飾区(読み)かつしかく

日本歴史地名大系 「飾区」の解説

飾区
かつしかく

面積:三四・八四平方キロ(境界未定)

東京都の北東端に位置し、東は江戸川を隔て千葉県松戸市、北東は水元みずもと公園(旧小合溜井)を境に埼玉県三郷みさと市、北西は中川を境に同県八潮市と古隅田ふるすみだ川を境に足立区、西は荒川(荒川放水路)を境に墨田区、南は江戸川区。中央を中川・新中川(中川放水路)が南流する。北部をJR常磐線・営団地下鉄千代田線、中央部を京成電鉄本線・押上おしあげ線、南部をJR総武本線が通り、京成高砂けいせいたかさご駅で北総開発ほくそうかいはつ鉄道、京成電鉄金町線が分岐する。区域を南西から北東に国道六号(水戸街道)が横断、南北には環状七号、平和橋へいわばし(主要地方道千住―小松川―葛西沖線)、荒川沿いには首都高速道路六号が通る。江戸時代初頭までは下総国葛飾郡に属したが、寛永(一六二四―四四)頃に葛飾郡は二分され、武蔵国葛飾郡となって幕末に至った。区全体が東京東部低地とよばれる平坦な土地で、江戸・東京東郊農村としての歴史が長く、近代以降は拡大する東京の下町的存在になった。

〔原始・古代〕

縄文海進によって、それ以前の人間活動の痕跡は浸食され、あるいは沖積化により地中深く埋もれてしまった。縄文海進以降の遺跡の出現時期は、弥生時代の終り頃から古墳時代前期である。当該期の代表的な遺跡として御殿山ごてんやま遺跡があり、多量の土師器や土錘とともに竪穴住居跡八軒・掘立柱建物跡・方形周溝墓・井戸跡・土坑・溝・祭祀跡・畑跡などが発掘されており、当地域の拠点的な集落と思われる。土師器のなかには東海系など多くの外来系土器の出土が目立っている。古墳時代中期になると、遺跡は確認されなくなる。古墳時代後期になって再び集落や古墳などが営まれ、奈良・平安時代まで継続する。古墳時代後期には漁労活動が活発に行われていたらしい。古墳時代前期にも漁労具の土錘の出土がみられるが、後期になると土錘が大型化し、かつ大量に出土する。新宿町にいじゆくまち遺跡からは一〇〇個を超える大型土錘が出土している。

律令制下の当区域は下総国葛飾郡に所属し、同郡の「和名抄」所載郷のうち大島おおしま郷が当区域に入り、新居にいい郷を新宿の辺りに比定する説がある。養老五年(七二一)の下総国葛飾郡大島郷戸籍(正倉院文書)によれば、大島郷は甲和こうわ仲村なかむら・島俣の三里からなり、島俣は当区柴又しばまたが遺称地とされる。大島郷は郷長孔王部志己夫以下ほとんどが安康天皇の名代に由来する孔王部姓で占められており、血縁的結合が強固だったらしい様子がうかがわれる。区域を武蔵国豊島駅と現千葉県市川市国府台こうのだいに所在した下総国府を結ぶ官道が通過していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報