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国分寺の尼寺。正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)という。
[編集部]
741年(天平13)国分寺とともに諸国に建立された尼寺。聖武天皇の発願により,鎮護国家を祈念する場として,僧寺である国分寺とともに設置された。「法華経」の教説に依拠して法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と称し,水田10町を施入し,尼10人を常住させ,毎月8日に「金光明最勝王経」を転読させた。平安末期以降しだいに衰退し,多くは中世に廃絶した。
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…聖徳太子建立7ヵ寺と伝える中に,中宮(斑鳩),橘,池後,葛城の4尼寺があり,行基建立の寺院では僧寺と並んで尼寺が建てられた。国分尼寺は法華滅罪寺とよばれ尼僧10人を置き水田10町が施入された。8世紀には尼寺の数も増加したが,律令制の崩壊とともにその多くは衰滅していった。…
…奈良・平安時代に諸国に置いた官寺。僧寺を金光明(こんこうみよう)四天王護国之寺(金光明寺),尼寺(国分尼寺)を法華滅罪之寺(法華寺)と呼び,合わせて国分二寺という。 国分寺制は,7世紀末より促進されてきた護国経典の読誦によって国家の安寧を祈る仏教政策の総仕上げであり,中央の大寺で展開した国家仏教の画一的な地方伸展の意義をもつが,直接的には律令体制の根幹をゆるがす疫病,飢饉,反乱などの災いを,《金光明最勝王経(最勝王経)》の鎮護国家の思想で消除しようと図ったものである。…
…【末木 文美士】 日本における《法華経》の受容は早く,聖徳太子の《法華経義疏(ぎしよ)》の撰述にその徴を見る。奈良時代には,国分尼寺が各国に建立され法華滅罪の寺と称し,《法華経》は国家的信仰としての位置を獲得した。最澄は《法華経》を所依の経典として天台宗を開創したが,やがて密教,浄土教を受容して多彩な信仰を生むようになった。…
…正しくは法華滅罪之寺といい,氷室御所ともいう。藤原不比等の旧宅があった平城左京一条三坊の地に,光明皇后の皇后宮が設けられ,745年(天平17)宮寺(みやでら)に改められたのが法華寺の始めと考えられ,大和国国分尼寺(国分寺)として漸次整備された。天平19年(747)1月の《正倉院文書》に法華寺の寺名が初見する。…
※「国分尼寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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