天武朝の政治家,漢詩人,万葉歌人。天武天皇の第3皇子,母は天智天皇の皇女大田皇女。万葉歌人大伯皇女(おおくのひめみこ)の同母弟にあたる。名は百済の役にさいし筑紫の娜大津(なのおおつ)で生まれたことにもとづく。686年9月天武の死の直後,謀反の嫌疑がかけられ,10月2日一党30余人の首謀として逮捕され,翌3日大和国訳語田(おさだ)の家で死を賜った。妃の山辺(やまべ)皇女も殉死し,見る人みな嘆いたという。これがいわゆる大津皇子事件である。大津は4歳のとき母大田皇女を失うが,近江京における幼少時を天智天皇に愛されて過ごし,壬申の乱(672)では近江を脱して父天武の軍に加わった。乱後の天武朝に成人し皇子としての序列は常に皇太子草壁皇子につぐ地位にあり,683年はじめて国政に参画,685年浄大弐位を授けられている。《懐風藻》の伝によれば,たくましい風貌,体軀をそなえたうえに気宇大きく,幼年にして学を好み,博覧よく文をつづり,壮年に及んで武を愛し撃剣に長じていたという。また性すこぶる豪放で法度に拘泥せず,しかも謙虚に士を遇したので衆望をあつめたとも伝える。その謀反事件は新羅の僧行心(こうじん)の教唆から企てられ,川島皇子の密告で発覚したという(《懐風藻》)が,逮捕から処刑までの迅速さや大津以外の関係者がほとんど罪をえていない点などにより,事件が皇太子草壁とその母后鸕野(うの)皇女(持統天皇)側の策謀かともみられている。ただ気骨,力量人にすぐれたこの皇子に王位への野心がまったくなかったとするのも当を失する。事件は一個の英雄的人格が国家の権力機構に敗れたものというべく,大津の死は壬申の内乱を頂点とするひとつの時代が過ぎ去り,法と制度の支配する律令体制聳立(しようりつ)への動向を象徴しているかにみえる。大津の文才は《懐風藻》の〈臨終〉を含む4編の詩および《万葉集》の死を前にした歌1首を含む4首にうかがうことができる。また大津を思って詠んだ姉大伯皇女の万葉歌6首はいずれも清楚,至純の秀歌として特記にあたいする。
〈金烏(きんう)西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す 泉路賓主無し 此の夕家を離(さか)りて向かふ〉(《懐風藻》〈臨終〉),〈百伝ふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ〉(《万葉集》巻三)。
執筆者:阪下 圭八
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天武(てんむ)天皇の第三皇子。母は天智(てんじ)天皇の女(むすめ)大田皇女。幼少のころから文武に長じ、天智天皇の寵愛(ちょうあい)を受けた。672年(天武天皇1)の壬申(じんしん)の乱に際しては、いち早く近江(おうみ)京を脱出し、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)らとともに伊勢(いせ)の鈴鹿関(すずかのせき)で父天武天皇と合流した。乱後683年太政(だいじょう)大臣となったが、皇位継承によって政治的野心を達成しようとする者が皇子のもとに参集し、そのため、686年(朱鳥1)9月に天武天皇が崩ずると、皇太子草壁(くさかべ)皇子に対して謀反を企てたかどで捕らえられ、訳語田(おさだ)の自邸において死を賜り、妃山辺(やまべ)皇女(天智天皇皇女)も後を追って殉死した。『万葉集』巻2の詞書(ことばがき)によると、皇子の屍(しかばね)はのち二上山(ふたかみやま)(奈良県葛城(かつらぎ)市)男岳頂上に移葬された。皇子は詩才に優れ、『懐風藻(かいふうそう)』には有名な「五言臨終一絶」を含む詩4篇(へん)、『万葉集』には石川郎女(いしかわのいらつめ)との贈答歌、死に臨んで詠んだ歌「百伝(ももつた)ふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日のみ見てや雲隠りなむ」など4首が伝えられる。また同母姉大伯(おおく)皇女に会って帰るおりの皇女の歌、皇子の死を嘆いた皇女の歌も有名である。
[平田耿二]
(岩本次郎)
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663~686.10.3
天武天皇の第2皇子。誕生順では草壁(くさかべ)皇子についで3番目。母は天智天皇の女大田皇女で,持統天皇の同母姉。皇子自身文筆の才に優れていたことから,天武の諸皇子中では草壁につぐ皇位継承の有力候補とされた。683年(天武12)にはじめて朝政を聴き政治の場にのぞんだが,686年(朱鳥元)天武の死の15日後,皇太子草壁に謀反を企てたとして捕らえられ,死を賜った。「万葉集」には死にあたって皇子の詠んだ歌が収録され,「懐風藻」にも「五言臨終一絶」を含む詩4編をのせる。妻の山辺皇女も皇子と死をともにした。
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…二上山の東側に,当麻曼荼羅で有名な当麻寺があり,西側の磯長谷(しながだに)(大阪府南河内郡太子町)に,大王陵や終末期古墳の散在する事実は,二上山を冥界と境する山と見なす観念が存在していたことを示す。《万葉集》によれば,悲劇的な死をとげた大津皇子の屍を二上山に移葬し,大伯皇女(おおくのひめみこ)が〈うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む〉と歌ったとするのも,そうした観念と無関係ではあるまい。なお現在,二上山の雄岳の頂上に,大津皇子の墓があるとしているが,その決定は1876年(明治9)に行われたにすぎず,根拠も明確でない。…
※「大津皇子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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