんぜい)と結んだ清盛は、以後権力伸張に意欲をみせ、59年(平治1)平治(へいじ)の乱では源義朝(よしとも)を破り、軍事権門としての地位を確立。ここに武家政権樹立への端緒を開いた。こののち清盛の官位昇進は目覚ましく、60年(永暦1)参議正三位(しょうさんみ)となり、武家出身として初めて公卿(くぎょう)に列した。67年(仁安2)にはついに太政大臣従一位の地位を得る。ときに清盛50歳。翌年病により出家、以後摂津(せっつ)福原(神戸市兵庫区)に引退するが、その後も一門の総帥として隠然たる勢力を保持し続けた。
この間、清盛は摂関家への接近を図り、娘盛子を関白藤原基実(もとざね)の室としている。基実が1166年に病死すると、その遺領を盛子に継がせ、実質的に摂関家領を押領(おうりょう)することに成功。その後、盛子の妹寛子を基実の子基通(もとみち)の室とした。皇室関係では、妻時子の妹滋子(しげこ)(建春門院(けんしゅんもんいん))を後白河院にいれ、所生の皇子高倉(たかくら)天皇のもとへは娘徳子(とくこ)(建礼門院(けんれいもんいん))を入内(じゅだい)させた。1180年(治承4)徳子所生の皇子が即位(安徳(あんとく)天皇)するに及び、清盛は天皇外祖父の地位を獲得。かつて院政を支える支柱として政界に台頭してきた平氏は、いまや政治権力そのものへと転化しつつあった。
[飯田悠紀子]
清盛およびその一門の繁栄は、朝廷内の官位独占、知行(ちぎょう)国や荘園(しょうえん)の集積という現象をもたらし、そのことがまた平氏一門の勢力伸張をいっそう促進させた。このような政治的・経済的基盤は、院・貴族に代表される旧勢力の基盤でもあった。そのため、平氏の進出によって旧勢力と平氏との間には対立摩擦が生じ始めた。1177年(治承1)の鹿ヶ谷(ししがたに)事件は、そうした対立が表面化した最初の事件である。これは院近臣による平氏倒滅の陰謀が露顕したものであるが、これには後白河院自身も荷担していると噂(うわさ)された。ついで79年6月に盛子が死ぬと、その遺領を院が没収、7月清盛嫡子重盛(しげもり)病死に際しては、その知行国を院が奪取するなど、後白河院の平氏への弾圧が強まった。同年11月清盛はついに福原を発して上洛(じょうらく)、院を幽閉してクーデターを敢行、反平氏と思われる貴族の政界からの駆逐を図った。ここに平氏は名実ともに政権を完全掌握することになる。
しかし反平氏勢力の結集は寺院を核に進められ、しかも平氏政権本来の基盤であったはずの地方在地武士までがこれに加わり、1180年には以仁(もちひと)王の挙兵、ついで源頼朝(よりとも)・同義仲(よしなか)以下の挙兵が続いた。これに対し清盛は、福原遷都、南都焼打ちで対抗しようとしたが、かえって旧勢力の反感を買い、仏敵の汚名を着せられて孤立化を深めた。全国が内乱状態に陥るなかで、翌治承(じしょう)5年閏(うるう)2月4日、清盛は熱病に冒され、事態を憂慮しながら64歳の生涯を閉じた。
[飯田悠紀子]
『平家物語』は、信仰心厚く、主に忠、親に孝を尽くす善の象徴として平重盛を描き出している。一方清盛はその重盛と対照的な人物として描かれており、その印象が強く人々の心をとらえている。しかし重盛も清盛も、当時を生きた武将の一人として、本質的には同じ生き方をしていたことは、史実をたどってみればわかるところである。
父忠盛と同様、対宋(そう)貿易に熱心であった清盛は、摂津大輪田泊(おおわだのとまり)を修築して宋船がここまで入れるようにし、また伝説では安芸(あき)の音戸(おんど)ノ瀬戸を開いたともいわれる。父祖以来、瀬戸内の海民の組織化に熱心であった平氏の一族として、清盛もその意識は海に向かって開かれていたと思われる。また仏法に厚く帰依(きえ)していたが、南都焼打ちに象徴されるように、僧や寺社に対しては断固たる態度をとりうる人物でもあった。その意味では当時の自由人の一人であったととらえることができる。しかし、あるいはそうであるからこそ、中世武家政権の担い手としては、浪漫(ろうまん)的でありすぎたということもできよう。
[飯田悠紀子]
『村井康彦著『平家物語の世界』(1973・徳間書店)』▽『上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実』(1973・講談社)』
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(上横手雅敬)
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1118~81.閏2.4
平安末期の武将。忠盛の嫡子。実父を白河上皇とする説もある。母は祇園女御の妹といわれる。六波羅殿・六波羅入道・平相国・平禅門とも称する。1129年(大治4)従五位下・左兵衛佐,46年(久安2)に安芸守。56年(保元元)保元の乱では後白河天皇方として一族を率いて活躍し,その功により播磨守となる。59年(平治元)平治の乱で源義朝を破り,確固とした地位を獲得。乱後,平氏一門の官位は急速に上昇した。60年(永暦元)武士としてはじめて参議となり,67年(仁安2)には従一位太政大臣。翌年出家し摂津国福原(現,神戸市兵庫区)に引退したが,平氏政権の中核として権力を掌握し続けた。72年(承安2)には女徳子を高倉天皇の中宮とするなど,摂関家をはじめ朝廷内の有力貴族との婚姻政策を進めた。77年(治承元)反平氏勢力による鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀が発覚,79年に後白河上皇を幽閉し院政を停止した。翌年,外孫の安徳天皇を即位させて独裁政権を樹立したが,同年以仁王(もちひとおう)が挙兵したことに衝撃をうけ,福原遷都を強行。以仁王の令旨をえた源頼朝ら反平氏勢力が挙兵するなか病死。日宋貿易に注目し,摂津国大輪田泊(おおわだのとまり)(現,神戸港の古名)を修築した。
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…12世紀ころ諸国で一宮が指定されたが,安芸国一宮は厳島神社であった。保元の乱前後のころ平清盛と弟2人があいついで安芸守となったが,そのあと安芸国は平氏の知行国となった可能性が濃い。清盛が中央で急速に昇進を重ね太政大臣に任ぜられるが,彼は厳島神社を熱烈に崇敬し,平氏一族や上級貴族さらには後白河法皇や高倉上皇も厳島社参を行った。…
…831年(天長8)には造大輪田泊使の任期を6年と定めて中央政府の直轄にしたが,修理料の徴収法は時代により変化し,853年(仁寿3)には所管を摂津国に復した。平清盛は大輪田泊を九州の博多にかわる日宋貿易の基地にしようと企て,ほど近い福原荘に山荘をかまえて本格的改修に着手,1173年(承安3)には経島(きようのしま)を築き,80年(治承4)には諸国雑物運上船の梶取水主に夫役を命じて石椋(いしくら)を修造し,また河内,摂津,和泉および山陽・南海道諸国より田1丁,畠2丁ごとに各1人の夫役を徴して大々的な改修に着手した。その結果,宋船が入港できるようになったが,平氏の没落後まもなく荒廃し,俊乗房重源(ちようげん)がその修理を願うほどになっていた。…
…秒速2.5mを超す激しい潮流は,舟唄にも〈船頭かわいや音戸の瀬戸で一丈五尺の櫓がしわる〉とうたわれた。もと地峡であった所を,平清盛が本拠地福原の大輪田泊(兵庫港)から厳島神社に至るために開削したものといわれる。島と本土とは小型渡し船で結ばれていたが,1961年瀬戸をまたぐ音戸大橋(全長172m)が架けられた。…
…賜姓平氏のうち桓武天皇の皇子・皇孫に系譜をもつものの称(図)。桓武平氏に葛原(かつらはら)親王流・万多(まんだ)親王流・仲野親王流・賀陽(かや)親王流などがあり,さらに葛原親王流も高棟(たかむね)王流と高望(たかもち)王流とに分かれる。しかし,一般にはこれらの諸流のうちとくに高望王流の平氏を桓武平氏という場合が多い。
[東国の諸平氏]
葛原親王の子高見王(高棟王の弟)の子が高望王で,彼は889年(寛平1)8月に平姓を与えられ,上総介になったことから,その子孫が東国地方に繁衍(はんえん)する基が開かれた。…
…準拾イ物。平清盛は忠盛の実子でなく,白河院の皇子だという人がある。東山の祇園に,白河院がいつも訪れる女が居り,人々は祇園女御と呼んでいた。…
… 一方,大陸へは当初は難波津を出発地とし,九州の坊津を経て向かっていたが,都が平安京に移ってからは大輪田から出るようになった。しかし,大輪田は泊程度の機能しかもっておらず,12世紀,平清盛はこの地を大陸との交易の拠点としての津にすべく,経ヶ島(その名は石の前面に一切経の経文を書いて沈めたことにちなむという)築島による大輪田修築を行い,その一方,政治,経済の中心地との直結をはかり,背後の福原に都を移そうとしたのである。一般に貿易港としての津は,他国との交流が繁しい一方,外敵の侵入や雑居の影響を受けやすい欠点があり,このため権威の集中する都宮は津から離れて置かれるのが通例であったことを考えると,福原遷都は短期間ではあったが,清盛の意図は近代の港湾の考え方に近いものであったといえる。…
…平氏は旧来の方針にとらわれずに開国的政策をとり,対外貿易を積極的に進めたため,日本商人が宋へと進出するようになった。すなわち,12世紀後半に平清盛が政権を握ると,彼は大輪田泊(兵庫港)の修築,音戸瀬戸の開削等を行い,大船の瀬戸内海の航行・停泊の便宜をはかっている。一方では日宋関係の促進も従来の慣習にとらわれずに推し進めた。…
…また,花山天皇の頭痛は前世の時のどくろが岩の間にあって雨でふくらむ岩に圧迫されるためと陰陽師安倍晴明が占い,それを探し出して岩から取り除いたら頭痛は治った(《古事談》)。平清盛は内庭に多数のされこうべが集まって14,15丈もある巨大などくろと化したものとにらみ合い,これを退散させている(《平家物語》)。 どくろが生前の姿にもどって恩人と話をするばかりでなく,どくろ自体が口をきく話もある。…
…それは日本の朝廷が10世紀以降対外関係に消極的になり,日本人の海外渡航を禁止していたからである。しかし12世紀後半に武士階級出身の平清盛が政権を握ると,対外貿易を積極的に奨励する政策をとったため,日本人で宋へ渡航するものがでてきた。清盛はまず大輪田泊(兵庫港)の修築,音戸ノ瀬戸の開削などによって大船の瀬戸内海航行の便宜をはかった。…
…道長は晩年の8年間を出家の身で過ごしたが,その間の法成寺造営などのことを記した諸書は,多く道長を入道と呼んでいる。しかし,入道の名でだれもがすぐに思い浮かべるのは《平家物語》の平清盛に違いない。清盛は51歳で入道してからも六波羅政権の中心として活動し,専権の限りを尽くして平氏一門の急速な没落の原因をつくった。…
…院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。義朝ははじめ信西に接近しようとしたが,清盛が巧みに信西に近づいて権勢を高めてきたので,信頼と相結び,ここに信西・清盛と信頼・義朝の二つの政治勢力がはげしく対立する情勢が生じた。…
※「平清盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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