小倉城下(読み)こくらじようか

日本歴史地名大系 「小倉城下」の解説

小倉城下
こくらじようか

響灘に注ぐむらさき川の河口に位置する江戸時代の城下町。西は板櫃いたびつ川、東は砂津すなつ川を外堀とし、東西約二キロ、南北約一・二キロ。小倉城および小倉領は関門海峡を挟んで本州に近く、当城下は一小倉藩の城下町であるにとどまらず、湊町・宿場町としての機能も有していた。

〔細川氏以前の城下〕

 南北朝期から室町期にかけて鋳造された梵鐘に大工豊前小蔵・大工小倉とみえるが、紫川河口左岸の室町むろまち遺跡では溶解炉や各種の鋳型が出土しており、関連が注目される。一五世紀後半には湊町の様相を呈していたと考えられるが、一六世紀後半には毛利氏により城郭が築かれたとされる。九州平定が達成された天正一五年(一五八七)七月三日、豊臣秀吉の近習であった毛利勝信(はじめ森吉成)が小倉城主に任命され、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦まで在城するが、その時代には安国あんこく寺・永照えいしよう寺など一三ヵ寺が存在し、また立法りゆうほう寺・西教さいきよう寺・東岸とうがん寺・西泉さいせん寺・本就ほんじゆう寺が建立された。いずれものちの松の丸や二の丸の辺り。商人としては粕屋・菊原屋・蔵本屋・渋屋・富田屋などの名前が知られる(小倉市誌)

〔町の建設と構成〕

 本格的な近世城下町の建設は、細川忠興の入国による。忠興は慶長五年一二月黒田長政の居城であった豊前中津城(現大分県中津市)に入り、毛利勝信の居城であった小倉城には弟の興元を入れた。その興元が翌年一二月に出奔したのを機会に小倉城を本拠にすることにした。同七年一月に「鍬初」の行事、月末には忠興自ら小倉にて「縄張」と家臣の丁場割を命じて、城の大普請に取掛った。この年一一月中旬には普請の過半が成就し、下旬に入城した(綿考輯録)。忠興は主として紫川左岸の西曲輪に家臣の居住区を定め、城郭の北隣の二の丸には三男忠利、弟の長岡中務孝之や、有吉興道・加賀山隼人らの重臣を置いた。西側や南側の三の丸には上級家臣を配置し、その周辺部に中級以下の家臣を置いた。旧小倉津(現室町の辺り)武家屋敷の周囲に町家が並び、寛永年間(一六二四―四四)にはもろ(室町)西魚にしうお町・職人しよくにん町・手拭てぬぐい町・町・紺屋こうや町・さむらい町・蟹喰かにはみ町・二階にかい町が知られる(「日帳」永青文庫など)。忠興の城下町建設は紫川の右岸にまで及び、東部の足立あだち山に源をもつ寒竹かんたけ(神岳川)の流水を利用した運河(砂津川)を東の外堀とした。また東曲輪を建設するにあたって紫川河口の漁民を郭外東部の長浜ながはまに移住させた。東曲輪には魚町(東魚町)さかい町・大坂おおさか町・こめ町・とり町・船場せんば町・猟師りようし(漁師)町・円応寺えんおうじ町・ゆみ町・中島なかしまなどがみえる(日帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の小倉城下の言及

【小倉】より

…1995)には北九州大学,北九州工業高等専門学校,カルスト地形の平尾台(天),菅生ノ滝,競馬場,北九州空港などがある。【土井 仙吉】
[小倉城下]
 豊前国の城下町。九州の咽喉を扼(やく)する位置にあり,九州と上方,下関を結ぶ交通の要衝でもあった。…

※「小倉城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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