用明天皇(読み)ようめいてんのう

精選版 日本国語大辞典 「用明天皇」の意味・読み・例文・類語

ようめい‐てんのう ‥テンワウ【用明天皇】

第三一代の天皇在位五八五‐五八七)。名は橘豊日。欽明天皇第四皇子。母は蘇我稲目の女堅塩媛。この天皇の仏教帰依の可否をめぐって蘇我・物部両豪族の抗争がはじまった。陵ははじめ磐余池上陵であったが、のちに河内磯長原陵(しながのはらのみささぎ)に改葬。五八七年没。

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デジタル大辞泉 「用明天皇」の意味・読み・例文・類語

ようめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【用明天皇】

[?~587]記紀で、第31代天皇。欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父。名は橘豊日たちばなのとよひ物部守屋蘇我馬子対立時代に在位した。

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百科事典マイペディア 「用明天皇」の意味・わかりやすい解説

用明天皇【ようめいてんのう】

《日本書紀》にみえる天皇。和風諡号(しごう)は橘豊日(たちばなのとよひ)天皇,欽明天皇の第4子,母は堅塩(きたし)媛,宮は池辺双槻(いけべのなみつき)宮,陵墓は磐余池上(いわれのいけのえ)陵(のちに河内科長(しなが)陵に改葬)。異母妹穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女皇后にたて,厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らをもうけた。大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)と大連(おおむらじ)物部守屋(もののべのもりや)らとの間で崇仏・排仏論争があった。
→関連項目穴穂部皇子磐余磯長谷

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改訂新版 世界大百科事典 「用明天皇」の意味・わかりやすい解説

用明天皇 (ようめいてんのう)
生没年:?-587

第31代に数えられる天皇。在位585-587年。欽明天皇の第4皇子,母は蘇我稲目の娘堅塩媛。大兄皇子といい,同母兄敏達天皇の死によって585年9月,磐余池辺双槻宮即位。異母妹穴穂部間人皇女を皇后に立て,大臣蘇我馬子,大連物部守屋補佐を受けたが,両氏の抗争の中で587年4月に没した。橘豊日天皇と諡(おくりな)し,大阪府南河内郡の河内磯長原陵に葬る。法隆寺金銅薬師如来像光背銘に,病の天皇が薬師像と寺を造ろうとして成らず,推古天皇と聖徳太子が受けついだことが記されている。皇子に厩戸皇子(聖徳太子)があり,皇女酢香手姫は伊勢斎王となった。

 聖徳太子信仰がひろまるにつれて,仏法の興隆につくした天皇と伝えられるようになり,東北から九州まで各地に太子の父用明天皇の潜幸伝説がある。幸若舞曲《烏帽子折》にとりあげられた貴種流離譚は,近松門左衛門の浄瑠璃《用明天王職人鑑》で脚色を加えられ,広く人々に知られた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「用明天皇」の意味・わかりやすい解説

用明天皇
ようめいてんのう
(?―587)

第31代とされる天皇(在位585~587)。和風諡号(しごう)は橘豊日(たちばなとよひ)天皇。欽明(きんめい)天皇の第四皇子。母は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)で、その第1子。厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の父である。敏達(びだつ)天皇のあと池辺双槻宮(いけべなみつきのみや)で即位し、大臣は蘇我馬子(うまこ)、大連(おおむらじ)は物部守屋(もののべのもりや)。また、葛城(かずらき)広子との間に生まれた酢香手姫(すかてひめ)皇女を伊勢斎王(いせさいおう)とした。異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子(母は蘇我小姉君(おあねのきみ))は、この天皇の即位に不満であったらしく、なにかと物部守屋と結んで蘇我馬子と対立し、政局の混迷を深めた。この対立は、587年(用明天皇2)2月、病を得た天皇が仏教信仰の是非を問うたことから極度に高まり、そのなかで天皇は死んだ。その直後に馬子は守屋とその支持勢力を討ち滅ぼした。陵墓は、大阪府南河内(かわち)郡の磯長原(しながはら)陵。

[門脇禎二]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「用明天皇」の解説

用明天皇
ようめいてんのう

記紀系譜上の第31代天皇。6世紀後半の在位という。大兄(おおえ)皇子・橘豊日(たちばなのとよひ)天皇と称する。欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目(いなめ)の女堅塩媛(きたしひめ)。推古天皇は同母妹。異母妹の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を皇后とし,聖徳太子・来目(くめ)皇子らをもうけた。磐余(いわれ)に池辺双槻(いけのべのなみつき)宮を営んだ。即位翌年の新嘗(にいなめ)の日から病気になり,仏教に帰依することを群臣に協議させた。蘇我馬子(うまこ)は支持したが,物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は,異国の神を祭ることに反対し,激しく対立したという。天皇の病状が重くなったとき,司馬達等(しばたっと)の子鞍部多須奈(くらつくりべのたすな)が出家を申し出,さらに丈六仏と寺の建立を約束し,これが坂田寺であると伝えられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「用明天皇」の解説

用明天皇 ようめいてんのう

?-587 記・紀系譜による第31代天皇。在位585-587。
欽明(きんめい)天皇の第4皇子。母は蘇我堅塩媛(そがの-きたしひめ)。聖徳太子の父。仏法を信じ,神道を尊んだ。病にかかった折,三宝に帰依(きえ)したいと群臣にはなしたことが,大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがの-うまこ)と大連(おおむらじ)物部守屋(もののべの-もりや)との対立を助長した。用明天皇2年4月9日死去。墓所は河内磯長原陵(かわちのしながのはらのみささぎ)(大阪府太子町)。別名は大兄(おおえの)皇子,橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)。

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朝日日本歴史人物事典 「用明天皇」の解説

用明天皇

没年:用明2.4.9(587.5.21)
生年:生年不詳
6世紀の天皇。欽明天皇と堅塩媛の子。橘豊日尊,大兄皇子,池辺皇子(天皇)とも称する。聖徳太子(厩戸皇子)はその子。推古天皇の同母兄。池辺双槻宮(桜井市)に居住。この宮の南の上殿に厩戸皇子を住まわせ上宮 と称した。欽明天皇の娘で異母妹の穴穂部間人皇女を皇后とした。王族内で,はじめて仏教の受容を宣言した仏教信者だが短命であった。当初は磐余池上陵に葬られたが,推古1(593)年に河内磯長原陵へ改葬された。大阪府太子町春日にある春日向山古墳に比定される。『古事記』は没日を4月15日としている。

(仁藤敦史)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「用明天皇」の意味・わかりやすい解説

用明天皇
ようめいてんのう

[生]?
[没]用明2(587).4.9.
第 31代の天皇 (在位 585~587) 。欽明天皇の第4皇子。母は蘇我稲目の娘堅塩 (きたし) 媛。名,橘豊日尊 (たちばなのとよひのみこと) 。大和磐余池辺雙槻宮 (いわれいけのべのなみつきのみや) に都した。穴穂部間人 (はしひと) 皇女を立てて皇后とし,聖徳太子をもうけた。在位は2年で短く,仏教問題で大連物部守屋,大臣蘇我馬子の対立が激しくなっていった。陵墓は大阪府南河内郡太子町の河内磯長原陵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「用明天皇」の解説

用明天皇
ようめいてんのう

?〜587
6世紀後期の天皇(在位585〜587)
欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。聖徳太子の父。仏教公伝以降蘇我馬子と物部守屋が対立していたが,天皇は仏教に帰依し,馬子に接近した。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「用明天皇」の解説

用明天皇
(通称)
ようめいてんのう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
用明天王職人鑑
初演
寛政1.10(大坂・中山座)

用明天皇
ようめいてんのう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
享保4.11(江戸城二の丸)

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