日本歴史地名大系 「鬼鹿村」の解説 鬼鹿村おにしかむら 北海道:留萌支庁小平町鬼鹿村[現在地名]留萌郡小平町字鬼鹿元浜(おにしかもとはま)・字鬼鹿港町(おにしかみなとまち)・字鬼鹿広富(おにしかひろとみ)・字鬼鹿豊浜(おにしかとよはま)・字鬼鹿田代(おにしかたしろ)・字鬼鹿千松(おにしかせんまつ)明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した村。日本海沿岸のポンヲニシカ川と現苫前(とままえ)郡苫前町との境界チャシュンナイ川との間に位置する。一八四三年(天保一四年)雄冬(おふゆ)岬以北の追鰊が解禁されるに伴い、多くの漁夫が鰊を求めて当地などに入り込み、定着した。「北行日記」に「鬼鹿番屋ヘ止宿ス、番人両人住居ス、此処モ留萌支配ニテ山口藩管轄地」とある(明治三年八月二二日条)。同六年の「天塩国地誌提要」に鬼鹿村とみえ、平民一四戸・四一人の定住があり、寄留者は二〇戸・四〇人。 鬼鹿村おにしかむら 北海道:留萌支庁小平町鬼鹿村明治三九年(一九〇六)から昭和三一年(一九五六)まで存続した村。明治三九年鬼鹿村と天登雁(てんとかり)村が合併し、二級町村として成立。村役場は戸長役場をそのまま使い、大字鬼鹿字温寧(おんね)に設置。同年の戸数五七一戸・人口二千九八一人。大椴子(おおとどつこ)・小椴子(ことどつこ)・蛇の目(じやのめ)の沢(さわ)・番屋の沢(ばんやのさわ)・温寧・御種子(おたねつこ)・千松(せんまつ)・茶俊内(ちやしゆんない)の八部が置かれた。大正三年(一九一四)温寧を四分割し、温寧・市街一から三部の計一一部となった。昭和一〇年大字を廃止して大椴(おおとど)・富岡(とみおか)・秀浦(ひでうら)・広富(ひろとみ)・港町(みなとまち)・田代(たしろ)・元浜(もとはま)・千松・豊浜(とよはま)の九字となる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報