真教寺
しんきようじ
[現在地名]鳥取市戎町
戎町北西部にある。久松山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。近世は若桜往来が川端一丁目に行当る地点の南東、寺町側の一角にあった。境内は一千九九九坪、末寺三ヵ寺・塔頭円相院があった(明治四年「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。「鳥府志」には当寺は鳥取城下では古い寺で、初め城山のうちにあったとあるが、確かな創建年代は記していない。「鳥取県史」は真教寺一号過去帳によって開基は遠蓮社近誉了達(正治元年三月没)とし、ただし真教寺の創建については記されず多くの疑問を残すとする。安永八年(一七七九)玉誉著の古代真教寺記(当寺蔵)には、天文一四年(一五四五)布施天神山城主山名誠通が久松山に築城のとき鎮守として建立、久松山真教寺と号し、開山は近誉了達と記される。
真教寺
しんきようじ
新寺町寺院街にあり、貞昌寺の西隣、道路を隔てて専徳寺の東隣に位置。法輪山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。もと東本願寺(現京都市下京区)末寺。寺禄三〇石。
浄土真宗一派縁起(市立弘前図書館蔵)によると、天文九年(一五四〇)坪貝村(現中津軽郡岩木町)に創立されたとあり、開山は不退転位浄理、開基は不詳。「津軽一統志」は創立年代を、天文一九年とし、初開地は不詳とする。「新撰陸奥国誌」によれば、慶長五年(一六〇〇)に浄土真宗の総録所となり、同一四年一町田村・高屋村(現岩木町)内に寺領をもらい、寛永一一年(一六三四)に寺領三〇石になった。大浦城(現岩木町)を弘前に移した時、弘前の寺町に移り、慶安年間(一六四八―五二)現在地に移ったとする。
真教寺
しんきようじ
寺町通の東側、本泰寺の北にある。清涼山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来木像。延徳三年(一四九一)御井郡仁王丸村(現北野町)に善西が創建したと伝え、慶長八年(一六〇三)六世教専が田中吉政から久留米城下祇園小路に寺地を拝領し、移転したという。元和七年(一六二一)七世善海のとき寺町に寺地を拝領(寛文十年寺社開基)。
真教寺
しんきようじ
[現在地名]松任市辰巳町
法雲山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。松任四ヵ寺の一。貞享二年寺社由緒書上・三州寺号帳には元和元年(一六一五)浄心の開創とあるが、寺院明細帳には建仁三年(一二〇三)に開基賢信が親鸞の法弟となり、手取村(現美川町)に一宇を建立して万法寺と号し、七世願賢のとき美川町(現同上)に移転、九世浄心が本願寺教如より真教寺の寺号を得て元和元年針道村(現鶴来町)に移転、同四年さらに現在地に寺基を移したと記す。また寺蔵の万法寺由緒覚によると、賢信は信濃真田党海野小太郎の息で、建立時は天台宗であったが、承元元年(一二〇七)親鸞に帰依して改宗した。
真教寺
しんきようじ
[現在地名]津市下弁財町津興
下弁財町の町並が終わり、阿漕町へかかろうとするところに小広場があり、広場に向かって堂が建ち、閻魔堂と通称する。阿漕山と号し、天台宗。本尊は像高一九七センチ、両袖の幅二一〇センチという巨大な閻魔王の忿怒像で、両脇に闇黒童子と倶生神の半跏像が置かれる。そのほか堂内に、三途の川にいるという葬頭河婆の像や、亡者の罪業の重さを量る秤まで配置され、冥界の雰囲気を造成している。本尊と脇侍の頭部内に「七条大仏師うんけいのながれ伝内作、天和二壬戌年十二月吉日」の墨書銘がある。
真教寺
しんきようじ
[現在地名]那覇市西二丁目
近世の西村の北西角に位置する。真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。一八八二年(明治一五年)湯屋の前の海岸四〇〇坪余を埋立てて布教所を設立、八四年落慶して東本願寺講義所とした。八九年には大谷派琉球別院と改称、九二年に至り真教寺と号した。創建者の田原法水は一八七六年に布教のため琉球に入り、身分を隠して布教したが、翌年一向宗法難事件が起こり信徒の多くが捕縛された。法水は本山に報告、ついで政府に現況を報告した。本山は小栗憲一を派遣して王府役人との折衝に当たらせた。
真教寺
しんきようじ
[現在地名]宇和島市本町追手一丁目
竜谷山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺の背後を辰野川が流れる。
「宇和旧記」によると、本尊(御影像)はもと三浦(現三浦西)の菜切(名切)の真教寺にあり、住職清閑の時に城下町に移された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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