高麗福信(読み)こまのふくしん

改訂新版 世界大百科事典 「高麗福信」の意味・わかりやすい解説

高麗福信 (こまのふくしん)
生没年:709-789(和銅2-延暦8)

奈良時代の渡来系の官人。本姓は背奈。のち高倉福信。武蔵国高麗郡の人。祖父福徳は高句麗より帰化して武蔵に住んだ。若年の時に明経博士として聞こえた伯父の背奈行文に従って上京,相撲の力を認められて出仕し,右衛士大志となった。738年(天平10)外従五位下に進み,743年春宮亮となる。747年には背奈公から背奈王の姓を賜った。この間聖武天皇に好まれたと伝え,749年(天平勝宝1)には中衛少将従四位下で紫微少弼を兼任,さらに翌年高麗朝臣の姓を賜っている。また諸国の国司を兼ねる一方,その間〈東大寺献物帳〉などに署名している。760年(天平宝字4)信部大輔となり,のち内匠頭,但馬守に任じた。765年(天平神護1)には従三位に昇り,つづいて造宮卿とみえる。造宮卿としては楊梅宮造作を専知した。また武蔵・近江の守を兼任し,779年(宝亀10)には高倉朝臣の姓を望んで許されている。のち弾正尹で武蔵守を兼ねるが,785年(延暦4)には致仕し,789年散位従三位,81歳で没した。
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朝日日本歴史人物事典 「高麗福信」の解説

高麗福信

没年:延暦8.10.17(789.11.8)
生年:和銅2(709)
奈良時代の官人。本姓は肖奈。武蔵国高麗郡(埼玉県日高町など)の人で,7世紀後半高句麗から来帰して武蔵に住んだ福徳の孫。少年の時伯父行文に従い上京,相撲の力が聞こえて出仕し,天平15(743)年春宮亮に。聖武天皇の寵厚く,19年肖奈公から肖奈王と賜姓。天平勝宝1(749)年には中衛少将従四位下で藤原仲麻呂のもと紫微少弼を兼ねた。2年高麗朝臣と賜姓。橘奈良麻呂の乱(757)では追捕に当たり,4年信部(中務)大輔に。天平神護1(765)年には従三位に昇り,神護景雲1(767)年造宮卿で道鏡の法王宮大夫を兼ねた。宝亀4(773)年楊梅宮(やまもものみやとも)造作の功を賞され,10年高倉朝臣と賜姓。天応1(781)年 弾正尹 となったが,延暦4(785)年致仕し,杖,衾を賜った。政治的変動をよく乗り切った末,散位従三位として没。

(佐藤信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高麗福信」の解説

高麗福信 こまの-ふくしん

高倉福信(たかくらの-ふくしん)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の高麗福信の言及

【法王宮職】より

…道鏡は766年(天平神護2)10月法王に任ぜられた。翌年3月に法王宮職が置かれ,造宮卿但馬守従三位高麗福信(こまのふくしん)を大夫(兼任)に任じ,大外記遠江守従四位下高丘比良麻呂を亮(兼任),勅旨大丞従五位上葛井道依を大進(兼任)とし,少進1人,大属1人,少属2人がおかれた。法王の月料は天皇の供御に準じたとあるから,衣服,飲食は天皇と同じものを用いた。…

※「高麗福信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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