北条貞時(読み)ホウジョウサダトキ

デジタル大辞泉 「北条貞時」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐さだとき〔ホウデウ‐〕【北条貞時】

[1271~1311]鎌倉幕府武将。第9代執権北条時宗の子。父の死により、14歳で執権に就任。当時、伯父の安達泰盛が権勢を振るっていたが、内管領に就いた平頼綱がこれを排除。その後、専制体制を敷いた頼綱を討伐し、自ら実権を掌握した。

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朝日日本歴史人物事典 「北条貞時」の解説

北条貞時

没年:応長1.10.26(1311.12.6)
生年:文永8(1271)
鎌倉後期の幕府の9代執権。北条時宗と安達義景(あるいは安達泰盛)の娘の子。幼名幸寿丸。弘安7(1284)年父の死後14歳で執権に就任。このころ評定衆外様御家人に支持されていた外戚の安達泰盛と,北条氏家督(得宗)被官(御内人)勢力を代表する内管領(北条氏の家宰)平頼綱とが対立していたが,同8年11月,頼綱は幼い貞時を奉じて泰盛を滅ぼし(霜月騒動),以後頼綱の専権時代が続いた。しかし,永仁1(1293)年4月,23歳に達した貞時は頼綱を誅して幕政の実権を握り,霜月騒動で失脚した金沢顕時らを復帰させ,北条一門以下御内人・外様御家人統制に力を注いで得宗を頂点とする強力な支配体制を形成した。貞宗はまず,同年10月引付を廃し,引付頭人にかえて執奏を置き,貞時が裁判を直断することとした。2年後引付を復活したが,得宗の権限は前より一段と強化され,また評定衆の会議にかえて,幕政の重事は得宗を中心とし特定のメンバーで構成される寄合衆の会議で決定されるようになった。いわゆる得宗専制政治である。貞時の政治の根幹は御家人制の維持で,そのもっとも代表的な政策が永仁5年の徳政令であった。これは窮乏化しつつあった御家人の保護・救済を目的とするものであったが,一方正安2(1300)年には越訴(度を超えた再審請求)を禁止するなど御家人統制の強化にも努めている。翌年8月出家して(法名崇暁,のち崇演),執権職を聟の師時に譲ったが,その後も得宗として幕政の実権を握っていた。墓所は円覚寺仏日庵。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』上,佐藤進一「鎌倉幕府政治の専制化について」(『日本中世史論集』),奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』

(新田英治)

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改訂新版 世界大百科事典 「北条貞時」の意味・わかりやすい解説

北条貞時 (ほうじょうさだとき)
生没年:1271-1311(文永8-応長1)

鎌倉幕府の執権。時宗の子,母は安達泰盛の妹。幼名幸寿。1284年(弘安7)父の死により14歳で執権となる。初め安達泰盛の主導によって政治改革が推進されたが,貞時の乳父平頼綱ら得宗被官(御内人)は貞時を動かして85年泰盛派を粛清した(弘安合戦)。以後,内管領平頼綱のもとで御内人(みうちびと)による支配が公然化する。93年(永仁1)貞時は自己の立場を脅かす平頼綱を誅殺平禅門の乱)。貞時は貨幣経済の進展に伴い窮乏化する御家人の保護をはかり97年(永仁5)徳政令を発する一方,引付,越訴方をいったん廃止して独裁権力を行使した。幕制の要職に御内人を浸透させ,一族を全国の守護に配置し,交通の要衝を支配して流通機能を掌握した貞時は,得宗の専制体制を完成させたといえよう。1301年(正安3)執権を女婿北条師時に譲り出家したが(法名崇演,最勝園寺と称す),依然,幕政を指導した。
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百科事典マイペディア 「北条貞時」の意味・わかりやすい解説

北条貞時【ほうじょうさだとき】

鎌倉幕府9代執権。時宗の子。1284年14歳で執権となる。当初平頼綱の専権が続くが,1293年自ら頼綱を誅殺(平禅門の乱)。窮乏化した御家人救済のため1297年徳政令を発布する一方,越訴方(おっそかた)を廃して御家人を統制,一族を守護として全国に配置し,流通機能を掌握するなど,得宗(とくそう)専制体制を確立。1301年執権辞任後も幕政を指導。
→関連項目執権政治

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条貞時」の意味・わかりやすい解説

北条貞時
ほうじょうさだとき
(1271―1311)

鎌倉幕府第9代執権。父は北条時宗(ときむね)。母は安達義景(あだちよしかげ)の女(むすめ)。文永(ぶんえい)8年12月12日生まれ。幼名幸寿。77年(建治3)元服し、84年(弘安7)父の死により若年にして執権となり、88年(正応1)以後評定(ひょうじょう)に出仕した。その間左馬権頭(さまごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)に任ぜられた。85年霜月(しもつき)騒動により外戚(がいせき)安達泰盛(やすもり)が滅亡したのち、内管領(うちかんれい)平頼綱(よりつな)が権勢を振るっていたが、貞時は93年(永仁1)頼綱を誅(ちゅう)して政務を親裁し、97年永仁(えいにん)の徳政令を発布し、越訴(おっそ)(訴訟の再審制)を廃止するなど強力な政策を打ち出した。1301年(正安3)執権を一族の師時(もろとき)に譲り出家した(法名崇暁(すうぎょう)、のち崇演(すうえん))が、得宗(とくそう)(北条氏家督)として政治の実権を掌握した。応長(おうちょう)元年10月26日没した。

[近藤成一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条貞時」の意味・わかりやすい解説

北条貞時
ほうじょうさだとき

[生]文永8(1271).鎌倉
[没]応長1(1311).10.26. 鎌倉
鎌倉幕府の9代執権 (在職 1284~1301) 。相模守。時宗の子。母は安達泰盛の娘。幼名は幸寿。法名は崇演。号は最勝園寺殿。弘安7 (1284) 年7月執権に就任。得宗専制政治の確立を意図して,内管領平頼綱と対立していた外祖父泰盛を排除して安達氏一族を滅ぼし,さらに得宗被官として勢力を伸張していた頼綱をも誅伐した。正安3 (1301) 年執権職を北条師時に譲り出家。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条貞時」の解説

北条貞時 ほうじょう-さだとき

1271-1311 鎌倉時代の武将。
文永8年生まれ。北条時宗(ときむね)の長男。弘安(こうあん)7年9代執権となる。8年安達泰盛を,永仁(えいにん)元年には平頼綱をほろぼして幕政の実権をにぎる。要職に御内人(みうちびと)を配するなど得宗(とくそう)としてその権力をつよめた。5年徳政令を発し御家人の保護をはかった。正安(しょうあん)3年出家。応長元年10月26日死去。41歳。法名は崇暁,崇演。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条貞時」の解説

北条貞時
ほうじょうさだとき

1271~1311.10.26

鎌倉後期の幕府執権。父は時宗,母は安達泰盛の妹(女とする説もある)。1284年(弘安7)時宗の死により執権となる。北条氏の家督である得宗として被官の最有力者平頼綱(よりつな)と,外戚で有力御家人の安達泰盛(やすもり)に支えられ,得宗専制体制を確立した。97年(永仁5)徳政令を発した。1301年(正安3)執権を退き出家。その後も得宗として政務を主導した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条貞時」の解説

北条貞時
ほうじょうさだとき

1271〜1311
鎌倉幕府の9代執権
1284年父時宗の死後,14歳で執権に就任したが,外祖父安達泰盛に頼った。'85年の霜月騒動後,内管領の平頼綱が幕府の実権を握ったが,'93年貞時は頼綱を倒して(平禅門の乱)実権を取り戻し,得宗専制体制を確立させた。'97年,御家人を救済するために永仁の徳政令を出した。

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367日誕生日大事典 「北条貞時」の解説

北条貞時 (ほうじょうさだとき)

生年月日:1271年12月12日
鎌倉時代後期の鎌倉幕府第9代の執権
1311年没

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