飛国(読み)ひだのくに

日本歴史地名大系 「飛国」の解説


ひだのくに

古代

〔ヒダの用字〕

古川ふるかわ盆地と高山盆地のほかはわずかな小平地が散在するにすぎない山国ヒダは、天智朝の六六〇年代半ば頃に国として成立したとみられるが、八世紀初頭までは「斐太」または「斐陀」と表記された。大宝二年(七〇二)四月、当国で発見・献上された神馬が祥瑞とされたことを契機に(「続日本紀」同月八日条)、律令政府が中央集権施策の一環として意図した全国的な国名表記の統制・定着方針に基づき、慶雲四年―和銅元年(七〇七―七〇八)に「飛騨」と改定、定着したと推測できる。その後にもみえる「斐太」などの用字は、便宜的な用法であろうと考えられる。「飛騨」の用字は現在にもつながっているので、ここでは「飛騨」に統一して使用する。

〔両面宿儺の伝承〕

飛騨地方での古墳の成立は、美濃地方より一世紀以上遅れたとみられるが、その成立つまり大和朝廷勢力への服属化にかかわる伝承が「日本書紀」仁徳天皇六五年条にみえる両面宿儺りようめんすくなの征討伝承である。飛騨国に怪物がおり、体の前後に顔をもち、四本の手と四本の脚とによって敏捷に行動し、また弓矢などを使って人民を苦しめたので、和珥わに臣の祖、難波根子武振熊なにわのねこたけふるくまを派遣して、この両面宿儺を誅殺させたという。この記事は、持統五年(六九一)に和珥氏の後裔である大春日朝臣氏が提出した和珥氏の墓誌、または和珥氏の伝承が採用されたものであろうが、飛騨地方が大和朝廷勢力に服属したことを核にした伝承で、和珥氏の祖先功名譚であろう。氏姓社会体制のもとで、当地方は飛騨国造の治下にあった。なお朱鳥元年(六八六)九月の天武天皇の死に伴って一〇月に発覚した大津皇子の草壁皇太子への謀反事件において、大津皇子の骨相をみて、謀反をそそのかしたとして、新羅僧行心(幸甚)が「飛騨国伽藍」に配流されている(日本書紀)。おそらく荒城あらき評の白鳳期寺院とみられるが、具体的な寺名・所在地は不詳である。幸甚の子である隆観は、前述の神馬を発見した功により大宝二年に免罪されて入京を許された。

〔律令制下の飛国〕

律令体制が完成した大宝・養老令制下の飛騨国は荒城・大野二郡であった。国府の比定地については、現吉城よしき国府こくふ町説と現高山市岡本おかもと地区説がある。これはいずれも当地方においては希少な平地に比定することになる。なお両者を折衷した国府移転説もある。国府町説は、古川盆地の南端にあたる国府町大字広瀬ひろせ町字山崎やまざきに求めている。おもな根拠は、付近に散在するこふの山・こふ平・こふの宮・こふ峠などの地名による(濃飛両国通史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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