推古天皇(読み)スイコテンノウ

デジタル大辞泉 「推古天皇」の意味・読み・例文・類語

すいこ‐てんのう〔‐テンワウ〕【推古天皇】

[554~628]第33代天皇在位593~628。欽明天皇の第3皇女。名は豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめ敏達天皇皇后となり、崇峻天皇蘇我馬子そがのうまこに殺されたのちに即位聖徳太子摂政として国政を行った。

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精選版 日本国語大辞典 「推古天皇」の意味・読み・例文・類語

すいこ‐てんのう‥テンワウ【推古天皇】

  1. 第三三代と伝えられる天皇(在位五九二‐六二八)。女帝。欽明天皇の第三皇女。母は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)。名は額田部、豊御食炊屋姫命(とよみけかしきやひめのみこと)敏達天皇の皇后となり、崇峻天皇が蘇我馬子に殺されてから即位。聖徳太子皇太子・摂政として政治を行なった。冠位十二階、十七条憲法、国史の編纂法隆寺の建立などを行ない、百済僧・高句麗僧や遣隋使によって、制度文物を積極的に摂取した。推古三六年(六二八)没。→飛鳥時代

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「推古天皇」の意味・わかりやすい解説

推古天皇
すいこてんのう
(554―628)

女帝。第33代とされる天皇(在位592~628)。名は額田部(ぬかたべ)。和風諡号(しごう)は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇。わが国で最初の女帝。欽明(きんめい)天皇の第3皇女。母は蘇我堅塩姫(そがのきたしひめ)。18歳で敏達(びだつ)天皇の妃となり、皇后広姫が死んだあと、皇后にたったという。敏達天皇のあと推古の同母兄の用明(ようめい)天皇がたったが、治政は2年で終わり、ついでたった崇峻(すしゅん)天皇は大臣蘇我馬子(うまこ)の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に殺された。このあと諸臣に推されて、豊浦宮(とゆらのみや)で即位したという。ときに39歳であった。以後、推古女帝は、厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)として、治政は36年間に及んだという。大臣は蘇我馬子、その死後は蘇我毛人(えみし)(蝦夷)であった。

 しかし、こうした通説に対して、当時の天皇(大王)は厩戸皇子で、推古女帝は厩戸皇子の没後の622~623年ごろに即位したのではないかとの説もある。その論拠は、日本からの遣隋使(けんずいし)がその大王を男帝といったこと、当時女帝の際にはなかった伊勢斎王(いせさいおう)に622年まで酢香手姫(すかてひめ)皇女が在任したことなどである。推古女帝は死の病床で、次の天皇(大王)位をめぐって、田村(たむら)(後の舒明(じょめい)天皇)、山背(やましろ)(聖徳太子の子)両皇子に行動を自重するように遺言したといわれる。陵墓は大阪府南河内(みなみかわち)郡の磯長(しなが)山田陵。

[門脇禎二]

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改訂新版 世界大百科事典 「推古天皇」の意味・わかりやすい解説

推古天皇 (すいこてんのう)
生没年:554-628

6世紀末~7世紀初の天皇。第33代に数えられる日本最初の女帝。在位592-628年。幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といい,和風諡号(しごう)は豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)天皇。小治田(おはりだ)大宮治天下天皇などともいう。欽明天皇の皇女で母は大臣(おおおみ)蘇我稲目の女の堅塩媛(きたしひめ)。《日本書紀》によれば576年(敏達5)敏達天皇の皇后となり,菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,竹田皇子など2男5女を生んだ。天皇の死後も,用明・崇峻両朝にかけて政治的にきわめて重要な地位を占めていたらしい。大臣蘇我馬子が587年(用明2)に大連(おおむらじ)物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立し,さらに592年(崇峻5)自分が立てた崇峻天皇を暗殺すると,その年の末に推古天皇を即位させて,女帝の例を開いた。天皇は初め飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)におり,のち小治田宮に移ったが,即位の翌593年(推古1)4月に甥の聖徳太子(用明天皇皇子)を摂政として,これに万機をゆだねた。この太子の執政をもって,蘇我氏に対抗して皇室の主導権を回復するためにとられた方策とする見方が広く行われているが,この時点はまさに蘇我氏権力がその最盛期に達したときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,天皇も太子もその蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。天皇の治世は,大陸では隋帝国が南北朝を統一して,東アジアに重大な脅威を与えるようになり,朝鮮半島では新羅が国力を強化して,日本のいわゆる任那復興の政策をますます困難にしつつあったが,国内では冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,天皇記,国記以下の国史の編纂などの注目すべき政策が行われ,また飛鳥文化と呼ばれる仏教的色彩の濃い高度な貴族文化が,この時期から大和の飛鳥地方を中心に展開しはじめたことが特徴的である。622年に太子が世を去ると,その後は天皇がみずから政治をみたと思われるが,やがて626年に馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となり,ついで628年3月に天皇が後継者を明確に定めることなく,75歳で世を去った。竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたが,のち河内の磯長山田(しながのやまだ)陵に移された。
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百科事典マイペディア 「推古天皇」の意味・わかりやすい解説

推古天皇【すいこてんのう】

古代の天皇。最初の女帝。欽明天皇の皇女。母は蘇我堅塩媛(きたしひめ)。敏達(びだつ)天皇の皇后となる。592年崇峻(すしゅん)天皇蘇我馬子に殺されると蘇我氏の出として擁立されて即位し,628年まで在位。甥(おい)聖徳太子摂政とした。太子はその治世下にあって多くの事績を残した。
→関連項目飛鳥時代穴穂部皇子小墾田宮栗隈磯長谷舒明天皇山背大兄王依網池・依網屯倉

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朝日日本歴史人物事典 「推古天皇」の解説

推古天皇

没年:推古36.3.7(628.4.15)
生年:欽明15(554)
飛鳥時代の女帝。在位は崇峻5(592)年12月から推古36(628)年3月。幼名は額田部皇女。欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛の間の皇女。豊御食炊屋姫天皇とも。用明天皇の同母妹,18歳で異母兄敏達天皇と結婚,皇后(大后)広姫の死後皇后となり2男5女を生む。32歳のとき敏達が死去,その殯宮で皇位をねらう穴穂部皇子が推古を犯そうとする事件が起こった。この事件は皇位継承に関して先王の大后が力を持っていたことを示す。以後用明,崇峻と蘇我氏を外戚とする天皇が続くが,穴穂部と結んだ物部守屋が蘇我馬子に滅され,次いで馬子と対立した崇峻が暗殺されて政治的危機が生じると,39歳の推古は馬子に推され豊浦宮で即位。女帝の確実な最初の例である。宮はのち,小墾田に移される。 崇峻2(589)年隋が中国を統一し,東アジア諸国は隋・唐中心の新たな秩序に組み込まれようとしていた。推古,馬子,聖徳太子らは内政面では推古11(603)年の冠位十二階制・翌12年憲法十七条の制定,『天皇記』『国記』の編纂などを通じ,大王への権力の一元的集中をめざす新たな官司制の創出を計った。一方外交面では6世紀以来の新羅との紛争を引きずりつつ,百済僧観勒や高句麗僧曇徴に代表される朝鮮文化・技術を導入,また推古8年,15年,16年などに遣隋使留学生を派遣して中国との直接外交,中国文化の導入を計った。さらに蘇我氏や聖徳太子は仏教を積極的に保護し,法興寺,四天王寺,法隆寺などを建立。飛鳥文化が開花,その一方僧尼統制のための僧綱制も開始された。この時期の蘇我氏は歴代大王の外戚として,堅塩媛改葬に象徴される巨大な権力を有していた。しかし祖先の地として大王家の葛城県を馬子が要求したとき拒否したように,推古は大王家の長として行動している。75歳で推古が死去したとき,聖徳太子ら推古の後継者はすでに亡くなっていた。そのため次の大王についての推古の遺詔をめぐり,豪族間の対立が起こっている。推古はその希望によって息子竹田皇子の墓に合葬されたが,のちに磯長に改葬された。

(西野悠紀子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「推古天皇」の意味・わかりやすい解説

推古天皇
すいこてんのう

[生]欽明15(554).大和
[没]推古36(628).3.7. 大和
第 33代の天皇,女帝 (在位 592~628) 。欽明天皇の第3皇女,母は蘇我稲目の娘,皇太夫人堅塩媛 (きたしひめ) 。用明天皇と同母の妹で,名は幼少時は額田部,のち豊御食炊屋姫尊 (とよみけかしきやひめのみこと) 。敏達5 (576) 年敏達天皇の皇后となったが,同 14年天皇を失い,さらに蘇我馬子のために崇峻天皇が殺されたのち,擁立されて崇峻5 (592) 年 12月豊浦宮で即位し,のち大和小墾田に移り,小墾田宮に都した。甥の聖徳太子を立てて皇太子,摂政とし,治世中,太子を中心として冠位十二階の設定,『十七条憲法』の制定,暦の使用,『天皇記』『国記』などの編纂,遣隋使の派遣などが行われた。推古 20 (612) 年,女帝の母である堅塩媛命の檜隈陵への改葬が行われている。女帝は厚葬することを禁じる旨遺詔して没した。陵墓は大阪府南河内郡太子町の磯長 (しなが) 山田陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「推古天皇」の解説

推古天皇
すいこてんのう

554~628.3.7

在位592.12.8~628.3.7

記紀系譜上の第33代天皇。額田部皇女・豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇と称する。欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目(いなめ)の女堅塩媛(きたしひめ)。用明天皇の同母妹。異母兄の敏達(びだつ)天皇の皇后となり,竹田皇子らをうんだ。592年異母弟の崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子(うまこ)に殺された後をうけ,最初の女帝として即位。甥の聖徳太子や馬子を政治の中枢にすえ,中国の隋との国交を開くとともに,冠位十二階や憲法十七条を制定,それに対応する宮廷の制度・儀礼の整備につとめた。この時期に「天皇記」「国記(こっき)」などの史書の編修も行われ,飛鳥寺(法興寺)・斑鳩(いかるが)寺(法隆寺)なども造営されて,仏教を中心とする飛鳥文化が開花した。また法隆寺の建設にも関与した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「推古天皇」の解説

推古天皇 すいこてんのう

554-628 飛鳥(あすか)時代,第33代天皇。在位593*-628。
欽明(きんめい)天皇15年生まれ。欽明天皇の第2皇女。母は蘇我堅塩媛(そがの-きたしひめ)。用明天皇の同母妹。敏達(びだつ)天皇の皇后。わが国初の女帝。聖徳太子を皇太子,摂政とする。仏教の興隆をはかり,「天皇記」や「国記」をつくらせた。冠位十二階や十七条憲法を制定し,小野妹子(いもこ)を隋(ずい)(中国)に派遣した。推古天皇36年3月7日死去。75歳。墓所は磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)(大阪府太子町)。別名は額田部(ぬかたべの)皇女,豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「推古天皇」の解説

推古天皇
すいこてんのう

554〜628
6〜7世紀前期の女帝(在位592〜628)
欽明天皇の皇女,母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。敏達 (びたつ) 天皇の皇后となり,592年崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのち最初の女帝として即位。甥の聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行った。その治世には冠位十二階,憲法十七条,国史の編纂,法隆寺の建立などがあり,文化史上飛鳥時代と呼ばれる一時代を築いた。

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世界大百科事典(旧版)内の推古天皇の言及

【小墾田宮】より

…603年(推古11)10月,推古天皇は,豊浦宮より小墾田宮に移る。そして,628年(推古36)3月に没するまでの間,この小墾田宮が推古朝政治の舞台となった。…

【女帝】より

…女性の帝王をいう。日本では592年(崇峻5)に即位したと伝えられる推古天皇が,存在確実な最初である。それ以前では,《三国志》魏志倭人伝に,2世紀末から3世紀後半まで女王卑弥呼(ひみこ)と台(壱)与(とよ)とが倭の邪馬台国を支配したとある。…

※「推古天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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