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蘇我稲目 そがのいなめ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蘇我稲目
そがのいなめ

[生]武烈8(506)
[没]欽明31(570).3.1. 大和
古代の中央豪族。高麗 (こま) の子という。馬子の父。娘の堅塩媛 (きたしひめ) ,小姉君を欽明天皇の后妃として,用明,崇峻,推古の3天皇の外祖父となる。宣化天皇のとき,大臣 (おおおみ) となり,没するまでこの地位にあった。欽明天皇のときの仏教伝来に際しては,排仏派の大連 (おおむらじ) 物部尾輿 (おこし) らの反対を押え,家に仏像を安置して向原の家を寺とした。のち,疫病が起ると,排仏派によって寺は焼かれ,仏像は難波の堀江に捨てられた。欽明 16 (555) 年,同 17年白猪屯倉 (みやけ) など皇室直轄地の設置にも力があった。

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百科事典マイペディアの解説

蘇我稲目【そがのいなめ】

蘇我高麗(こま)の子。大臣(おおおみ)として国政を統轄。仏教が伝来すると,物部尾輿(もののべのおこし)らに抗して崇仏(すうぶつ)を説いた。娘を欽明・用明両天皇の妃にし皇室との姻戚(いんせき)関係から勢力を得た。
→関連項目蘇我馬子物部尾輿

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蘇我稲目 そがの-いなめ

?-570 6世紀の豪族。
蘇我馬子の父。宣化朝と欽明(きんめい)朝の大臣(おおおみ)をつとめる。娘の堅塩媛(きたしひめ),小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の妃とし,蘇我氏繁栄の基盤をきずく。欽明天皇13年(552)百済(くだら)(朝鮮)から仏像と経論が献じられたとき,排仏派の物部尾輿(もののべの-おこし)らの反対をおしきって仏教をうけいれた。欽明天皇31年3月1日死去。名は伊奈米,伊那米とも。

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朝日日本歴史人物事典の解説

蘇我稲目

没年:欽明31.3.1(570.3.22)
生年:生年不詳
宣化・欽明朝の大臣。伊奈米,伊那米とも書く。韓子の孫。高麗の子。馬子,堅塩媛,小姉君,石寸名の父。用明・崇峻・推古天皇外祖父。宣化1(536)年,大臣に任命され,欽明天皇の即位時にも大臣に再任される。娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とするが,それぞれが推古,用明天皇などの7男6女,崇峻天皇,穴穂部皇子など4男1女をもうけて蘇我系王族の育成に成功する。欽明7年戊午(戊午は538年,日本書紀では宣伝3年に当たる),百済の聖明王から仏像,経論が献上されると,仏像を小墾田家に安置し,向原家を寺として積極的な受容の意志を示した。そのため仏教を排除しようとする物部氏や中臣氏と対立,疫病の流行を口実に仏像は難波の堀江へ捨てられ,寺も焼かれた。一方,渡来人を利用して,吉備の白猪屯倉(岡山県落合町)や児島屯倉(岡山市)の戸籍を整備するなど,大和政権の全国支配の強化にも努めた。欽明23年,半島から帰国した大伴狭手彦が献上したふたりの女性を妻とし軽曲殿(桜井市)に侍らせたとある。なお,『元興寺縁起』は没年を己丑年(欽明30年,569)とする。

(仁藤敦史)

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世界大百科事典 第2版の解説

そがのいなめ【蘇我稲目】

?‐570(欽明31)
大和国家の大臣(おおおみ)蘇我高麗の子,馬子の父。名は伊奈米,伊那米とも記される。6世紀中葉の大和国家の動揺期に,蘇我氏の基盤に含まれる大和盆地南西部で養育された勾(まがり)皇子(安閑天皇),高田皇子(宣化天皇)を擁立し,前者を勾金橋宮に,後者を檜隈廬入野宮(ひのくまいおりのみや)に入らせた。宣化朝とそれにつづく欽明朝の大臣となり,宣化天皇と初めて姻戚関係を結んだらしく,さらに娘の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の大后・后に,石寸名(いしきな)を用明天皇の后とした。

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大辞林 第三版の解説

そがのいなめ【蘇我稲目】

?~570) 宣化・欽明両朝の大臣。蘇我馬子の父。物部尾輿・中臣勝海ら排仏派と対抗し、崇仏を説いて自邸に仏像を安置、向原むくはら寺と号した。また、皇室と姻戚関係を結び、蘇我氏繁栄の礎を築いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蘇我稲目
そがのいなめ
(?―570)

大和(やまと)国家の大臣。伊奈米、伊那米とも記される。蘇我臣高麗(おみこま)の子。馬子の父。宣化(せんか)・欽明(きんめい)朝の大臣で、彼のあと約1世紀間にわたる蘇我氏繁栄の基礎を築いた。6世紀中葉の大和国家の動揺期に、大和盆地南西部で養育された勾(まがり)皇子(安閑(あんかん)天皇)、高田皇子(宣化天皇)を擁立した。宣化天皇と初めて姻戚(いんせき)関係を結んだらしく、さらに娘の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の大后、后に、石寸名(いしきな)を用明(ようめい)天皇の后とした。政策的には、排仏派の物部尾輿(もののべのおこし)、中臣勝海(なかとみのかつみ)らに抗して、仏像を小治田(おはりだ)の家に安置し、向原(むくはら)の家を寺とした。また、瀬戸内航路の確保に努め、その一環として吉備(きび)五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)を置き児島屯倉には田令を任じた。白猪屯倉では田部の名籍をつくらせたというが、屯倉経営の新方策として注目される。[門脇二]

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世界大百科事典内の蘇我稲目の言及

【寺院】より

…所在の山名を付けた山号は,かつて寺院が山岳にあったなごりとされる。 日本最初の寺院は,蘇我稲目(そがのいなめ)(?‐570)が仏教伝来まもなく,仏像を自邸に安置して向原(むくはら)寺と称したのに始まるという。そののち7世紀,有力氏族がしだいに寺院を建立,624年(推古32)寺院数46を数えたといい,四天王寺式,法隆寺式などと呼ばれる七堂伽藍の堂舎(伽藍配置)を整えた古代寺院が営まれだした。…

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