日本歴史地名大系 「小倉城下」の解説
小倉城下
こくらじようか
〔細川氏以前の城下〕
南北朝期から室町期にかけて鋳造された梵鐘に大工豊前小蔵・大工小倉とみえるが、紫川河口左岸の
〔町の建設と構成〕
本格的な近世城下町の建設は、細川忠興の入国による。忠興は慶長五年一二月黒田長政の居城であった豊前中津城(現大分県中津市)に入り、毛利勝信の居城であった小倉城には弟の興元を入れた。その興元が翌年一二月に出奔したのを機会に小倉城を本拠にすることにした。同七年一月に「鍬初」の行事、月末には忠興自ら小倉にて「縄張」と家臣の丁場割を命じて、城の大普請に取掛った。この年一一月中旬には普請の過半が成就し、下旬に入城した(綿考輯録)。忠興は主として紫川左岸の西曲輪に家臣の居住区を定め、城郭の北隣の二の丸には三男忠利、弟の長岡中務孝之や、有吉興道・加賀山隼人らの重臣を置いた。西側や南側の三の丸には上級家臣を配置し、その周辺部に中級以下の家臣を置いた。旧小倉津(現室町の辺り)や武家屋敷の周囲に町家が並び、寛永年間(一六二四―四四)には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報