イエズス会(読み)いえずすかい(英語表記)Societas Jesu

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イエズス会」の意味・わかりやすい解説

イエズス会
いえずすかい
Societas Jesu

16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラによって創立された、カトリック教会に属する男子修道会ジェスイット教団、耶蘇(ヤソ)会ともいう。

[門脇佳吉]

会の成立と根本精神

イグナティウスはもと勇敢な騎士であったが、パンプロナの戦いで負傷し、その病床で回心してキリストに仕える騎士になる決意をした。マンレーサの洞窟(どうくつ)での1年間に及ぶ祈りと苦行によって、彼は神の豊かな恵みを受け、その霊的体験をもとにして『霊操』を著した。彼はこの小冊子によって人々を指導したが、「キリストの国」のために働こうとするフランシスコ・ザビエルら6人の同志と、1534年イエズス会を結成し、1540年に教皇によって認可された。

 イエズス会に入会する者は、まず『霊操』によって修行し、イエス・キリストの如(ごと)く生き、働き、「より大いなる光栄のために」Ad maiorem Dei gloriam神と人類に奉仕し、献身(けんしん)する者となる。イエズス会という名も、「イエスの如く」生きる人の集まりという意味である。

 それまで修道生活に不可欠とされていた修道制服、共同で唱える聖務日課、定住制などを廃止し、時代の要請に即応できる生活様式が採用された。清貧、貞潔、従順の三誓願をたてるが、衣服や食事その他では普通の教区司祭と同様に、土地の風習に適合させる。全人類の救済のためにどんな仕事でもどんな所にでもすぐ赴いて行ける即応性を重んじた。ことに、教会の最高指導者であるローマ教皇の命令であれば、どんな不便な所でも布教に赴くことを示すため、正式会員は特別な誓願をたてる。ザビエルもローマ教皇の命令によって、東洋の布教に従事し、1549年(天文18)ついに日本にまで伝道にきたのである。

[門脇佳吉]

組織と会憲

イグナティウスは、当時の個人主義に対してキリスト教的共同体を強調し、プロテスタント的主観主義に対しては、神の国の客観的秩序をたいせつにしたので、それらを支える精神として従順を重視した。そこで、『霊操』の精神を社会的組織にまで具体化するために、『イエズス会会憲』を書いた。会の運営にあたっては、総会長または代理、顧問、管区長、各管区代表を構成員とする総会議が最高の権威をもち、総会長を選ぶ。その総会長が全会員を指導するが、世界を数地域に分け、その地域をまた数管区に分け、管区長を置き、管区の統括を行わせる。管区は事業や場所によって多くの修院に分け、そのおのおのは院長によって指導される。各会員は長い養成期間をかけて、学問的にも霊的にも徹底的な教育を受けるので、多くの点で自主的判断に任せられる。

 イエズス会はプロテスタンティズムに反対するために創立されたのではなかったが、その当時おこったルター宗教改革に対して、同会はカトリック復興運動のために、教会の最前線で闘った。このため、16、17世紀のヨーロッパの大部分がカトリック信仰にとどまることになった。また、当時新しく発見された東洋やアメリカ大陸にもキリスト教を布教するために貢献した。18世紀後半にイエズス会はブルボン王家の絶対主義との抗争で、教皇によって解散させられるが、約40年後には復興されて、今日に至っている。イエズス会はまた教育政策の面で歴史的に大きな役割を果たしている。創立当時でも数百の中学校、大学を経営し、同会独自の学事規定Ratio studiorumは、その後のヨーロッパの高等教育の基礎となった。同時に地理学民俗学、言語学、天文学物理学などにおける学問的研究でも、貴重な業績をあげた。

 1983年時点の会員数は2万7000人(ヨーロッパに約1万、北米に6500、中南米に4000、アフリカに1000、アジアに4500など。日本には366)。教育に従事する会員が多く、たとえばアメリカでは会員の3分の2を占め、49の高校と、フォーダム、ジョージタウン、セントルイス、マーケットなど28の大学を経営している。日本では東京に上智(じょうち)大学、神奈川に上智短大、広島にエリザベト音楽大学があるほか、神奈川に栄光学園、兵庫に六甲学院、広島に広島学院の中・高等学校を経営している。

[門脇佳吉]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イエズス会」の意味・わかりやすい解説

イエズス会
イエズスかい
Societas Jesu; Society of Jesus

1534年8月 15日,イグナチウス・デ・ロヨラが6人の同志とともにパリのモンマルトルの丘に集まり誓約を立て,1540年に教皇の認可を受けて創立した司祭修道会。 1541~56年イグナチウス,1581~1615年アクアビバ,1687~1705年ゴンザレスが総会長を務めた。 1759年ポルトガル,1764年フランス,1767年スペイン,ナポリほかで禁止されたのに続いて,1773年クレメンス 14世により解散させられた (ロシアでは 1820年まで存続) が,1814年ピウス7世により復活され,再び最大の修道会に復して現在にいたる。イグナチウスはキリストを理想像としてイエズス会の名を与え,「より大いなる神の栄光のために」 Ad majorem Dei gloriamを標語とした。彼は制服,合誦祈祷,義務的日課などを廃して修道会史上に一時期を画したが,修士には組織的な教育と指導を施し,総会長を頂点とする君主制的な厳しい組織を与え,会の特色となっている会士の服従を定めた。会全体は直接教皇の下に立ってその特別使命にただちにこたえる奉仕によって,神の栄光を求めるその標語を実現するのである。こうした態度は創立期に教会がおかれていた状況のなかでイエズス会に主として二つの活動領域を与え,それを通して会は飛躍的に大きくなった。二つの活動とは,反宗教改革運動としてのヨーロッパ伝道と学校経営,そしてアメリカ大陸到達に伴う異教地布教である。イエズス会は宗教改革に対抗するために創立されたものではなかったが,その中核的役割を果たした。 1599年に発行された学事規則 Ratio studiorumにのっとりほぼ全ヨーロッパの高等教育を一手に引き受けたのである。またフランシスコ・ザビエルを先頭としての布教活動でもイエズス会は第一の修道会であった。日本にもザビエル自身の手で 1549年布教がなされ,耶蘇会の名で知られ,三木パウロなどの会士を出したほか,キリシタン版と呼ばれる活字本をつくって日本史に貴重な資料を残している。中国には 1583年以後マテオ・リッチらが布教した。 1908年日本に再渡来してのち,上智大学,六甲学院,栄光学園を経営し,広島教区 (中国地方の5県) を担当している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報