翻訳|recreation
仕事や勉強の疲れをいやすための休養や気晴し。またそのために行われるさまざまな活動。語源はラテン語のrecreāreで,再創造,壊れたものがつくり直されること,人が病気から回復すること,課業の疲労をいやして元気を取り戻すという意味がある。日本では,明治以来この語を翻訳する試みが行われ,初期には〈復造力〉という直訳が現れたが,その後は休養,娯楽,保養,遊戯などの語が当てられてきた。また昭和になってレクリエーション・ムーブメントの訳語に〈厚生運動〉ということばが選ばれた。第2次大戦後は〈レクリエーション〉という表記が定着するが,その具体的なイメージとしては,みんなで楽しく健康的にすごす余暇活動という色彩が濃い。また日常生活を離れて気分転換を行う旅行のイメージも強く意識されている(観光レクリエーションなど)。余暇(レジャーleisure)を楽しむという点では〈レジャー〉と近いが,レジャーが高度成長期初頭(1960年代前半)のレジャー・ブームをきっかけに定着し,金のかかる個人的な余暇行動という色彩を強くもっているのに対して,レクリエーションは金銭消費的ではなく,また集団的に楽しむものという色彩が濃い。
レクリエーションという概念は,近代的な学校制度のなかで,勉強の疲れをいやすための有用な休息として意味づけられ,また近代的な生産組織のなかで,密度が高くしかも他律的な労働に対して,人間性を回復するために必要な自由時間とその利用として認識されるようになった。遊びを子どもの教育のために利用しようという発想は,すでにアリストテレスにもみられる(《政治学》)が,その後はあまり重視されたとはいえない。ルネサンス期に至って,遊びや余暇の効用を説く主張がめだつようになる。国民に娯楽を与えるのはよい政治であると説いたモンテーニュや,《ユートピア》のなかで労働時間を1日6時間とし,余暇を有用な学習に用いるべきことを主張したT.モアがその例である。
教育のなかでの〈レクリエーション〉の位置づけは,17世紀の教育思想家コメニウスによってなされる。彼の《大教授学》は学習と休養(recreationes)との適正な配置をうたい,その後の学校の基本的な枠組みとなった。また,J.ロックは《教育に関する考察》(1693)のなかで,疲れをいやし,喜びやくつろぎを得る方法としてのレクリエーションを積極的に評価している。子どもの遊びに関しては,ルソーが《エミール》のなかで,子どもの内なる自然の尊重を説いて,型にはめる教育を批判し,さらにフレーベルが遊びこそは子どもの精神の最高の状態であるとして幼稚園の創設を提唱した。遊びのなかで子どもが健全に育つという考え方は,19世紀末のアメリカで遊び場運動を生み出し,これが後のレクリエーション運動の出発点となった。
他方,資本主義の生み出した単調かつ長時間にわたる非人間的な労働に対して,労働時間の制限や労働環境の改善を求める運動がくり返され,そのなかから〈余暇権〉の思想が生まれた。マルクスの娘婿P.ラファルグの《怠ける権利》(1883)はその先駆的な主張だが,それはしだいに現実化して,労働時間短縮とレクリエーション条件の整備が進められていく。その成果は1919年に結成された国際労働機関(ILO)の諸条約に結実し,29年のILO第6回総会は〈労働者の余暇とレクリエーションに関する勧告〉を採択して,余暇をもちレクリエーションを楽しむことが勤労者に不可欠であることを宣言した。
近代的なレクリエーションを性格づける一つの要素として,レクリエーションをテーマとする社会運動の存在がある。その発端は1885年にアメリカのボストンで始められた砂場づくりの運動だった。都市化の進展とともに現れた青少年の非行や逸脱への対応として,子どもたちの健全育成に資する遊び場を確保しようというのがそのねらいであった。この運動は遊び場から青少年の運動公園へ,さらに20世紀にはいると球技場やプールもある地域の小公園へと目標が拡大され,対象者も青少年から成人へと広がり,1930年には全米レクリエーション協会が結成されて運動の中心となった。1930年代の不況期にはニューディール政策の一環として,公共的なレクリエーション・プログラムを提供して失業者のエネルギーを吸収し,そのためのサービス要員を雇用して失業対策とするという二重のねらいをもってレクリエーション・サービスが政府や自治体の重要な仕事の一つとなり,専門職の確立などレクリエーションの制度化が進んだ。
余暇を善用して青少年の健全育成をはかるという発想は,1844年イギリスに始まったYMCA運動にすでにみられる。19世紀末から20世紀初頭にかけて,ドイツではワンダーフォーゲル運動やユース・ホステル運動が起こり,これらの潮流と合流してレクリエーション運動は国際的なものとなった。1932年のオリンピック・ロサンゼルス大会に合わせて,世界レクリエーション会議が開かれ,〈遊戯は諸国民を結合する〉という標語のもと,各国の余暇善用運動の成果が交換された。この会議の第2回(1936)はドイツで,第3回(1938)はイタリアで開かれ,それぞれKDF(Kraft durch Freude,日本では歓喜力行団と訳した)運動,ドーポラボーロDopolavóro(〈労働の後に〉の意)運動の紹介が大々的に行われた。いずれもファシズム体制のもと国民の余暇を組織化して,心身の鍛練をめざそうとしたもので,地域・職域に組織をはりめぐらし,勤労者の旅行サービス,スポーツ,文化活動などを活発に展開した。日本もそれにならって第4回の会議を招聘(しようへい)すべく,日本厚生協会(1938)を設立して準備を進めたが,第4回会議は戦争の激化のため中止された。第2次大戦後の国際レクリエーション運動は,再びアメリカを中心に,レクリエーションの権利の主張とレクリエーション環境の整備を目標に進められている。
日本厚生協会の結成をもって始まった日本のレクリエーション運動は,軍国主義の風潮のもと,国民精神総動員の一翼を担わされたが,ドイツやイタリアのような大きな運動にはならなかった。第2次大戦後はアメリカの指導で,日本厚生協会は日本レクリエーション協会(1948)に名称を変え,アメリカをモデルとしたコミュニティ・レクリエーションの発展をめざした。初期に具体的な普及種目としてとりあげられたフォークダンス(スクエアダンス)は,若者たちに熱狂的に迎えられた。その後の高度成長期には,日本のレクリエーション運動は職場レクリエーションの活性化が中心となり,全国の職場に大量に流れ込んだ若年労働者の職場への定着をはかる方法としてレクリエーションを定着させた。現在では,レクリエーションが心身の健康を維持し,人と人との共感や連帯をつくり出すために欠かせないという視点から,レクリエーションを土台とした地域づくりや高齢化社会に対応したライフスタイルの確立が,この運動の課題とされている。
→レジャー
執筆者:薗田 碩哉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
仕事などの拘束あるいは強制によって緊張し疲れた肉体と精神を回復させ、新たなエネルギーを生み出すために、余暇(レジャー)を利用して行われる活動全体をいう。したがってレクリエーションは、余暇や娯楽と密接につながる性格をもっているが、余暇が広い意味で心身の非拘束状況をさし、娯楽が楽しむための手段ないし楽しむ行為そのものをいうのに対して、レクリエーションは、肉体と精神のリフレッシュという目的ないし意味づけを重視する考え方である。わが国でレクリエーションということばが一般化し、認識が深まったのは、第二次世界大戦後のことである。1938年(昭和13)設立の日本厚生協会が48年(昭和23)財団法人日本レクリエーション協会と名称を変更し、レクリエーション活動の発展を目ざした。
[田村穣生]
具体的なレクリエーションの形態が、鑑賞、創作、演奏・演技、各種の手すさび、社交・交際、ゲーム、ギャンブル、スポーツ、祭りなどのイベント、旅行といったいわゆる大衆娯楽と重なるのは当然のことであり、これらの娯楽活動を、心身のリフレッシュという明確な意図の下に行ったときに、これがレクリエーションとして位置づけられることになる。レクリエーションをさらに多角的にとらえる場合には、活動が個人で行われたか集団で行われたか、その集団はどのような性格の集団であったか、自発的な参加であったか、いかなる効用があったかなど、いろいろな問題が派生してくる。
現代社会には、レクリエーションとして利用されるか否かとは関係なく、さまざまな娯楽手段がある。レジャー産業が提供するサービスや施設、官公庁・自治体など公的な主体が提供するサービスや施設、地域の有志やボランティアによるある種のサービス、そして企業が自ら雇用する勤労者のために提供するサービスや施設など、多種多彩である。このようななかで、現代日本のレクリエーションが今後どのような方向へ進んでいくかということは、日常的に拘束と強制を強く受ける勤労者の動向をみることによって、ある程度読み取ることができる。
かつて、仕事も遊びも家庭生活も、すべてがコミュニティ中心に行われていた時代には、レクリエーションもまたコミュニティ中心であった。しかし、近代産業社会が発達してくると、勤労者の生活は全面的に企業に依存するようになる。とくにわが国の企業は終身雇用制をとり、企業一家主義的色彩が濃厚であったために、企業経営の見地からも従業員のレクリエーション対策は重要な課題であり、企業自らの手で従業員やその家族に対してレクリエーションの機会を提供することが多かった。また、従業員が個人的にレクリエーションを行う場合にも、いっしょに行動する人々は結局、会社の同僚、先輩・後輩などになることが多く、ここにも企業という存在が大きく影を落としていた。
[田村穣生]
しかし、時代とともに勤労者の意識も変化して、従業員の企業密着の意識は徐々に弱まりつつあり、私的生活の諸活動には、会社の同僚などを排して、家族や地域の人々、あるいは学校時代の友人や同好の士といった私的グループを中心とする傾向が強まってきた。そしてレクリエーションの手段も、一般向けレジャー産業のサービスを利用することが多くなり、また一方で、地域におけるいろいろな活動に参加する人も増えてきている。このような動向は、基本的には、個別企業の従業員としてのレクリエーションから私的な市民としてのレクリエーションへのウェイトの移動であり、日本人の意識変化に伴って、この傾向がますます強くなるものと考えられる。
[田村穣生]
『日本レクリエーション協会編『レクリエーション大系』全三巻(1975~77・不昧堂出版)』▽『高橋和敏編著『レクリエーション概論』(1980・不昧堂出版)』▽『日本レクリエーション協会編・刊『レクリエーション指導の理論』(1982)』▽『石川弘義編著『余暇の戦後史』(1979・東京書籍)』
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