朝日日本歴史人物事典 「蘇我堅塩媛」の解説
蘇我堅塩媛
6世紀後半,欽明天皇の妃。蘇我稲目の娘。妃となって用明・推古天皇ら7男6女を生む。皇太夫人,岐(支)多斯比売とも。推古20(612)年,改めて夫欽明天皇の檜隈坂合陵に合葬された。改葬の日,軽の術(橿原市大軽)において壮大に誄の儀式が行われ,霊にささげられた。同28年には葺石などで陵が飾りつけられている。この檜隈坂合陵は,従来は高市郡明日香村平田の梅山古墳に比定されていたが,昨今は,橿原市の巨大な見瀬丸山古墳に比定する説が有力である。内部には日本最大規模の横穴式石室があり,ふたつの石棺が収められている。古い棺は手前脇に押しやられていて,新しい棺が奥の正面に安置されている。この新しい棺が堅塩媛のものと推定されており,改葬の様子がうかがい知られる。推古天皇が父より母を重視したことの表れであろう。
(明石一紀)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報