改訂新版 世界大百科事典 「〓襄の乱」の意味・わかりやすい解説
襄の乱 (けいじょうのらん)
中国,明代の中期に湖北省北西部の山岳地帯を中心に展開した農民反乱。荆襄とはこの地域の中心都市荆州・襄陽の略称。明代も中期になると各方面の矛盾が顕在化してきた。租税・徭役の負担が増加する一方,租税の銀納化がすすんだ。しかし現物経済の域をまだ脱していなかった農村部では,銀経済にまきこまれた結果,農民の階層分化が進み,国家の収奪と商業高利貸資本の圧迫にたえきれなくなった農民は多く家をすてて流民となった。流民たちは封建的支配組織が未発達で,未墾の原野の残っていた荆襄地帯に集中し,山地の開墾を始めた。明王朝はこの地帯を禁山区(立入り禁止の山区)としていたので,こうした開拓民を武力で山外に追い出し,原籍地へ帰らせようとしたので反乱が起こった。第1次反乱は劉通(別名劉千斤)の乱(1464-66)といい,第2次は李原(李鬍子(りこし))の乱(1470-71)という。反乱の鎮定は成功せず,結局は原傑の策を用いて,この地に鄖陽府(うんようふ)を設置し,流民を現地に定住させ,新しい戸籍に編入することによりようやく反乱はおさまった。
執筆者:谷口 規矩雄
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