朝日日本歴史人物事典 「長崎光綱」の解説
長崎光綱
鎌倉後期の得宗被官。内管領・平頼綱の兄弟,または従兄弟。左衛門尉。居所は泉谷であろう。正応4(1291)年,鎌倉幕府奉行人および五方引付を指揮する立場の5人のうち3位に位している。6年,平頼綱が北条貞時に滅ぼされた際は貞時方につき,頼綱の後継の内管領に就いたとみられ,同年に山内新阿弥陀堂の供僧を安堵している。以後,乾元2(1303)年ごろまでその地位にあったとみられる。徳治2(1307)年の鎌倉・和賀江津の管理責任者。得宗へ取り次いだことのなかには同3年の「平政連諫草」(幕府官僚平政連の提出した諫状)があり,貞時の側近であった。<参考文献>細川重男「内管領長崎氏の基礎的研究」(『日本歴史』479号)
(福島金治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報