カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。耶蘇(やそ)会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。
イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ,A.サルメロン,S.ロドリゲスとともに,1534年8月15日パリのモンマルトルにおいて〈貞潔・清貧・エルサレム巡礼〉の悲願をたてた。36年同日の誓願更新にあたって,さらに3人の友C.ル・ジェ,J.コデュール,P.ブロエが加わった。彼らは37年6月ころイグナティウスの著書《心霊修行(霊操)》の精神に従って自分たちを〈イエズスの友〉と呼ぶことにし,教皇に従うことを決めた。ベネチアからローマへの途上のこと,ローマ近郊のラ・ストラダ小聖堂でイグナティウスは,生涯で最も決定的な神的直観〈イエズスの小さいこの共同体がどこまでも十字架につけられたキリストの友となる〉という恵みを受けたといわれる。この神的直観はイエズス会の心の拠点となった。イグナティウスは38年,復活祭に同志一同をローマに招集し,修道会創立の計画について数週間討議した結果,教皇認可を願うことに決めた。39年9月3日彼らは《会掟草案》を教皇パウルス3世に提出し,口頭で創立の承認を受けたが,同教皇は40年9月27日,これを《イエズス会創立勅書》をもって正式に認可した。41年4月8日イグナティウスが初代総長に選ばれた。イエズス会は〈より大いなる神の栄光のために〉〈諸所をめぐり,神に対するすぐれた奉仕と人類救済のため,希望の存する世界のどこにも居住する〉ことを念願としている。これは〈人間は主なる神を賛美し,敬い,神に仕え,それによって自己の救霊を完成するために創造された〉とする精神に基づいている。
イエズス会は修道会史上新転換を画し,一定の修道服や歌唱祈禱などの古い生活形式を廃止して全世界にとび立っていった。創立者イグナティウスの没年(1556)には会士1000,管区12,中興の祖第5代総長アクアビバC.Aquaviva時代(1581-1615)には会士1万3112,管区32に達し,その使徒的活動,学校教育,学問研究は世界各国において進展した。しかし18世紀末の反教会的嵐の中でポルトガル(1759),フランス(1764),スペインやナポリ(1767),その他の国における同会の禁止と追放が断行された。このような政治的圧迫に直面して教皇クレメンス14世は1773年7月21日〈教会の平和のために親しいものさえ犠牲にしなければならない〉と書き,イエズス会解散を命じた。しかし同会はロシアのエカチェリナ2世の下に合法的に生命を保った。ナポレオンの失脚後,教皇ピウス7世はフランス幽閉からローマへ帰還してまもなく,1814年8月7日勅書《全教会の憂慮》をもってイエズス会再興を宣言した。20年ロシアは一転して全国土から会士を追放した。多くの盛衰の運命を体験したが,イエズス会は創立当初の生命力を保持し,教会奉仕に献身した。1983年現在同会は第29代総長コルベンバハP.H.Kolvenbachの指導の下に会士2万6622を有し,管区83に分かれている。日本では,教皇ピウス10世の命令によって,ザビエルの遺産を継ぐべく1908年10月18日再渡来し,上智大学(1911),六甲学院(1937),栄光学園(1947),エリザベト音楽大学(1948),広島学院(1956)の創立その他の使徒的事業に活動を続けている。日本管区は日本人会士と世界各国から集まった会士を合わせて337,国際的性格をもっている。
執筆者:鈴木 宣明
ジェスイットと総称される教団会士は,軍隊制度に倣った厳しい規律と強固な結合を誇り,反宗教改革運動と東方伝道にとりくんだ。彼らの出身はポルトガル,スペインをはじめ,イタリア,フランス,オランダ,ベルギーなどであった。ポルトガルの進出に伴って,教団はゴアに本拠を置き,東南アジア,中国,日本を含む広大な〈インド管区〉を布教地域とした。
1549年(天文18),ゴアから東南アジアを経て鹿児島に上陸したザビエルによって日本での布教が始められた。その後,織田信長の保護もあり,フィゲレイドM.de Figuereido,フロイス,バリニャーノらは京都,長崎を中心に教化を進め,17世紀初めには,全国の信徒は約20万人にのぼった。その中から,大村純忠,大友宗麟,有馬晴信らのキリシタン大名もあらわれ,また天正遣欧使節も派遣された。しかし,87年(天正15),豊臣秀吉によるバテレン追放令,1612年(慶長17),徳川幕府によるキリシタン禁教令によって教団は厳しい弾圧を受けた。教団は実践的な布教対策をとるべく,日本の風俗,文化,気候などの理解に努め,その関心のあり方,内容はフロイスの《日本史》,バリニャーノの《日本巡察記》などに詳しくみられる。また《日葡辞書》の編纂や活版印刷術の導入のように,イエズス会がもたらした文化的功績は大きい。
→キリシタン
中国では,リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。教団は皇帝や中央,地方の士大夫など主として当時の指導層と接触し,彼らの改宗を心がけた。瞿太素,徐光啓,李之藻らの士大夫信徒は暦学・数学・地理学の科学知識を習得し,会士とともにその普及に力を尽くした。イエズス会は,中国の伝統的慣習を受容する布教方針をとり,それは他教団との意見対立をもたらした。やがて〈典礼問題〉を契機として,1706年(康熙45)以降,布教は禁止され,会士も追放された。その後,19世紀半ばまで禁圧された教団は,1842年(道光22)に再び活動を認められ,江蘇,河北,安徽を中心に拡大した。中国のイエズス会受容の要因には,西欧科学技術・知識の吸収があった。そのことは一面,弾圧下にあっても欽天監(国立天文台)の職員などに任じられた中国人信徒を通じて布教の維持を可能にしたが,他面では民衆の教化については弱く,清朝期には仇教運動(反キリスト教運動)の中で民衆の激しい排斥・批判の対象ともなった。
東南アジアでは,16世紀末にスペインの強い影響下にあったフィリピンで,イエズス会は諸教派とともにカトリック勢力の一派を形成した。タイでは,バルグアルネラT.Valguarnera神父を主とするフランス・イエズス会が要塞その他の建築の設計・技術を援助し,ナライ王の信を得た。そのため17世紀後半の20余年間に,バンコク,アユタヤ,ピサヌロークに教会,学校,病院を開設して,布教,医療活動に従事し,その他タイ文字のローマ字化を行った。
インドでは教団の本拠地であったゴア周辺で1560年ころから強力に布教が進められた。その結果,96年には13の会堂と3万余人の信者を得るに至った。もっとも,当時の布教活動は,日本,中国においてもみられたように,教団を派遣した国々の貿易上,軍事上,政治上の意図や利害を強く反映しており,ややもすると,現地の人々や伝統文化に対する無定見な批判や寺院の破壊・異端審問といった極端な形であらわれることもあった。また,信徒の資格については,ザビエルのように〈使徒信条〉を信ずる者ならば信者であるとする考えもあり,必ずしも厳格なものではなかった。1580年から95年の間,3度にわたって教団はムガル宮廷に使節を送り,アクアビバR.AquavivaやモンセラテA.Monserrateらがアクバルとその宮廷貴族の教化を図った。その後,ジャハーンギールの保護を受けてラホールに教会を建設するなど,インド人の間に布教を続けたが,やがてムガル帝国とポルトガルとの関係悪化によって,イエズス会は禁止されることになった。南インドではビジャヤナガル王国の支配者たちや地方領主にも働きかけたが,同時にマラバル地方のヒンドゥー教徒やコロマンデル沿岸南部の部族集団の改宗にも力を入れた。布教を通じ,デュボアJ.A.DuboisやベスチC.G.Beschiのような優れた会士によって,民衆の風俗・慣習・儀礼・伝承・カーストの記録や報告書,あるいはタミル語の辞典・文法書といった当時の南インド社会・文化に関する貴重な資料が残された。インドでは中国にみられたような典礼問題や激しい排教運動は生じなかったが,キリスト教徒もヒンドゥー社会秩序の中の一つのカーストとして位置づけられるという状況が形成された。
執筆者:重松 伸司
プロテスタンティズムへの対抗を標榜するイエズス会のもうひとつの目標は,大航海時代に入って一挙に拡大したインディアス(新世界)やアジアなど,非キリスト教地域への宣教だった。事実,たとえばヌエバ・エスパニャ(メキシコ)は早くから創立者イグナティウス・デ・ロヨラの強い関心をひき,彼は同僚の早期渡航を指示した。だが,イエズス会士が最初に到着したのはポルトガル領ブラジル(1549)で,これにフロリダ(1566),ペルー(1568),ヌエバ・エスパニャ(1572)が続いた。創立時から青少年教育を重視して,すでにヨーロッパ各地で相当数の学校を持っていたイエズス会は,新世界でもこの方針に沿って,原住民に限らず,それまであまり顧みられなかったヨーロッパ人入植者の子弟をも迎え入れた。その結果,ヌエバ・エスパニャを例に取ると,聖職者はもとより歴史にその名を残した学者・文人・政治家の多くは,イエズス会士の下で教育を受けた人々だった。
イエズス会士のもうひとつの活動は,僻地や辺境での宣教だった。とりわけパラグアイにおけるレドゥクシオンreducción(原住民教化集落)は特異な試みとして知られる。宣教の一策としての原住民の集落化は,1537年にグアテマラ司教マロキンが提唱,各地でさまざまな形で実践されたが,1609年イエズス会士トーレス・ボーリョ神父がパラグアイで始めたものがもっとも大規模な発展を見た。ヨーロッパ人入植者を排除し,イエズス会士と原住民によるキリスト教信仰の実践と原始共産生活の融合は,16世紀人文主義者のユートピア論を思わせる壮大な社会実験であった。しかし王権至上主義を掲げて教皇庁と対立するカルロス3世は,1767年スペインとその海外領土から全イエズス会士の追放を命じた。スペイン領インディアスからは2630名が追放された。教化集落や辺境での宣教は放置され,120にのぼる学校が教師を失って機能を停止した。イエズス会の追放が,後の社会発展にとって大きな損失だったと言われるゆえんである。
執筆者:小林 一宏
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16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラによって創立された、カトリック教会に属する男子修道会。ジェスイット教団、耶蘇(ヤソ)会ともいう。
[門脇佳吉]
イグナティウスはもと勇敢な騎士であったが、パンプロナの戦いで負傷し、その病床で回心してキリストに仕える騎士になる決意をした。マンレーサの洞窟(どうくつ)での1年間に及ぶ祈りと苦行によって、彼は神の豊かな恵みを受け、その霊的体験をもとにして『霊操』を著した。彼はこの小冊子によって人々を指導したが、「キリストの国」のために働こうとするフランシスコ・ザビエルら6人の同志と、1534年イエズス会を結成し、1540年に教皇によって認可された。
イエズス会に入会する者は、まず『霊操』によって修行し、イエス・キリストの如(ごと)く生き、働き、「より大いなる光栄のために」Ad maiorem Dei gloriam神と人類に奉仕し、献身(けんしん)する者となる。イエズス会という名も、「イエスの如く」生きる人の集まりという意味である。
それまで修道生活に不可欠とされていた修道制服、共同で唱える聖務日課、定住制などを廃止し、時代の要請に即応できる生活様式が採用された。清貧、貞潔、従順の三誓願をたてるが、衣服や食事その他では普通の教区司祭と同様に、土地の風習に適合させる。全人類の救済のためにどんな仕事でもどんな所にでもすぐ赴いて行ける即応性を重んじた。ことに、教会の最高指導者であるローマ教皇の命令であれば、どんな不便な所でも布教に赴くことを示すため、正式会員は特別な誓願をたてる。ザビエルもローマ教皇の命令によって、東洋の布教に従事し、1549年(天文18)ついに日本にまで伝道にきたのである。
[門脇佳吉]
イグナティウスは、当時の個人主義に対してキリスト教的共同体を強調し、プロテスタント的主観主義に対しては、神の国の客観的秩序をたいせつにしたので、それらを支える精神として従順を重視した。そこで、『霊操』の精神を社会的組織にまで具体化するために、『イエズス会会憲』を書いた。会の運営にあたっては、総会長または代理、顧問、管区長、各管区代表を構成員とする総会議が最高の権威をもち、総会長を選ぶ。その総会長が全会員を指導するが、世界を数地域に分け、その地域をまた数管区に分け、管区長を置き、管区の統括を行わせる。管区は事業や場所によって多くの修院に分け、そのおのおのは院長によって指導される。各会員は長い養成期間をかけて、学問的にも霊的にも徹底的な教育を受けるので、多くの点で自主的判断に任せられる。
イエズス会はプロテスタンティズムに反対するために創立されたのではなかったが、その当時おこったルターの宗教改革に対して、同会はカトリック復興運動のために、教会の最前線で闘った。このため、16、17世紀のヨーロッパの大部分がカトリック信仰にとどまることになった。また、当時新しく発見された東洋やアメリカ大陸にもキリスト教を布教するために貢献した。18世紀後半にイエズス会はブルボン王家の絶対主義との抗争で、教皇によって解散させられるが、約40年後には復興されて、今日に至っている。イエズス会はまた教育政策の面で歴史的に大きな役割を果たしている。創立当時でも数百の中学校、大学を経営し、同会独自の学事規定Ratio studiorumは、その後のヨーロッパの高等教育の基礎となった。同時に地理学や民俗学、言語学、天文学、物理学などにおける学問的研究でも、貴重な業績をあげた。
1983年時点の会員数は2万7000人(ヨーロッパに約1万、北米に6500、中南米に4000、アフリカに1000、アジアに4500など。日本には366)。教育に従事する会員が多く、たとえばアメリカでは会員の3分の2を占め、49の高校と、フォーダム、ジョージタウン、セントルイス、マーケットなど28の大学を経営している。日本では東京に上智(じょうち)大学、神奈川に上智短大、広島にエリザベト音楽大学があるほか、神奈川に栄光学園、兵庫に六甲学院、広島に広島学院の中・高等学校を経営している。
[門脇佳吉]
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カトリックの修道会。ジェズイット教団,ヤソ会ともいう。1534年イグナシオ・デ・ロヨラとその同志により設立され,教皇パウルス3世の認可を受け(40年),数年後ロヨラの著『霊操』にもとづく会憲ができた。設立後の2世紀間にヨーロッパ各国と海外の布教に成功し,最も強力な団体となったが,プロテスタント,ジャンセニズム,絶対主義君主などの攻撃を受け,1773年クレメンス14世により解散させられた(ロシアでは存続)。1814年ピウス7世のとき復活し,歴代教皇の庇護を受け,現代の世界最大の修道会となった。学問研究,教育にも力を用い,各国内に大学その他の機関を経営している。日本には1549年会員フランシスコ・ザビエルが,中国には83年マテオ・リッチが初めて渡来した。会の標語は「より大いなる神の栄光のために」である。
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ゼズス会・耶蘇(やそ)会とも。イグナティウス・デ・ロヨラら7人の同志が,1534年8月15日パリのモンマルトルで誓願をたてたことに始まるカトリック修道会。40年教皇パウロ3世によって正式に認可された。軍隊的な組織ときびしい規律をもち,ポルトガルの布教保護権のもとでプロテスタントに対抗して世界的な布教活動を展開。日本には49年(天文18)ザビエルが鹿児島に渡来したことに始まる。巡察師バリニャーノの指導により日本社会順応主義による布教活動が展開され,日本人司祭の養成によって日本教会の自立を企図した。一方で,日本教会の維持を目的としたイエズス会宣教師による軍事・経済活動の展開や他修道会との対立から,豊臣政権・江戸幕府の警戒を招いた。1612年(慶長17)の禁教令以降,多くの殉教者をうみ,44年(正保元)最後のイエズス会士小西マンショの殉教で断絶した。1908年(明治41)再び日本で活動を始める。
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…イエズス会の創立者。洗礼名はイニゴ,スペイン北部バスクのギプスコアにあるロヨラ城に生まれ,宮廷教育(1506‐17)を受けた後,ナバラのスペイン副王の軍人(1518‐21)となった。…
…こうして西欧でも,〈神の国〉を象徴するドームをいただく,ローマのサン・ピエトロ大聖堂やパリのアンバリッドの教会堂(ドーム)などが出現した。しかし,教会の改革に努めていたミラノの大司教ボロメオは異教的理念の集中式プランを否定し,従来の,身廊とトランセプトとから構成されるラテン十字プランへの復帰を勧告したので,反宗教改革の推進者であったイエズス会はこれを本山のイル・ジェスー教会(1584)に採用した。同教会は,説教を聴きやすいように内陣を信徒に全面的に開放し,堂内をゴシックのように細分せず,垂直性も強調しない,ゆったりとした単一空間としたが,これがその後の教会堂の基本となった。…
…
[伝来]
15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島のポルトガル,スペイン両国がこれをリードしたが,両国王はローマ・カトリック教会と深く結びつき教皇を精神的よりどころとしてキリスト教の弘布に尽くした。この時期,ローマ・カトリック教会の腐敗を批判して起こった宗教改革は,カトリック内部の自己改革を触発し,1534年イエズス会がイグナティウス・デ・ロヨラにより創設された。同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることをめざした。…
…日本イエズス会が1591‐1614年(天正19‐慶長19)に印刷したキリシタン版のうち,典礼書,教理書,修養書などがいわゆるキリシタン書である。91年の最初の印刷《どちりいなきりしたん》(《どちりなきりしたん》)はキリスト教教義のカテキズモであり,《サカラメンタ提要》は教会用の典礼書である。…
…それはパレスティナの一隅に生まれてまもなく地中海世界に広がり,ついで西ヨーロッパに入り,17世紀には海を越えてアメリカに渡った。本格的に東洋に伝来したのは16世紀のイエズス会が最初であるが,19世紀後半にアメリカ人宣教師による大がかりな活動があって広く行きわたるようになった。こんにちキリスト教は世界のほぼ全地域におよび,信徒数は10億を超えるに至っている。…
…ちょうどこの時期,宗教改革とルネサンスを経た西ヨーロッパは世界史の主導権を握り,とくにローマ教皇から世界の領土分割の認可をうけたポルトガル,イスパニア両国は,カトリック布教の強烈な意志に支えられ,東西からあいついでアジアに到達し,活発な貿易活動を開始した。ポルトガル人が1543年種子島に来航し,イエズス会宣教師ザビエルが49年鹿児島に上陸するにいたった背景は以上のごとくである。イエズス会はゴアのインド管区の下に日本とシナの二つの布教区を置いたが,82年(天正10)日本は準管区に昇格してシナ布教区を管下に置き,1609年(慶長14)さらに独立管区としてシナ,マカオの2準管区を管轄した。…
…他方,カトリック側はトリエントで宗教会議を開き(1545‐63),プロテスタント側と対決する姿勢を固めるとともに,貧困児童に対して宗教教育を中心にスリー・アールズ3R’s(読み,書き,算)を無償で教える教会付設学校の開設を決めた。そのなかで反宗教改革運動として効果的に活躍したのが,F.ザビエルらを同志としてイグナティウス・デ・ロヨラが創設したイエズス会である。同会は軍隊的組織と規律をもった教育団体として青少年の教育,とくに中等教育にたずさわり,社会の支配者層の育成にあたった。…
…明の高級官僚であり,キリスト教徒の科学者でもあった徐光啓の生家があったところで,その墓もある。1847年(道光27)清朝のキリスト教解禁をうけて,フランスのイエズス会士が教会を建設したが,原地民の反対運動も激しく,徐家匯教案(仇教運動)として知られる。その後,教会は再建拡張され,イエズス会の中国布教本部が置かれ,各種の教育・福祉施設が付置されていた。…
…この征討戦を〈十全の武功〉,みずからを〈十全老人〉と名づけて得意であった。 イエズス会士の中国派遣は,マテオ・リッチの後もアダム・シャール,フェルビースト(1623‐88)と続き,とりわけフェルビーストは康熙帝に〈じいさん〉と愛称されるほど信任され,彼が鋳造した数百門の火砲が三藩の乱の戦闘に大きな効力を発揮した。イエズス会士は北京に教会を与えられ,観象台(天文台)を設け,天文学,暦学はじめ地理学,医学その他自然科学の知識で清朝に貢献したが,最終の目的であった皇帝の教化については結局成功しなかった。…
…またインドではこの年に積極的な軍事政策をとっていた副王ドン・ジョアン・デ・カストロがゴアで没し,これ以後インドにおけるポルトガル人はゴアを中心として,イスラム商人との間に貿易を行うだけになった。一方,ゴア以外の地域ではイエズス会による布教活動がさかんに行われるようになった。57年には澳門(マカオ)にポルトガルの基地が設置され,中国における貿易と布教の拠点となった。…
…中国におけるイエズス会を中心とした旧教(ローマ・カトリック)の総称。神の訳語として〈天主〉を用いて,天主教,天主公教と称した。…
…中国,明末・清初,カトリック教会が中国で布教するに際し,中国人信徒にどこまで中国伝統の典礼を許容しうるかという点をめぐって引き起こされた論争。マテオ・リッチの死(1610)前後からイエズス会解散までの160余年にわたる大論争であった。カトリックの東洋布教に先鞭をつけたのはイエズス会であるが,軍隊式に組織されたこの会は,布教に関してはきわめて現実的な方法を採用していた。…
…南から入ってきたイタリアのコメディア・デラルテの影響もあり,ハンスブルストやハレキンなどの民衆に親しまれる道化も生まれた。また16世紀半ばから17世紀半ばまでは,宗教改革に反撃するカトリック教団内での演劇も行われたが,とくにイエズス会で,布教の目的で行われた演劇が,ビーダーマンJacob Bidermann(1578‐1639)の《ツェノドクスス》(1602初演)のような,バロックの世界観に裏付けられた水準の高い劇を生み出している。皇帝の即位などの機会に行われた大祝祭行列も,劇場を世界とみるバロック劇の理念を体現しているといえよう。…
…H.コック未亡人から原版を買い受けるなどして二十数台の印刷機を擁するヨーロッパ最大の出版業を営んだのはC.プランタンであり,彼は当時最盛期にあったスペイン植民地における教会用印刷物供給の独占権をフェリペ2世から得た。日本のイエズス会系洋風画(16世紀)の原型の大部分がアントワープ製版画に基づくのも,上記のことと無関係ではない。このような版画の普及はコルトの例のように,その表現力,再現力の拡充に基づいている。…
…さらに実証精神に裏打ちされた科学知識の流入は日本人の世界的視野の拡大を助けた。
[キリスト教倫理思想の実践]
イエズス会宣教師はキリシタンに対し一夫一婦制の遵守を励行し堕胎,間引きを禁じる一方で,捨子のための育児院,孤児院,養老院等を設けて救貧活動に従事し,伝染病患者や癩病者救済のために病院を設けた。のちこれらの活動はキリシタンのミゼリコルジヤ(慈悲)の組に受けつがれたが,これはまさにキリスト教思想の根幹である隣人愛の実践にほかならなかった。…
…一方,ロシア・ソビエトは独自の伝統をもち,戦後はアジア諸国でも盛んになりつつある。 1549年(天文18)F.ザビエルの来日によってキリスト教の布教が開始されるとともに,イエズス会士による日本研究も始められた。イエズス会士の膨大な通信のほか,日本語に熟達したJ.ロドリゲスの《日本大文典》《日本小文典》を生み,1603年(慶長8)には長崎で《日葡辞書》が刊行され長く日本研究者の指針となった。…
…文化面でも宗教裁判所によるユダヤ人,新キリスト教徒(コンベルソ),人文主義者の弾圧が始まった。海外領ではキリスト教布教に尽力しヨーロッパ文明の伝播者となったイエズス会も,国内では自由と寛容の精神を圧迫し始めていた。 1557年ジョアン3世の死後,幼いセバスティアンが即位するとスペイン王室の影響が強まり,経済的にも東洋交易に不可欠な銀をスペインに依存するようになった。…
…まず,先王ジョアン5世の末期に弛緩した王権の強化を目ざし,大貴族と教会勢力を徹底的に弾圧した。58年国王暗殺の陰謀を企てたアベイロ公,タボラ一族を粛清し,さらに59年には国家のあらゆる分野に強大な影響力をもつイエズス会をこの陰謀に荷担したとして本国,ブラジルから追放し,その莫大な資産を没収した。また,国家から独立している宗教裁判所を王立裁判所に組み込み,検閲およびイエズス会が支配していた教育を国家の統制下に置いた。…
…トウモロコシ,豆,カボチャの栽培を主生業とするが,牛,羊の飼育にも携わり,狩猟,採集もその重要性を失っていない。ヤキはメキシコ原住民中でも特に抵抗精神に富み,1617年イエズス会士が入植するまで,スペイン人征服者に屈しなかった。その後,同会の影響で自治的性格が強まり,スペイン植民地政府やメキシコ政府に対したびたび反乱を企てた。…
…1598年ポルトガルのエボラで出版された《日本シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡》,いわゆる《カルタス・ド・ジャポンCartas do Japão》の日本訳の書名。耶蘇会(イエズス会)の耶蘇はJesusの近代中国音訳語〈耶蘇〉を音読みしたもの。村上直次郎による訳書は京畿編上下2巻(《異国叢書》所収),豊後編上下2巻(《続異国叢書》所収),下(しも)編1巻(《長崎叢書》所収)からなり,豊後編と下編を原文に即して再構成したものが《イエズス会士日本通信》2巻(《新異国叢書》所収)である。…
…当時伝わったキリスト教はカトリックであったから,多数の聖画を必要としたが,信者数の増大とともにそれが輸入品だけでは不足するようになった。そこで,当時日本布教にあたっていたイエズス会では,その宗教教育施設であるセミナリヨにおいて,日本人の洋風画家を養成することにした。主として指導を担当したのは,1583年(天正11)に来朝したジョバンニ・ニコラオGiovanni Nicolaoという聖職者の画家である。…
※「イエズス会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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