蜷川庄(読み)いながわのしよう

日本歴史地名大系 「蜷川庄」の解説

蜷川庄
いながわのしよう

現在の会津坂下あいづばんげ町、柳津やないづ(西山地区を除く)、耶麻郡西会津(阿賀川以南)、同郡高郷たかさと(阿賀川以南)にあった庄園で、稲川庄とも記される。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)の請所のうちに「同国 蜷河庄 冷泉宮領内」とあり、一一世紀末頃に、三条天皇皇女子内親王(冷泉宮)の庄園として成立したと思われる。子内親王は大納言信家室となり、蜷川庄は藤原師実の妻麗子子内親王養女)を経て知足院藤原忠実に譲られて摂関家領となり、その子忠通・基実・基通・家実・兼経(近衛家)に伝わった(会津若松史)。建武三年(一三三六)四月二五日の沙弥某預ケ状(遠藤白川文書)では、将軍足利尊氏の命を受けて「会津稲河庄矢目村事」を石川氏一族の蒲田五郎太郎兼光に預けている。同年七月二八日の沙弥某預ケ状(合編白河石川文書)では「会津蜷河庄野沢村半分」がやはり石川氏一族の小平光俊に預けられている。貞和三年(一三四七)八月日の真壁政代薄国着到状(真壁文書)によれば、「摩訶部小太郎政本」(真壁政は「会津蜷河庄勝方村地頭」であり、北朝方の石塔義房に属して、伊達郡藤田ふじた(現国見町)河股かわまた(現川俣町)で戦っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android