長崎町(読み)ながさきまち

日本歴史地名大系 「長崎町」の解説

長崎町
ながさきまち

戦国期に成立した商業都市で、江戸時代は日本で唯一のヨーロッパとの交易地として発展、幕府直轄の湊として重きをなした。その性格は異国・異域と日本を結ぶ境界の地(長崎口)、異国人が往来(または居留)する湊、イエズス会の支配する宗教都市、交易上の特権的な湊市、有力商人による自治的な都市など多様な側面をもつ。長崎市中ともみえる。

〔六ヵ町の創立〕

元亀元年(一五七〇)大村純忠が領内の長崎湊をポルトガルとの貿易港としたことに伴い、諸地域から商人らが集住、同二年にこうした人口増加に対して商人町の造成に着手した。町域は普請以前は草原であったとも(カリオン書簡)、また麦畠とも(長崎剳記)、森林ともいわれる(耶蘇会史)。町割は家臣朝長対馬守が中心で、日野江ひのえ(現北有馬町)城主有馬義直が立会って行われ、島原しまばら町・大村おおむら町・平戸ひらど町・横瀬浦よこせうら町・外浦ほかうら町・分知ぶんち(文知町)の六ヵ町が形成された(大村家秘録・長崎縁起略記)。天正八年(一五八〇)四月大村氏は貿易振興を意図してこの六ヵ町をイエズス会に寄進したことによりイエズス会領となり、保護を加えた。翌年住民相互の仇討ちを契機に教会狼藉事件が起き、イエズス会と町頭人に支配関係がうまれ、これに伴って住民の改宗が強いられたとされる。周囲から要塞と堀で隔てられていたことや、頭人らが教会を尊敬し、今後教会に逃込んだ者の自由と特権を尊重し、暴行者に対して教会およびパードレらを守護すべきことを公に誓うなど、イエズス会領の長崎は自治都市としての側面が強かったが、イエズス会の支配のもとで頭人による組織運営という構造があった。頭人のうち高木勘右衛門は永禄年間(一五五八―七〇)に父康宗とともに長崎に移住したという。後藤惣太郎も同じ頃に長崎に来住したと伝える。近江高島たかしま(現滋賀県高島町)を出自とする高島家は天正元年に一族分散したため氏春と茂春(初代四郎兵衛)は肥前国藤津ふじつ郡に逃れ、同二年に長崎に移住し、頭人の一人に加わったという。

一五八二年二月当時、長崎に布教機関としてカーザが置かれていた。一五八五年長崎にはイエズス会のパードレ四人・イルマン二人が駐在、毎年五〇万クルサドの銀を輸出、生糸・緞子・麝香・黄金などを輸入しており、日本の各地から多数の異教徒が家族とともに来住するが、キリシタンでなければ居住が許されないので、毎年三〇〇人余の受洗者があり、二年前にポルトガル風の慈善院が建てられたという(同年一〇月一日「フロイス書簡」イエズス会日本年報)

長崎町
ながさきまち

[現在地名]小倉北区魚町うおまち三丁目・堺町さかいまち一丁目

堺町の南にある。魚町の南の最初の一丁が長崎町に相当する。古くは「境町長崎町」の辺りは坂尾さかおといわれ、坂尾八幡宮が祀られていたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報